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直虎と直政|井伊直虎を彩る強い女人達。(3)

だぶんやぶんこ


約 5988

1569年、今川氏真は北条氏を頼り、駿府城を明け渡し、駿河を去り、戦国大名としての今川氏は滅亡した。

直虎に立ちはだかった小野政次は亡くなり、氏真も去ったのだ。

緊張の連続で息が詰まるほどだったが、大きなヤマを越した。

直虎は、気が抜けたようになりながらも、笑顔がこぼれる。

井伊谷城を取り戻し井伊城屋敷に落ち着くと、直政8歳を鳳来寺から呼び戻す。

直政の母、ひよは、家老、松下清景と再婚し直政も養子となっていたが、それは、今川氏・小野氏の追及を逃れる為だった。

もう、気にすることではない。

直政が井伊家後継として家中を率いる力があるかどうか確かめながら、我が手で育てようと、時期が来るのを待っていた。

いよいよその時が来た。期待が高まる。

今まで、直政の命を守ることに必死で、能力を冷静に見る余裕はなかった。

(なお)(とら)は、33歳。

後継を決めるには遅いくらいだと、気を引き締めて直政を迎える。

直政は、緊張しつつも堂々と現れた。

「井伊家の血が流れている」と一瞬で閃めいた。

識者に引き合わせ直政の能力を見極めるよう命じる。すぐに、並外れた知力・体力を持っていると報告を受ける。

しばらくすると、お互いの緊張が解け、日々のありふれた出来事から、次第に会話が弾むようになる。

実の親子ではないが、親子のような感覚を感じ、とても楽しく興奮する。

井伊家の歴史を分かりやすく、そして受け継ぐのは直政であること、その責任の重さを説いて聞かせ始める。

「((なお)(とら)の)養子となり井伊家を継ぐのです。わかりましたか」と念を押す。直政は「必ず、母上の思いに応えます」と嬉しそうに答えた。

こうして、(なお)(とら)が父に教わったように、自ら武芸や帝王学を教える時が来た。

母子の時間の始まりは、充実し力がみなぎる。

日に日に、直政は、逞しい武将になっていく。これで井伊家は安心と笑顔が溢れる。

時は戦国時代、戦は続いていた。

家康と信玄のせめぎあいとなり、信玄は家康勢の一角を占める井伊谷に侵攻してくる。

井伊家だけで立ち向かえる相手ではない。

家康から軍勢が派遣されることもない。

1572年、武田勢侵攻が押し寄せた。

(なお)(とら)は、戦いよりも降伏を選ぶ。

家中に城を明け渡すよう命じた。

(なお)(とら)も、城を放棄し、家康の元、浜松城に逃げる。

直政を危険な目に会わすことはできない、守らなくてはならないと決めていた。

反撃は、家康の指示の下、行うべきであり、全てを家康に委ねる覚悟だった。

譜代の臣には、各自の領地を守り、兵力を温存しつつ信玄に臣従するように命じる。

こうして、武田氏に、井伊領を奪われてしまった。

(なお)(とら)は、井伊家当主ではあるが、領主ではなくなった。

井伊家当主としてふがいなく申し訳なく思うが、今は生き残ることが第一だった。

直政を側に置き自らの手で守るのは価値あることだと胸を張り、わずかの近習だけを連れて浜松城に入った。

付き従う、直政の近習は、(なお)(とら)が目をかけ我が子同様に接した若者たちだった。

小野氏を継がせた政次の弟、朝直の子、朝之。

一門筆頭家老、中野直由の嫡男、直之の嫡男、三考。

奥山朝宗の嫡男、朝忠。

徳川勢として戦い戦死した鈴木重時の子、鈴木重好。家康が付家老としていた。

彼らは皆、奥山朝利の孫だ。

奥山朝利は、用意周到に縁戚網を張り巡らし、井伊家の覇権を狙った。

