直虎と瀬名姫(築山殿)|井伊直虎を彩る強い女人達。(1)
だぶんやぶんこ
約 9382
直虎が、井伊家を残すために苦汁の日々を送り、家康に託したが為に、井伊家は大きく花開いた。
直虎は、直政の母となり、衰退した井伊家を蘇らす。
直虎の生きざまと、それからの井伊直政を、そして、井伊家を綴る。
この間の井伊氏の目まぐるしい変化、大出世は、はてな?の連続だ。
井伊家は、始まりから、はてな?の連続で、驚異と奇跡に満ちて、惹きつけられる。
1510年誕生の井伊直平の娘、直の方。
1543年誕生の家康の妻、築山殿。直の方(直虎の祖父の妹)の娘。
今川義元の母、寿桂尼。
直虎の母、千賀(友椿尼)。
直虎許嫁、直親の妻、奥山氏・ひよ。
直虎の養子、直政の妻、家康養女の花姫。
井伊家を蘇らせるために重要な役割を担った女人たちが、直虎の周りを彩る。
男子として育った直虎は、武将が大好きで直虎の周りを彩る。
1479年、曾祖父、直平、誕生。1563年、84歳で無念の死。
1492年、祖父、直宗、誕生。1542年、50歳で討ち死に。
1495年、大叔父(祖父の弟)庶子、南渓瑞聞、誕生。1589年、94歳で亡くなる。
1506年、父、直盛、誕生。1560年、54歳で討ち死に。
1535年、直虎許嫁、直親、誕生。1563年、28歳で殺される。
1500年、直親の父、直満(直宗の弟)誕生。1545年、45歳で無念の死。
自然の流れとはいいがたい生死だが、井伊家では不可思議なことは当たり前。
10代半ばで父となった直平と直宗がおり、予期しない死を迎える当主が多い。
直虎は、荒海に身を投じて、思う存分に生きて、散る、逞しい井伊家の血筋が脈々と流れているのを感じながら生きた。
楽天家で、危機管理の甘いところもあるが。
それゆえ井伊家の血筋を受け継ぐ直虎は、想像を絶する状況下でも、あきらめることなく、見事に井伊家を再興させた。
井伊家に迫る存亡の危機。
やむなく直虎は、井伊家を守る戦いに立ち上がる。
祖父の妹、直の方(家康の妻、瀬名姫の母)を心の支えとし、直政を守り家名・伝統を引き継がせ、井伊家の反転上昇の機運を創る。
そして、井伊家の飛躍を家康に賭ける。
揺るぎない信念を持ち続け、大きな実を結ばせる。
井伊家、発祥の地は、遠江井伊谷(静岡県浜松市)。
だが、井伊家は、譜代大名筆頭、彦根藩35万石藩主として、幕末を迎える。
井伊家を遠江井伊谷から彦根に移したのは、徳川家康。
豊臣秀吉が亡くなり、豊臣家の天下を守る為に豊臣家を軽んじる家康に対し、石田三成は毛利輝元・宇喜多秀家を大将に祭り上げ、天下分け目の戦いを引き起こす。
家康を相手に真っ向勝負を挑んだのだ。
だが、三成は、完璧に敗れ、殺された。
家康は、実質大将として戦った三成の本拠、佐和山藩18万石を、井伊直政に与えた。
戦功への恩賞と豊臣家を乗り越え家康の世を築く為の期待を表している。
三成は、名君として領内の信望熱く、領民は光秀・秀吉を慕い、三成を無残に殺した家康に強く反発していた。
直政は、家康への恨みが渦巻く難しい地を与えられ、試されたのでもある。
家康に仕えて以来、直政は、通常では成しえない重い任務を次々命じられた。
それでも、驚異的な力でやり遂げ、井伊家を大成させる。
その直政を育てたのが、直虎。
1 直虎と瀬名姫(築山殿)
1569年初め、直虎は井伊谷城に戻った喜びをかみしめながら頂上まで登る。
標高114m、城下から34mの高さにある小高い丘のような優しい平山城だ。
城下が一望でき、緑あふれる豊かな領地を見続ける。
家康の占領下での形だけの城主だが、それでも、直虎が城主として返り咲いたことを祝福しているようだ。
この城を、井伊家の本拠として守り抜くと天に向かって、話しかける。
家康は本拠を、浜松城(曳馬城)に移す意向と知る。
目指すは駿府を手に入れることであり、武田信玄との戦いを想定してのことだ。
