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直虎と椿姫(お田鶴の方)|井伊直虎を彩る強い女人達。(2)

だぶんやぶんこ


約 8240

もうひとり、(なお)(とら)の心に残る美しい女人、椿姫(お田鶴の方)がいた。

駿河飯尾氏に嫁ぎ、曾祖父、直平を殺し井伊領を奪おうとした憎き敵だが、瀬名姫・(なお)(とら)の親戚であり血の繋がりを感じる、責任感の強すぎる愛すべき女人だった。

お田鶴の方の母の実家は、遠江今川氏一門の瀬名氏一族。瀬名姫に通じる。

父は、今川家重臣、大原資(おおはらすけ)(よし)(小原(しず)(ざね))。

義元の三河侵攻に大活躍し、東三河支配の拠点となる吉田城を得て、1557年頃から東三河を支配する。

大原氏は、近江源氏佐々木氏から始まり、足利将軍家で奉公衆(文官である高級官僚)となり、重きをなした家柄だ。

また一族には、甲賀五十三家の一つ、大原氏もいる。

忍者の頭領であり、火薬の扱いに秀でて、高い技術力を備えた軍事力を持っていた。

今川氏に呼ばれ、駿河に来た。

今川義元は、遠江支配の総責任者を松井宗信とし、東三河支配の責任者を大原資(おおはらすけ)(よし)・西三河支配の責任者が飯尾氏とした。

松井氏・大原氏・飯尾氏は協力しながら遠江を統治する。

だが、義元亡き後、今川家は揺れ動き、離反者が相次ぐ。

それでも、鎮実は、氏真に忠誠を尽くす。

人質を受け取っているのに離反する国人衆に怒った氏真は、1561年、大原資(おおはらすけ)(よし)に家康に従った東三河の国人衆の処刑を命じる。

鎮実は、やむなく人質14人を城下の吉田山龍拈寺(豊橋市新吉町)口で串刺しとした。

また、裏切った菅沼氏一門征伐も果敢に行う。

設楽郡の野田城(愛知県新城市)を攻め、城主、菅沼定盈を追い払う。

劣勢の氏真だったが、喜んだ。

駿河飯尾氏は今川氏から望まれて駿河に来た三善氏から始まる。

源頼朝の乳母、寒川(さむかわの)(あま)の姉が三善康信(1140-1221)の母になる。

当時、三善氏は、京に在し、京の情報を、寒川(さむかわの)(あま)を通じ、逐一頼朝に届けた。

その情報は的確で、蜂起に役立つ。

鎌倉幕府が成立すると、恩賞として各地の地頭職を得、力を持った。

三善氏は、続く、室町幕府でも奉行衆(高級官僚の文官)を務める家柄となり、将軍側近として権勢を誇った時もあった。

阿波国麻殖郡飯尾村を領した三善(のり)(ただ)が飯尾を名乗り京に在していた。

その一族が呼ばれ、駿河に移り駿河飯尾氏となった。

今川氏は、頼朝に従い鎌倉幕府創設に功のあった、頼朝の縁戚、足利義兼から始まっている。

頼朝は恩賞を与えると共に、義兼と頼朝の妻、政子の妹、時子との結婚を決める。

嫡男、足利義氏が生まれる。

義氏は政子の弟、北条家当主、義時の嫡男、泰時の娘と結婚する。

嫡男、泰氏が誕生する。

以後、順調に鎌倉幕府中枢に位置していく。

ただ、義氏には結婚前、吉良長氏(1211-1290)が生まれていた。

長男だが、嫡男には出来ない。

そこで、吉良長氏を庶子として分家させ、吉良氏を興させた。

長氏から嫡男、満氏が、吉良家を引き継ぐ。

長氏には、二男、国氏がいた。

非常に優秀で、嫡男の兄から三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町周辺)を得て分家し、今川氏を称する。

ここから、今川家が始まる。

足利氏の分家が吉良家。その分家が今川家。

今川氏は、国氏から基氏・範国へと続く。

範国は猛将で今川氏の勢力を拡大させ、1336年、遠江守護、次いで駿河守護も兼ねる。

ここから「(遠江・駿河に)今川氏ここにあり」と称される守護大名になっていく。

嫡男、範氏が駿河守護を引き継ぎ、泰範・範政・(のり)(ただ)と受け継がれる。

範国の次男が、類まれな英雄、貞世だった。

室町幕府開府に目覚ましい業績を上げ、遠江、駿河半国守護、備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねる圧倒的強さを持った。

