キリスト教に惹かれる玉子|明智光秀と愛娘、玉子(19)
だぶんやぶんこ
約 2933
細川興秋が生まれた時、味土(みど)野(の)に呼んだのが、清原マリア。
玉子は、清原マリアが好きだった。
父は公家、清原(きよはら)枝(えだ)賢(かた)(1475-1550)。キリシタンだった。後に棄教するが。
曽祖父は、高名な国学者・儒学者、清原宣賢。
祖父の妹が、義祖母、智慶院。藤孝の母だ。
智慶院は、将軍、足利義晴に仕え、身ごもった後、三淵晴員と結婚したと、藤孝は信じている。
藤孝が、秀吉重臣の一人となり、相応の大名となったのは、将軍、義昭と縁が深かったのが大きな要因だ。そして、母、智慶院は、将軍、義晴の愛を得るにふさわしい女人だったことも誇りだった。
それゆえ、清原家を大切にした。
義母、麝香も、清原家の教養の深さに驚いており、尊敬し一門のように親しくした。そこで、清原マリアを手元においたのだ。
養女とし嫁がせても良いと思っていた。
その縁で、玉子は出会い、召し抱えるようになった。
玉子と清原マリアは、味土(みど)野(の)でゆっくりじっくり話した。
清原マリアの深い見識は、玉子も驚くほどで、頭の良さに感心するばかりだ。
学者の家に育つと、学問と友だちになるのだと。
しかも、敬虔なキリシタンだった。
玉子もキリシタンになる人が増えていることは聞いていた。
キリスト教は当時、新しい文明文化をもたらすものと捉えられ、多くの知識人が興味を持っていたからだ。
細川家中にも興味を持つものは多かったが、玉子はさほど興味を持たなかった。
義父、藤孝を尊敬し、嫁いだ以上細川家の宗派、臨済宗を信仰すべきだと考えていたからだ。
だが、閉ざされた世界、味土(みど)野(の)では、時間を気にすることなく清原マリアと話し続けることができた。すると、新しい世界が見えた気がしたのだ。
父、光秀の生き様、この世の無慈悲、細川家に対する恨み、などなど、尽きることなく話し、次第に心が洗われ、未来への希望が生まれるのを感じた。
キリスト教が教える世界は魅力的だった。
清原マリアは、義父、藤孝の母の実家、公家の清原家の出身であり一族にキリスト教信者が多かった。父、清原国賢も洗礼を受けている。
父からキリスト教について学び、キリシタンとなった。
光秀の娘として大きな心の傷を持つ玉子は、心の平安を保つ信仰が必要だった。
清原マリアとの対話に、光を見た。
そして、玉造屋敷に戻った。
新しい文明・文化を知り、珍しいもの、技術的に優れたものを手にしたいと思う。父、光秀が大好きだった世界だ。
キリスト教は世界に通じ広がっていた。価値観・教義に共感できることが多かった。
きっちりと学びたいと思い、細川屋敷に戻り、本格的に学び始める。
忠興も、キリスト教に親しみを覚えている。
忠興の友、高槻城主、高山右近や池田家、前田家など秀吉を支える大名やその家族など友や親しい同僚に多くのキリシタンか同調者がいたからだ。
屈託なく付き合い、宮津城で、歌会を開いたりする時、呼ぶこともあった。
そんな時、玉子は、細川家の奥の主として接待する。
美貌はもちろん、博学多才で存在感があり、細川家と交友のある者は皆、玉子と親しくなることを望んだ。
高山右近もその一人だった。
なぜか、意気投合するところがあった。
すべてが、父、光秀の起こした本能寺の変で変わってしまったが。
明智家は真言宗であり、細川家は臨済宗を信仰している。
そのため、玉子は、臨済宗を信仰していた。
だけど、光秀死後は、満たされない思いが募り、信仰心は失せていた。
玉造屋敷で、玉子は清原マリアに連れられて密かに教会を訪れ教会・神父・教えを自分の目で確かめていく。
何事も自分の目で見て、学び、納得しなければ前に進まない慎重な性格だ。
だが、忠興は、キリスト教を認めても、信仰する気はなかった。
味土(みど)野(の)から戻った玉子との暮らしに満足していた。
だが、言動に自分と離れていく様子を感じた。
そして、密かに外出していると知る。
玉子が危険の中に飛び込んでいく恐怖を感じ、外出を制限していく。
玉子も、忠興と激しい言い合いをすることもあり、家中に心配をかけたくなく、大人しく従う。
だがキリスト教学べば学ぶほど、知れば知るほど新たな興味が生まれ、疑問が出る。
そこで、神父に書状で訊ね、清原マリアが答えを受け取り、玉子に届ける、繰り返しが始まる。
キリスト教を学ぶのがますます面白くなる。
玉子が熱心にキリスト教を学ぶと、侍女達も学び敬虔なキリシタンになっていく。
玉子の静かに説く言葉は美しく、侍女たちを魅了した。
1587年、秀吉は、天下人、関白として、聚楽第を築き天下に号する。
忠興らにも聚楽第近くに屋敷地を与え住まうよう命じる。
忠興は、率先して、聚楽第に屋敷を建て、細川家の主な屋敷とし移る。
だが、玉子は動かなかった。
多羅姫を身ごもっており、慣れた屋敷で生みたいと願い、忠興も了解した。
以後、忠興は丹後宮津城・大坂玉造屋敷・京聚楽第屋敷を、後には伏見屋敷を、その時その時に応じて移る。
忠興の主たる住まいが聚楽第屋敷となり、玉子と離れ、玉子は自由になる。
監視の目は厳しくなるが。
そんな時、秀吉が、禁教令を発令することを知る。
宣教師が大阪を退去させられるかもしれないのだ。
すでに、玉子は、洗礼を受けると決めていた。
宣教師がいなくなれば難しくなると、その前に、洗礼を受けると決意した。
そんな時、高山右近らが、棄教せず、武士の身分、領地、資産をすべて捨てて、隠棲すると知る。
彼らは、玉子の側を離れてしまう。
そして、忠興は、キリスト教を拒否すると決めた。
玉子は、たとえ、離縁となり、たった一人で、信仰の暮らしに入ることとなってもこの道を進むと決めた。
まず、清原マリアや侍女たち17人に大坂教会で洗礼を受けさせた。
その上で、多羅姫が生まれる直前、清原マリアを通じて玉子は洗礼を受けた。
単独で屋敷を出ることができなくなっていた玉子は、屋敷内で洗礼を受け、ガラシャ(神の恵み)という洗礼名となる。
発する言葉に重みがあり、わかりやすくつい引き込まれる魅力が、より研ぎ澄まされていく。
玉子は子達のみならず、細川一族や侍女・家臣・縁者にも信仰を伝え、キリシタンとして影響力を広げていく。
この時出された秀吉の禁教令は、宣教師の布教活動の制限・国外退去だった。
秀吉は、外国商人による南蛮貿易は認め奨励しており、商人と宣教師の見境がわからず、どこで線を引くか難しく、結局、形だけで終わる。
大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要との命令だった。
だが、秀吉の命令に沿って申し出るものはいない。
秀吉は暗に棄教を命じていたからだ。
キリシタン大名であった黒田孝高は棄教。
高山右近は、信仰のために地位を捨てる。
小西行長や有馬晴信のように何も変えず言わずキリスト教信仰を続ける。
まだ、それぞれがそれぞれの道を進む事ができる、悠長な禁教令だったが、真面目で一途な玉子は、キリシタンになることを急いだ。