それでも、遠江の価値を家康が認識して決めたのだと誇らしい。
そこに、瀬名姫の存在を感じる。
瀬名姫も喜んでいることだろうと思う。浜松城は、瀬名姫の故郷に近い。
瀬名姫が浜松城に移れば会いに行きたい。
家康に従うと決めた時、瀬名姫を思い描き、手を差し伸べていてくれる気がした。
瀬名姫の夫が家康であり、近い親戚として井伊家を重んじてくれると信じた。
実際、家康は瀬名姫の縁者、直虎の意向を大切にしてくれた。
瀬名姫への感謝を日々忘れず、心の支えとした。
瀬名姫とは話すことも連絡を取り合うこともないが、遠江を代表する姫だと尊敬した。
井伊家と瀬名姫との繋がりで、奪われた井伊谷城に戻る事が出来たのだ。
だが、家康の野望は、三河の盟主から今川氏の後継となり駿府を支配、その次も、射程内に入れるほど広がっている。
井伊家など取るに足らない国人領主だ。
家康が遠江に本拠を置き、遠江への支配力を強めようとしているのは間違いなく、井伊家をどう扱うつもりなのか、不安もある。
井伊谷を家康の直轄地とし井伊氏は配下の一家臣となり下がるか、武家の名門、井伊氏として井伊谷の支配を認めるのか、わからない。
岡崎城に居る瀬名姫。
瀬名姫は、直虎の祖父、直宗の妹、直の方の娘だ。
井伊家を背負い人質となった曽祖父、直平の娘、直の方は、都とも見間違う華やかで文化の香りに溢れた駿府城で育ち、美貌に磨きをかけた。
そして、教養を深め、氏輝・義元・関口義広と三人の武将に愛された。
だが、義元の子、氏真は、家康の裏切りの責任を取れと関口義広に死を命じた。
1562年、直の方は、最後の夫、義広との愛を貫き、二人仲良く自害して果てた。
氏真に対して一歩も引かない気丈な井伊家の姫だった。
2人の間に生まれたのが、瀬名姫。
対外的には、直の方は義元の姉とされ、娘、瀬名姫は義元の姪になり、義元養女として家康に嫁いだ。
氏輝・義元の父、今川氏親(1473-1526)には多くの子が生まれた。
男子は少なくとも4人。娘(義元の姉妹)は6人。
正室が、中御門宣胤の娘、寿桂尼であり、子たちの行末に大きく関与するが、全てが我が子ではない。
長女、徳蔵院は、足利一門、三河西条吉良氏(上吉良)、吉良義堯と結婚。
吉良氏は、足利将軍家に次ぐ家格を持つ足利氏御一家の筆頭。
三河国幡豆郡吉良荘(愛知県西尾市吉良町)を本拠とし、周辺に多くの領地を持つ。
義堯は、1516年、父、吉良義元が亡くなると祖父、吉良義信から家督を譲り受ける。
遠江国浜松荘(静岡県浜松市)は南北朝時代から吉良氏の領地だった。
吉良氏は、家臣、飯尾賢連に曳馬城(浜松城)を与え、浜松荘を治めさせた。
だが、吉良氏は、飯尾氏から、家老、大河内貞綱・巨海道綱兄弟に変え、曳馬城(浜松城)を与え治めさせた。
まもなく、駿河今川氏が浜松荘に侵攻してくる。
大河内貞綱は、遠江守護、斯波氏と結んで、追い返そうと戦う。
吉良氏により、曳馬城(浜松城)を取り上げられた飯尾賢連は、吉良氏を裏切り今川氏に加勢した。
飯尾勢を味方につけた今川氏親は、優勢に戦いを進め、1517年、大河内貞綱は曳馬城(浜松城)を奪われ自らも討ち死にした。
こうして、飯尾賢連は今川氏親の家臣となり、曳馬城(浜松城)を得て、浜松荘を統括する。
反対に、吉良氏は遠江の所領を失った。
今川氏親は、吉良義堯と娘を結婚させ、娘婿を引き継いで、庇護者として浜松荘を支配することを、大義とする。
吉良氏を受け継ぐ形で、浜松荘を支配するための政略結婚だった。
吉良氏の分家、今川氏には、吉良氏は格上となり、吉良氏を追い出す大義が必要だった。
二女は、公家、中御門宣綱(1511-1569)に嫁いだ。
中御門家は、天皇の側近であり、朝廷内で重要な位置を占める家柄であり、幕府と今川家を強く結ぶための結婚だ。
今川家の意向を幕府が受け入れ、後ろ盾になる構図が今川氏にとって益があり続けるべきだと決めたのだ。