貞世の家系が、遠江守護を継ぎ遠江今川家となる。嫡流が駿河守護だ。

時は過ぎ1455年、室町将軍、足利義政から範忠の嫡男、義忠が鎌倉公方、足利成氏討伐を命じられた。

鎌倉公方を統制下に置きたくても出来ない将軍家からのたっての命令だった。

武力も資金力もある義忠は、討伐に出陣し、将軍の長年の願いを実現した。

将軍は歓喜し、義忠と将軍との仲は極めて緊密となり、幕府内でも強大な力を持つ。

今川氏全盛時代の幕開けだ。

この頃、遠江守護、遠江今川氏(堀越氏)は斯波氏に守護を奪われ、今川義忠に庇護され、遠江守護奪還を目指す状況だった。

まもなく1467年、応仁の乱が始まり、義忠は将軍に乞われて上洛。

将軍警固の名目で、花の御所へ入るが、目的は、西軍、遠江守護、斯波義廉を追い落とすことだ。

将軍の後継をめぐる戦いだが、義忠の戦う相手は斯波氏だけと決めており、そのため東軍となり戦う。

井伊氏は、斯波氏に従う主力であり上洛し、西軍として戦った。

義忠は思い通りに、斯波(しば)(よし)(かど)を討ち負かし、翌1468年、遠江取り戻す自信が持って、

意気揚々と、駿河へ戻る。

以後、正式に遠江守護となるまでには時間がかかるが、優勢に斯波(しば)氏を追い詰める。

反対に、斯波(しば)(よし)(かど)を支えることで遠江の主力国人となった井伊氏は転落していく。

遠江国浜松荘の地頭が飯尾氏だった。

吉良氏の所有地であり、吉良氏に従い代官となり、実質支配した。

今川氏・遠江今川氏とは、領地を接しており、通婚もあり、友好な関係だった。

吉良氏は、今川氏とも斯波氏とも協調関係を保っていたが、今川氏と斯波氏の対立が始まると、次第に斯波氏に傾いていく。

飯尾氏は、今川氏・遠江今川氏に近く、吉良氏から追いやられていく。

今川義忠に従い、戦い、勢力を伸ばそうとすると、吉良氏に敵対していく。

1476年、斯波氏を押せ押せで追い詰めていた今川義忠が、不意を襲われ討たれ、飯尾長連も討ち死にした。

思いもかけない今川義忠の死で、今川勢は混乱し、飯尾氏も嫡男、飯尾賢連が引き継ぐも混乱した。

その時、吉良氏は、斯波氏を支持し、浜松荘を反今川氏の大河内貞綱に任せ代官とし、飯尾氏の権限を奪った。

飯尾氏忍従の時が始まった。

1501年、義忠の後継、今川氏親が成長し、体勢を立て直し遠江に侵攻を初めた。

待っていた飯尾氏後継、賢連(かたつら)も率先して従い、浜松荘を奪い返し奉行となり、再び支配する。

以後も、氏親に従い遠江平定のために戦い、功を上げ続ける。

1508年、ついに、氏親が遠江守護となる。

ここで、今川氏に非協力だった吉良氏は、浜松荘から追い出される。

飯尾氏は、吉良氏から今川氏へ、主君変えして、浜松荘を治める。

以後も今川勢の主要な軍事力の一翼を担い、戦功を上げ、1514年、曳馬城(浜松城)(静岡県浜松市中区)1万石を得た。

曳馬城(浜松城)は、お田鶴の方・瀬名姫の先祖になる遠江今川氏が築城した城だ。

ここから、遠江今川氏につながる駿河国庵原郡(いはらぐん)瀬名村(静岡県静岡市葵区瀬名)を本拠とする瀬名氏の与力となり、瀬名氏を支えつつ戦うことになる。

飯尾氏は、瀬名氏一門との縁組が続き一門となりつつ、賢連(かたつら)から乗連(のりつな)と受け継がれる。

義元は、遠江を治める拠点を二俣城(浜松市天竜区)とし、松井氏嫡流、(のぶ)(しげ)が2万3千石を与えられ支配する。

飯尾氏は、松井氏と協力し、西遠江を支配していくことになる。

また、義元は、遠江支配を円滑にすすめるために、松井(のぶ)(しげ)の嫡男、宗親と飯尾乗連(のりつな)の姫(飯尾連(いいおつら)(たつ)の姉)との結婚を決めた。

遠江支配は順調だったが、1560年、乗連(のりつな)は、桶狭間の戦いで義元と共に戦死。

義元亡き後、今川氏は衰退していく。

乗連(のりつな)の嫡男、飯尾連(いいおつら)(たつ)が後を継ぐ。

飯尾連(いいおつら)(たつ)は、義元の死で今川氏が急激に凋落していくとは思わず、後継氏真に従い、体制を立て直し、飯尾氏の勢力拡大にかける。

父の戦死は、戦勲になるとも考えた。

だが、氏真は戦功を称えるどころか、敗戦の責任を取れとばかりに矢継ぎ早に戦いの命令を出した。

その氏真の対応に、許せない腹立たしさを持つ。

そこに家康からの調略が始まり、1562年、今川氏を裏切り家康に傾きかけた。

氏真は、飯尾連(いいおつら)(たつ)氏の動きを疑い始める。

だが、遠江支配の為に、連竜はどうしても必要だった。

そこで、繋ぎ留め監視する為に、瀬名氏に縁あるお田鶴の方を選び飯尾連(いいおつら)(たつ)に嫁がせる。

お田鶴の方の父、大原資(おおはらすけ)(よし)(小原(しず)(ざね))に全幅の信頼を置いており、飯尾連(いいおつら)(たつ)を家康の調略から守り今川家に忠誠を尽くさせる役目を、大原資(おおはらすけ)(よし)と娘、お田鶴の方に与えたのだ。