だが朝利・嫡男、朝宗は、志半ばで亡くなり、影響力はなくなった。

(なお)(とら)の前に立ちはばかり悩ませ、苦しませた、許しがたい存在だったが。

直虎にとって小野氏は、身近な家臣であり、井伊家によく尽くしてくれた。

小野政次・朝直兄弟は、幼馴染であり、信頼し気に入っていた。

今川家の衰退と共に小野氏は自滅し最後の鉄槌は、(なお)(とら)が下したが望みではなかった。

朝之を引き立てることで、小野氏の今までの功に応えるたい。

中野直之は、家族も同然の親しい仲だった。

嫡男、三考も可愛い。

それぞれの親には、いろんな思い入れがあった。

今は、次代が引き継ぎ、皆、直虎のために目を輝かせて従う可愛い近習となった。

代々引き継いだ井伊家の人たちが直虎・直政のために、天から助けてくれていると思う。

直虎が逃げ込んだ浜松城。

井伊家を託した家康の居城、浜松城は、安心できる逃避地のはずだった。

だが、思いとは全く違い、騒然とし悲壮感が満ちていた。

武田勢が城めがけて戦いを挑んでくるとの情報があふれ、籠城か討って出るか、家中は大騒ぎだ。

武田信玄が攻め込んできたら、勝ち目はないと家中は身を固くしていた。

(なお)(とら)は、家康には運があり、直政は守られると信じていたが。

やはり、武田勢は、浜松城を襲わず、京に向けて進んだ。

家康家中は、ホッとしながらも、バカにされたようで複雑な心境だ。

(なお)(とら)は、緊張しながら成り行きを見ていたが、危険は去ったとほっとする。

だが、戦って勝機を見出すと覚悟を決めていた家康は、このままでは面子が立たないと、浜松城から出陣した。

三方ヶ原で武田勢の背後を襲うのだ。

信玄は、家康の動きを読んでおり、待ち構えていた。

1573年1月、家康は完敗し、命からがら浜松城に逃げ帰る。

意地を見せ、底力を振り絞って戦うはずだったが、完敗だった。

面目丸つぶれで情けないと落ち込んだ。

しばらく、城内は、陰鬱な状況となった。

(なお)(とら)は、落ち着いていた。

幾度も絶体絶命の窮地に追い込まれたが、立ち上がり立ち直っている。

家康は優秀な武将だ、必ず活路があるはずだと、確信できた。

直政や近習に負け戦とはどのような状態なのか、武将としてのあるべき姿は何かを学ばせる最高の機会を与えられたと、城内の様子をつぶさに見せる。

冷静に、信長・信玄の情報を集め、成り行きを分析する。

世の大きな流れの中に、井伊家・直政が居ることを感じ、井伊家の将来に御仏の御加護があるよう祈る。

三方ヶ原の戦いでの手痛い敗戦から4か月後の5月、武田信玄が亡くなり、武田勢は井伊領から退いた。

家康は、蘇り、怒涛の進撃が始まる。

(なお)(とら)は、再び、井伊谷城を奪い返す。

武田勢に無残に荒らされ放火された井伊谷は見るのもつらい状態だった。

今は井伊家の再興より、家康に従い戦う時と割り切り、雨風さえ凌げれば十分と気にするそぶりを見せず、焼け残った屋敷に入る。

「井伊家の本領を発揮する時が来ました。必ず勝ち進むように。出来るはずです」と家中の士気を高め、井伊勢の強さを見せつけるよう命じる。

温存させていた戦力を家康の為に、井伊家の為に、すべてつぎ込む。

こうして、武田勢打倒の戦いに家康勢の一翼を担う。

家康は、居城を放棄し逃げ込んできた武将には冷たい。全てをなげうって戦い、家康の支援・指示を待つべきだと考えた。

そのためもあり、(なお)(とら)と対面することはなかった。

(なお)(とら)もよくわかっており、まだ直政は幼い、家康と対面し仕えることを願うより、浜松城のすべてを直政らに見せ、学ばせ、家康重臣との縁を深める事がより重要と判断した。