中御門宣胤の娘、寿桂尼の存在があることで朝廷・幕府との調整がうまく言っている。幕府の了解を得て氏親は、思うように領地を広げることが出来、中御門家との縁を大切にした。
母、寿桂尼の甥であり、いとこ同士の結婚だ。
寿桂尼は、自分の子でなくても、次々、氏親の子たちが生まれるのを喜んだ。
実家の資金的支えになっており、嫁いだからには今川家を飛躍させたい夢があった。
そのためには結婚政策は非常に重要であり、子たちを要所要所に配して今川家を飛躍させようとしていた。
ところがまだ幼い子達を残して、1526年、氏親が53歳で亡くなる。
13歳の氏輝を当主とするがまだ幼く、実質、寿桂尼が子たちの結婚も含めて、今川家を率いることになる。
三女は、1515年の生まれだが、氏親が婚約を進めていた。
そこで、まだ幼いが、竹谷松平家(愛知県蒲郡市竹谷町)松平親善に嫁ぐ。
家康の実家、松平家との縁をつないで、三河での勢力を確保するためだ。
1485年生まれの松平親善とは30歳の年の差がある幼な妻だった。
結婚して数年後の1531年、松平親善が亡くなる。
再婚先を、寿桂尼は、三河の有力国人、鵜殿家宗家の嫡男、鵜殿長持とする。
鵜殿家をより強固に今川方とし、三河で今川氏の力を広げるための政略結婚だ。
1513年生まれの鵜殿長持は、今川家との縁を喜び、うやうやしく迎えた。
1532年、嫡男、長照が生まれる。
今川家の、寿桂尼の期待に応えたく、分家を率い皆今川氏配下とし、忠誠を尽くす。
寿桂尼の子ではなく庶子だ。
四女、瑞渓院は、1535年、北条氏康に嫁ぐ。
戦いと和議を繰り返していた今川家と北条家が同盟を結んだ時の条件だ。
両家の安泰と飛躍のために、必要不可欠な価値ある結婚となる。
寿桂尼が心を込めて育てた愛娘であり、北条氏との同盟で背後の憂いをなくし、今川氏が飛躍するための大きな役目を瑞渓院が担う。
その後、同盟が決裂しても瑞渓院は、微動だにすることがなかった。
7人の子を生み続け、北条家の束ねとなる。
政略結婚から始まった結婚だが、自らの意思で今川家を守り続け、北条家で力を持つ。
1536年4月7日、今川当主、氏輝が、亡くなる。
寿桂尼は、嘆き悲しむも、氏輝の弟、義元を後継にするしかないと思い定める。
ところが、庶子の玄広恵探が義元の兄だと、後継者に名乗りを上げた。
ここから、家督相続をめぐり熾烈な争いがおこる。
寿桂尼の子、義元と庶子の兄、玄広恵探との家督争いだ。
玄広恵探を擁すのが、遠江を統括し遠江の国人衆をまとめた福島正成。
福島正成の娘が、母だったためだ。
遠江今川氏(堀越氏)を頂点に井伊氏を含めた遠江衆の支持を得て、立ち上がった。
遠江守護でもあった遠江今川氏が、この地の最高の家柄だ。
同族の駿河守護今川氏に、屈して以後、宗家は堀越家を名乗る。
堀越氏、貞基は、玄広恵探を推す。
だが、堀越氏から分家した瀬名氏、氏貞は義元を支持し分かれた。
堀越氏、貞基対瀬名氏、氏貞との戦いにもなった。
氏貞は玄広恵探支持派の一角を切り崩す大活躍で、義元勝利に貢献した。
勝利した義元は、遠江今川氏(堀越氏)を憎み冷遇し、瀬名氏を遠江今川氏の宗家扱いとする。
寿桂尼は、恩に報いる為に、五女を、氏貞の嫡男、氏俊に嫁がせた。
堀越貞基の義父は、北条氏綱。
氏綱は伊豆・相模・武蔵半国、下総の一部そして駿河半国を支配する関東の大大名になっていた。
その氏綱が玄広恵探を推し、婿、堀越貞基は同調し玄広恵探を擁して戦いに参陣した。
その動き知った寿桂尼は、娘、瑞渓院の結婚で結ばれた今川家との約束を守るよう激しく北条氏綱に迫った。
瑞渓院は、夫、北条氏康に働きかけ、氏綱も嫡流、義元支援に変えざるをえなかった。
氏綱が反対派に回ると、堀越氏の動きも鈍り、福島正成・玄広恵探は敗れ殺される。
六女は、小笠原春義(-1572)と結婚させた。
小笠原春義は、信濃守護、小笠原貞朝の孫になる。