お田鶴の方(1550-1568)は、まだ12歳。

あまりに可愛い可憐な新妻だったが、役目はしっかりと理解した。

夫、飯尾連(いいおつら)(たつ)は30歳年上で、再婚。

父以上の年齢の夫だった。

飯尾連(いいおつら)(たつ)は、新妻を愛おしみ、この後、しばらくは、家康と一線を引き、氏真重臣として戦った。

氏真は、結婚は成功したとほっとする。

そんな時、今川氏配下だった天野景泰・元景父子の裏切りが発覚。

氏真は、怒り、井伊勢らに討伐を命じた。

命令を受けた井伊直平は、やむなく、出陣した。

天野氏居城、八代山城(社山城)での戦いだとなり、その途中にある引馬城(浜松城)で休憩した。

お田鶴の方が、直平らの接待をし、和やかに歓談した。

その時、お田鶴の方は、直平が今川氏から離れようとしていると気付く。

そこで、直平に毒を盛る。

1563年10月5日井伊直平急死。

今川氏を守るため、何でもする決意の現れだった。

お田鶴の方は、氏真への忠誠心を身を持って示すが、夫、飯尾連(いいおつら)(たつ)は、冷静に周辺の状況を見る。

今川氏は追い込まれるばかりで滅亡は近いと確信し、1564年、家康の調略を、再び受け入れると決めた。

その動きを知った氏真は、裏切ったと怒り、飯尾連(いいおつら)(たつ)の居城、引間城(浜松城)を攻め落とすよう檄を飛ばした。

氏真の側近、三浦正俊や新野親矩を軍監につけて、井伊勢らが出撃する。

新野親矩を大将とした3000の軍勢が曳馬城に攻め込む。

だが、今川勢の士気は低く、氏真が檄を飛ばすほどには戦わない。

飯尾連(いいおつら)(たつ)は、ここで力を見せなければ絶滅するだけだと、必死の戦い振りを見せる。そして、勝利し、三浦正俊・新野親矩や井伊家重臣を討ち取った。

お田鶴の方は、必死で今川氏への臣従を願う。

飯尾連(いいおつら)(たつ)も、優位に和議が結ぶために戦っており、氏真への忠誠心は変わらないと言う。

こうして、お田鶴の方の助言を得て、降伏し氏真に従う旨、誓約し停戦した。

家康からの調略は続き、飯尾連(いいおつら)(たつ)も家康に従う旨伝えるが煮え切らなかった。

家康が出す条件は満足するものではなく、所領の安堵と、氏真との戦いの支援への確約が欲しかったのだ。

氏真は、飯尾連(いいおつら)(たつ)の動きを察知し、ますます怒る。

そこで、筆頭家老、朝比奈泰能を総大将にし、再び精鋭部隊を送り攻めた。

飯尾連竜は防戦するも、家康の支援はなく、追い込まれるばかりで、城は守ったが、再び、今川家に忠誠を誓い和議を結ぶ。

自分は無実だという起請文を送り朝比奈泰能はそれを受け取り退いた。

お田鶴の方が、氏真を裏切らないよう懇願し、取次いだ。

飯尾氏が家康へ内通した疑いを持った1562年以来、氏真は瀬名氏を取次役とした。

お田鶴の方の実家に通じ、主家筋になり適任のはずだった。

瀬名氏は、飯尾連竜に氏真への忠誠を誓約させたが、飯尾連竜は氏真の命令に従わず、氏真は納得しなかった。

瀬名氏が曳馬城(浜松城)築城主の子孫であり、お田鶴の方の存在もあり、飯尾氏は素直に従うはずだったが、口先ばかりで中身が伴わない。