(なお)(とら)主従が控えめに浜松城内にいると、家康は井伊谷城に戻る事を無条件に許可した。

居城を放棄した武将に再び城を与える時は厳しい条件を付けるが、なにもない。

井伊谷3人衆、戦死した鈴木重時の嫡男、重好・病がちな近藤康用から引き継いだ嫡男、秀用・菅沼忠久が城代となり政務を取り仕切ることが条件だが。

反転攻勢に出た家康の軍事・政治手腕は素晴らしかった。

(なお)(とら)は、その威力を見せつけられ、直政を預けるべき人だと、改めて深く思い定める。

家康も、井伊勢の華々しい戦いぶりを褒めた。

直政も激動の時代を生き抜く知恵を家康に見ていた。

尊敬の念を深め、家康の側に居たい、仕えたいとの思いを興奮して話す。

(なお)(とら)は、直政が直虎と共通の価値観を持っていると微笑む。

瀬名姫が家康の妻であり、井伊氏と縁がある人であったのは、心丈夫だった。

1575年、(なお)(とら)は、直政14歳を井伊家の再興を任すに足ると見極め、正式に養子とし、家中に示す。

続いて、井伊家を家康に託す和議を結び、直政に井伊家当主の座を譲り、小野朝之(おのともゆき)と共に、家康にお目見えさせる。

井伊氏を託す決意表明であり、小野家の再興を認められるよう願ったのだ。

家康も以前から(なお)(とら)の意向を聞いており了解していたが、直政に直接会い期待通りの武将とうなずく。

「まず三百石の小姓で召し抱えよう」と快く召し抱えた。

小野朝之(おのともゆき)にも声をかけ名を与え、認めた。

ここで、直政は、家康から呼ばれて、近習を連れて浜松城に入ることになる。

(なお)(とら)は、肩の荷を下ろした。

寿桂尼、直平の娘(瀬名姫の母)直の方に、目をかけてくれた義元の母。

千賀((ゆう)椿(しゅん)())、今川氏と井伊氏の間を取り持ち井伊氏の独立性を守ろうとした母。

椿姫(お田鶴の方)、(ひく)()城(浜松城)主として戦い散った飯尾連竜の妻。

瀬名姫、家康の嫡男の母として岡崎城で威厳を持ち輝いているが、家康と不仲の妻。

彼女たちの生きざまに教えられながら、父と同じ道を歩き続け、直政を一人前にしたと、自分を褒めながら、一つの区切りとする。

直政を家康に託す選択は正しくても、どこまで井伊家を再興できるか不安もある。

井伊谷城に戻ったが、どこまでが井伊領なのかわからない状態だ。

一旦手放した以上、すべて家康の判断に委ねるしかない。

会いたかった瀬名姫だが、浜松城には来ず、岡崎城を離れなかった。

やむなく、瀬名姫とは会えないまま、井伊谷に戻った。

詳しい事情はわからないが、二人の不仲をものがたり、心配になるが。

瀬名姫を頼るべきではないのが、明らかな状況だ。

とすれば、家康が井伊家を厚遇する保証はない。

家康は、忠誠を誓う者は受け入れ、目をかける。だが、忠誠心に疑いを持てば、むごい仕打ちで応える。

井伊家中の結束と、軍事力を見せつけ、家康の命令に忠実に従うしかない。

家康の元に出立する直政に「すべてをかけて(家康に)従い仕えなさい。井伊谷城に戻る必要はありません」と突き放すように厳しく命じた。

直政は嬉々としてうなずいた。家康は主君であり、師であり、理想の人だった。

直虎から命じられなくても、忠臣としての道を突き進むつもりだ。

直政は、浜松城入りする。

予想以上に、井伊家当主として重々しく扱われ、目を輝かせながら家康の一言も聞き漏らさないと側近くで仕える。

直政を送り出すと伊井谷城に残る(なお)(とら)が、今まで通り、家中の柱として、目を配る。

それでも、家康は直虎に配慮し、戦いの合間に時折、直政を井伊谷に戻らせた。

その直政を精一杯の笑顔で迎える。

精悍で頼もしい武将になっていく姿を、はらはらしながら見つめる。

井伊家の為に無事であって欲しいと念じるが、戦功を上げないと家康から認められることはない。

命を懸けて死と隣り合わせで進むのが名将の道と自らを諫めるが、無事であれとの思いを消すことはできない。

近習に直政の身代わりになる覚悟を常に持つこと。

命をかけて、直政に従い、側をはなれないよう厳しく命じるだけだ。

直政は、家康の元、めざましい活躍を続け、智謀のさえを見せていく。

家康は直政の能力、容姿、出自すべて気に入り類まれな武将だと可愛がる。

そんな時、1579年9月19日、瀬名姫が、亡くなった。

家康との不仲を心配していたが、6歳も若い瀬名姫の死が信じられず、涙する。

なぜどうしてと近習に情報を集めるように指示、知らされる情報から瀬名姫の存在価値がなくなっていたことをまざまざと知る。

直平の娘、直の方と同じように、瀬名姫は家康に対峙し志を貫き殺された。

瀬名姫は家康に対して、はっきりと自分の考えを言い自分を曲げない強い個性の持ち主だった。

耐えて思いを抑えて生きるよりは瀬名姫らしい最後だったのだ。

そこまで思い至るには、長くかかるが、泣き続けると瀬名姫のキリッとした表情が浮かび「これで良いのです。自分らしく生きなさい」との声が聞こえてくる。

(なお)(とら)は「井伊家は、家康一門として生きるべき」と心を決めた。

瀬名姫はもういない。

それでも、井伊家を守る道を進まなければならない。

直政は、18歳だ。

大人であり、結婚すべき年令になっている。

一刻も早く、直政を家康に縁のある女人と結びつけ、家康一門となり、瀬名姫に代わる強い絆を結ぶ必要があると、肝に銘じる。

 信長と対峙しつつ、自らが率いる新しい国造りを思い描く家康に直政は嬉々として従っている。

それが井伊家の進むべき道なのだ。

 今川家を引きずる瀬名姫と別れ、その上を目指す家康に井伊家を預ける時が来たのだ。

直政と家康ゆかりの女人を結びつけ、新たに井伊家を創っていくしかない。

それが、父や祖父、曽祖父などなど井伊家を紡いできた人々の声に応えることだと、一人つぶやく。

(なお)(とら)と家康の取次役、西郷正友を側近く呼び、直政と家康ゆかりの女人との結婚を早く強く望む思いを打ち明ける。

そして、直政の結婚相手を家康に願うように頼む。