小笠原貞朝の正室は、武田氏。祖母だ。
生まれた父、長高(1488-1544)は、嫡男だった。
ところが、貞朝は、同盟を結んだはずの武田氏と対立していく。
正室、武田氏が亡くなると、愛する海野氏の娘との間に生まれた長棟を後継とした。
父、長高は追われた。やむなく、正室、吉良氏の娘の実家を頼る。
以来、吉良氏に仕える。そして、春義が生まれた。
1536年、高天神城主、福島正成が決起した時、吉良氏は玄広恵探を推す。
だが、小笠原長高は、吉良氏を裏切り、義元を擁して戦う。
福島正成と奮戦し、討伐し、変わって高天神城主となる。
寿桂尼は、義元を当主とするために大きな功績のあった春義を褒め称え、娘と結婚させた。
以後、春義は、今川家重臣となり、遠江小笠原氏当主になる。
こうして、娘たちを結婚させ、縁戚網を築き、今川義元を守る。
娘の数のうちには入らないが、寿桂尼が娘とし、義元が姉として遇した直の方がいた。
直虎の祖父の妹だ。
寿桂尼は、義元が家督を継ぐためにその戦力を必要とし、長年戦った武田氏との和議を申し出て味方とした。
後継者争いを制した義元が家督を継ぐと、正式に和議を結ぶ。
その和議の条件が、信玄の姉、定恵院と義元の結婚だった。
義元には、愛する直の方がおり、その処遇に困った。
そこで、瀬名氏俊の実の弟であり、瀬名氏分家、関口家に養子入りした関口義広に下げ渡すことに決める。
直の方は、義元の兄、先代、今川氏輝の妻だった。
氏輝とともに生きたが、氏輝が亡くなると、寿桂尼は義元に仕えさせ、愛を育んでいた。だが、定恵院との結婚が決まると自分は結婚の妨げになるとよくわかっていた。
関口義広(氏広)との結婚を了解し嫁ぐ。
この時、直の方を可愛がった寿桂尼は、今までの働きを褒め、娘として支度し嫁がせた。
義元擁立に、功があったとはいえ、家臣である兄弟(瀬名氏・関口氏)に、貴重な今川家嫡流の娘二人を嫁がせる事はありえない。
遠江今川家嫡流に準じるとした瀬名氏と今川家嫡流の姫とは、家格が合い、似合いの結婚だが、分家の関口氏は格落ちだ。
義元が駿府入りして以来側近となり、義元が家督を継ぐために懸命に戦った関口義広は、直の方を下げ渡すには適任だった。
義元も納得し、姉として嫁がせた。
こうして、直の方は関口義広に嫁ぎ、瀬名姫が生まれる。
義元は、瀬名姫を実の娘のように可愛がり、関口義広も本家、瀬名氏俊以上に厚遇され権勢を誇る。
直の方は関口義広似合いされ、仲睦まじく幸せだった。
井伊直平は、娘、直の方の波乱の生涯に複雑な想いだった。
人質に出した時は可愛そうでならなかったが、氏輝との出会い仲睦まじさを喜んだ。
だが井伊氏の飛躍を目論見、氏輝の死を喜んだが後継争いの戦いに負けた。
井伊家への制裁を恐れたが、次いで、義元に直の方が仕え仲もよく、ゆえに、玄広恵探に属した制裁も軽く済んだ。
だが、関口義広に下げ渡され、当初は落胆した。
その思いもあり、北条氏の今川領侵攻に味方し義元に敵対した。
またしても、敗北し、井伊家存亡の危機となるが、関口義広は井伊家のためによく働き、軽微な制裁で終わらせた。
直の方がおればこそのことだった。
後には、井伊家と義元を繋ぐ役目を関口氏一族が担う。
直虎は、直の方が要所要所で井伊家のために働き、救ったことを知る。
もちろん、直の方がいたゆえに井伊直平は野望を持ったことも知るが。
「直の方は井伊家の守り神のような存在だ」と羨望の念が湧いた。
瀬名姫が生まれたことを知らされ、直の方や瀬名姫の動向に興味を持ち続ける。
義元は亡くなり氏真の時代となり、今川家は危機を迎える。
それでも氏真は、瀬名姫を妹のように扱った。
直の方と結婚した関口義広の屋敷に、度々訪ねた義元のことを聞いていたからだ。
氏真は、裏切った武将の人質を無残に殺したが、裏切った家康の妻、瀬名姫親子を殺さなかった。
それどころか、1562年、家康からの人質交換の申し出を受け入れた。