氏真は、瀬名氏では役不足だと、松井(むね)(ちか)に和議の使者を命じる。

氏真が遠江支配を任せた二股城主、松井(むね)(ちか)のもとにも家康からの使者が度々来ていた。

家康に傾いている(むね)(ちか)だが、氏真の命令を受けて、飯尾氏と和議の条件を詰める。

そして、氏真の娘と飯尾連(いいおつら)(たつ)の息子、辰之助との結婚を条件にいれ、飯尾連(いいおつら)(たつ)に氏真に忠誠を尽くすことを誓わせた。

一方、お田鶴の方の父、大原資(おおはらすけ)(よし)も、家康勢の攻勢が強まると守勢となった。

必死で防戦し吉田城に籠もる大原資(おおはらすけ)(よし)だったが、包囲され、進退窮まる。

1565年、家康に吉田城を開城引き渡した。

ここで、今川氏は三河の支配権をなくす。

追い詰められていく氏真は、駿府城で二人を引き合わせたいと飯尾連(いいおつら)(たつ)親子を招く。

飯尾連(いいおつら)(たつ)は、氏真の行状をよく知っており警戒し、駿府城入りを躊躇した。

だが、結婚を受け入れた以上、対面は必要なことであり断れない。

やむなく、(むね)(ちか)に身を守って欲しいと願い、側にいることを条件に、嫡男を連れて駿府入りした。

氏真と友好に主従関係を結び、今川一門に名を連ねる婚約への礼での対面のはずだったが、氏真は会うことがなかった。

待ち構えていたのは、氏真の刺客だった。

1566年1月11日、飯尾連(いいおつら)(たつ)は、嫡男、辰之助と仲介した松井(むね)(ちか)と共に駿府城内で謀殺される。

氏真は、松井(むね)(ちか)も裏切ったと見なし、同時に二人共抹殺したのだ。

松井(むね)(ちか)もあっけなく殺され、飯尾連(いいおつら)(たつ)の願いを果たすことが出来なかった。

お田鶴の方は、夫、飯尾連(いいおつら)(たつ)が殺されたと知り、自らの力のなさを責めた。

今川氏と飯尾氏を繋ぐ努めを果たせず、最悪の結果となった。

ここで、氏真は、(なお)(とら)のように、お田鶴の方を城主に任命した。

お田鶴の方は、今川家の誇りを守り次男を育て引き継ぐと、覚悟し、女城主となり、家中を率いる。

家康は、(ひく)()城(浜松城)を今川攻めの拠点にすると決め、再々臣従を申し入れた。

だが、お田鶴の方は、返事を延ばした。

家康はしびれを切らし「井伊谷城奪還支援の代償だ」と、井伊家に家康勢先鋒として、戦いに出陣し、飯尾氏から城を奪い取るよう命じた。

(なお)(とら)は複雑だが、家中は曾祖父、直平の仇を討つと出陣した。

お田鶴の方は、主君、氏真と夫、飯尾連(いいおつら)(たつ)の遺志を思い、行くべき道に悩み続けた。

だが、(ひく)()城(浜松城)が取り囲まれ、落城も時間の問題となった時、生き残って井伊家の配下に着くことは、飯尾氏の誇りを捨てることであり拒否する。

氏真から攻撃を受けた時、夫、飯尾連(いいおつら)(たつ)は臣従すると申し出たにもかかわらず、家康は救援の兵を送らなかった。

見捨てられた苦い思いがある。

その後、氏真に臣従したり、対応が二転三転したこともあり、家康は不信感を持っており、臣従してもいばらの道しかない。