条件は、血縁の薄くなっていた甥、鵜殿長照の子、13歳の氏長とその弟と、瀬名姫・信康・亀姫との交換だ。
三河の盟主として頭角を現している家康の妻と嫡男と第一の姫と、今川家一門に過ぎない鵜殿家の幼子たちだ。
他に人質も加えたが、氏真には条件が悪く、家康には願ってもない交換条件だった。
鵜殿家は、分家がすでに家康方となっており、近い将来、氏真を裏切るのが目に見えている三河の有力国人だ。
繋ぎとめる為の人質交換であり重要ではあったが、三河の状況は今川勢にとって救いようはないところまで来ており見捨てるべき状況だった。
また、力もない幼子の引き取りであり、この子達によって鵜殿家が強力な戦力になるわけでもない。
瀬名姫親子は、家康にとってとても大切な存在だ。
氏真のいとこでもあり、姉でもある、義元の養女、瀬名姫は、今川氏後継を自認したい家康には貴重な大義となる正室だった。
瀬名姫親子が人質として駿府に居る限り、家康は表立って今川領に攻め込めなかった。
氏真を守る貴重な盾となっていたのだった。
ところが、氏真は、簡単に家康の元に戻した。
瀬名姫親子を取り戻せば家康が今川攻めに突き進むことは目に見えていた。
だが、氏真は、母は違うが父が可愛がった瀬名姫を姉と思う優しい気持ちが働いた。
反対に、関口義広と伯母、直の方を憎んだ。
彼らは、義元から目をかけられたにもかかわらず、家康を取り込めなかった。
家康が裏切った責任を取るべきだった。
氏真にとっては、直の方は縁者ではなく、配下の井伊家の娘でしかなかった。
家康は武田氏と同盟を結ぶと、堂々と今川領に侵攻する。
後に、家康は、堀越氏、瀬名氏、関口氏を家臣として召し抱え、堀越氏、瀬名氏を名家と認め旗本とする。
だが、妻の実家でありながら関口氏を厚遇しなかった。
分家であり、意味のない家系と考えた。
氏真に命じられ1562年、関口義広と直の方は自害した。
関口一族、関口氏経は変わらず氏真に仕え、井伊家に付けられる。
直虎は、直の方に繋がると関口氏経を信頼し、氏経も信頼に応えた。
そして直の方に起きたこと、瀬名姫が人質交換で岡崎城に戻ったこと、すべて知る。
直の方が自害したことは、氏真の蛮行だが、家康が守ろうとすれば方法はあったかもしれないと思う。
家康が井伊家を、直の方を、引いては瀬名姫を軽く扱っていると思え、背筋に寒いものを感じる。
家康は、一つ一つ階段を上るように用意周到に氏真を追い詰めていた。
智謀の深さは並ではないことは明らかだ。
比べて、直親は、氏真に呼ばれ駿府に向かい殺された。
直親の死はやむを得なかったと受け入れざるを得ない。
この経緯を家康はよく知っている。
直の方・瀬名姫を含めて、家康は井伊氏の家系を重く受け止め、重用しようとしていないのだと、肝に銘じる。
後の事だが1579年9月19日、瀬名姫は殺される。
武田氏に内通したというのだ。
瀬名姫には二人の子が生まれている。信康と亀姫。
そのたった一人の娘であり、とても可愛がった娘、亀姫は、武田氏を裏切り信長・家康に従った奥平定能の嫡男、信昌に嫁いだ。
信長が、奥平定能が武田氏を裏切り信長に従った功に応えて褒美として与えたのだ。
だが、結婚の代償に人質として武田氏のもとに送られていた奥平一族は無残に殺された。
亀姫と信昌の仲は睦まじく嫡男も生まれ、瀬名姫は娘の幸せを心から喜んだ。
奥平信昌は、人質を殺した武田氏へすさまじい怒りを持っていた。
亀姫も同じように武田氏を憎み、瀬名姫も同じだ。
家康の武田攻めを応援していた。
瀬名姫が、武田氏に内通する必要もなく、亀姫同様に憎んでいたのだ。
なのに、いわれなき罪をかぶせて、家康は瀬名姫を殺した。
直虎は、家康の残酷さに息をのみ、瀬名姫の無念さを思い、涙した。
それでも、直の方・瀬名姫がいたからこそ、家康は、直虎・直政に一目置き、井伊家を守ったことは間違いない事実だ。
その程度のことだが、井伊家は残った。