進むべき道は、今川家一門として潔く美しく死ぬことしかないと覚悟を決める。

この時点では、救いは武田氏だった。家臣に武田氏の元に行くよう送り出す。

お田鶴の方に命を預けた家臣だけが、城に残る。

最後通牒となったのが1568年12月24日。

家康家臣、松下常慶(直政の母、ひよが再婚した松下清景の弟)、後藤太郎左衛門が、使者となり、お田鶴の方に「これが最後、降伏されるべきだ」と求めた。

だが、お田鶴の方はきっぱりと拒否した。

その夜、酒井忠次と石川数正が攻め込む。

城を守る軍勢は、850人余り、お田鶴の方が指揮を執る。

戦いぶりは見事で、家康勢300人を倒し、酒井忠次と石川数正を敗走させた。

翌日、体制を立て直した徳川勢が更に強力に攻め込む。

飯尾勢は必死で戦うも、兵は残りわずかとなった。

お田鶴の方は「最後の時が来た」と、侍女18人を引き連れ、討って出て、華々しく戦い、全員、討ち死にした。

お田鶴の方は、濃く明るい赤色が映える()(おどし)の鎧と兜を着て薙刀を振って、敵陣に突っ込んだ。

侍女も同じ格好で、付き従い戦った。

皆、絵になる美しさであり、戦いぶりも見事であり、散るのもまた潔かった。

後世に語り伝えられる。

お田鶴の方は、曳馬城(浜松城)城主となって二年、城を守り抜いたが落城した。

この話を聞いた瀬名姫は、声を上げて泣いた。

お田鶴の方は、まだ18歳の若さだった。

生かしてやりたかった。

(なお)(とら)は、小野政次から井伊谷城を取り戻した頃だった。

直平を殺したお田鶴の方を討取ったと、霊前に報告する。

直平はただ笑っているだけのようだった。

直平の晩年を支えたのは飯尾氏の女人だった。

油断し、お田鶴の方に言ってはならないことを言ったのも事実だった。

心のどこかで、見事な生き方をしたお田鶴の方を褒めた。

天性の美貌と体力と知恵を持った女人だった。

武者姿が似合う美しい容姿、武芸を修練した戦いぶり、度胸とたくましさを併せ持ち家中を率いた統率力、すべてに胸ときめかし、応援するところがあった。

戦国の世、善悪の判断は難しい。

時々の状況に応じて、瞬時の判断で、生き残りを図らなければならない。

その判断が正しかったとは思えないが、お田鶴の方が決めたことだ。

実家のため、氏真のため、飯尾家のため、に役に立つことを使命と信じ、ひたすら生きた短い人生だった。

城主、お田鶴の方を慕う人達が、小さな(ほこら)を立て、お田鶴の方を祀った。

その話を聞いた瀬名姫は、椿を植えるよう命じ、100本余りの椿が植えられた。

瀬名姫の想いが届いたように、その後、毎年「椿」が美しく咲く。

(ほこら)にお参りする人々は、お田鶴の方は「椿姫」だと愛情込めて話すようになる。

お田鶴の方の見事な生き様に感銘する人々は「椿姫観音」だと篤い思いを込めて参る。多くの参拝者が訪れるようになる。

曳馬城(浜松城)は家康の居城となり、舅、今川家(瀬名姫の養家)を引き継いだと自認する家康の晴れがましい出世城となる。

二俣城は家康嫡男、信康を切腹させた城になる。