直虎、井伊谷城を奪われる|井伊直虎の生涯 前編(12)
だぶんやぶんこ
約 4908
この日を一番待っていたのは、後がない小野政次だった。
氏真は風前の灯だったが自覚はなく、駿河・遠江守護の権威を振りかざしまだ命令書を出し続けている。
実質守られることは少ないと、皆が知るようになっていたが。
政次は、直虎が徳政令を出すと、直虎の当主の役目は終わったとばかりに、すぐに、氏真に願い、直虎から領主権を取り上げ、政次を井伊領代官に任命する命令を得る。
直轄を望む氏真は、喜んで命令を出した。
こうして、井伊領は、中身のない今川氏の直轄領となった。
幼い頃、直虎は、政次と仲が良かった。
ともに、武芸を磨いたり、勉学に励むこともあったほどだ。
だが、直政を敵視し滅びゆく今川氏に寄り添う姿を見せつけられると、許せず敵対していく。
政次は直虎と協調しつつ、井伊家を主導したかったが、直虎を押さえきれないことを悟る。
ついに、井伊領を氏真の直轄支配領とし自らが代官になるしかないと決めざるを得なくなった。
徳政令は、領民の信奉する直虎の名で出すことで、実行力を持たさざるを得なかったが、もう役目はなくなった。
政次は、井伊家を率いる抱負を述べ、直虎の了解を得ようとする。
当然、直虎は拒否した。
やむなく、氏真の命令を振りかざし、井伊谷城からの退去を求める。
追放の命令を出したのだ。
直虎は、この時を予期し万全の備えをしていた。
祖父、直宗は、一五四二年、義元の謀略で戦死させられた。
父、直盛は、一五六〇年、義元に従い戦死した。
許嫁、直親は、一五六三年、氏真の謀略によるだまし討ちで殺された。
井伊家の大切な当主が、今川家によって殺されることが続いたのだ。
同時に、例えようがない大切な重臣を次々、戦死させてしまった。
この耐え難い苦しみを忘れることはない。
今川家に従うことは、絶対に拒否する決意を固めていた。
政次が氏真の命令書をかざすと「氏真から離れる好機だ」と自然体で受けた。
それでも、拒否し抵抗の構えを見せ、我が身を守りつつも戦うことなく、準備を整えた。
そして、一一月末には主従揃って井伊谷城から逃げる。
かねてからの申し合わせ通り、家康に「極悪非道の小野政次」の成敗を頼む。
すでに、井伊谷三人衆(七人衆の三家)菅谷忠久・近藤秀用・鈴木重時(直政の父方の祖母の実家)は家康に寝返っていた。彼らの仲介で、直虎は家康に従う話を進め基本的な合意をし、小野氏排斥の体制を作っていた。
すぐに小野氏追討が始まる。
家康は、すでに、氏真打倒へ準備万端だった。
事態が急展開したきっかけは、一五六八年四月一一日、寿桂尼(義元の母)が亡くなったことだ。
家中を率いる力は、氏真と並ぶほどの女傑だった。
その死で、雪崩を打ったように、今川家重臣らの離反が進む。
政次も今川氏の将来はないと、焦ったほどだ。
寿桂尼と親交の深かった武田信玄は、重しが取れ、より一層攻撃的になった。
以前から「今川氏は凋落した。我が領地とする」と今川領に侵攻していたが、寿桂尼には遠慮があり、真正面からの侵攻は避けていた。
氏真に「手切れ」を宣告し、堂々と駿河侵攻を始める。
同じように、家康も駿府への侵攻を進めようとする。
武田信玄と思いは同じで、正室、瀬名姫を我が子同様に可愛がった寿桂尼に遠慮があり、今川領内の侵攻で抑えていたが、吹っ切れた。駿府を占領すると燃えた。
信玄との同盟の協議を始め、今川領の取り分を決め、駿府占領は諦めざるを得なかったが同盟を結び、怒涛の侵攻を開始した。
武田勢・徳川勢に攻め込まれ氏真は絶望的だったが、氏真の頭の中には、名門今川氏が滅びるはずがないとの信念があった。
配下の国人衆は今川氏を裏切るはずがない、良い条件で和議を結べるという狂信的な思いがあった。
政次は氏真に見切りをつけた。
そして、身を守るため、窮余の一策に出て井伊谷の支配者となったのだ。
直虎は、形式的に、氏真に従いつつ情勢を見ながら信玄・家康の申し出に耳を傾け、家康への臣従を進めていた。
冷静に心中を見せることなく政次と協調する風を装いつつも、時には一歩も譲らない覚悟も示し、井伊領を治めた。
政次は、氏真の後ろ盾で権力を握っている。
氏真の力がなくなると、存在基盤が揺るぐことになる。
まだ氏真が形式的だけにしても力を持っているときに、立ちはだかる当主、直虎を排除すれば、城代として、井伊家を取り仕切ることが出来るはずで、どうしてもやらなければならない事だった。
こうして、直虎に城の退去を求め、成し遂げた。
行く手には困難が待ち受けていることはわかるが、前に踏み出した満足感はあった。
直虎は井伊谷城を離れ、寂しさがこみ上げる。
それでも、政次と別離した喜びと、新しい道に踏み出すことに自信があった。
その前、直政を安全な地に移し、万全の体制としていたからでもある。
寿桂尼の死が契機となった。
混乱する今川家を見て「今が好機」と七歳の直政を浄土寺から龍潭寺に呼び寄せた。
直政の暮らしぶりは知らされていたが、成長を目の当たりにして、その姿に目を潤ませる。
浄土寺に入って以来三年の月日が経っており、久しぶりの再会だった。
側には、直政を守り続け学びの師でもある珠源がいた。
守り続けてくれた礼を言い、今後とも直政の師であって欲しいと頼む。
そして、用意し待っている鳳来寺に連れて逃げるよう頼む。
氏真・政次と対峙する時が迫っており、今しかないと決めたのだ。
そして、おもむろに、直政家老、松下清景に強く申し付ける。
「(直政を)鳳来寺に移す時が来ました。直政の父となり守るように頼みます」と。
清景とひよの再婚を決めたのだ。
直政を清景の養子とし井伊家との縁を切ることで、氏真の不信感をかわす大義名分とする。
清景とひよは、手を携え、直政を育てており、二人の仲は良い。同意した。
この後、予期した通り政次が謀反を起こした。
そして、直虎は、逃げ、まず、長年住まいした龍潭寺に入り、身を潜ませた。
家康の井伊谷城攻めの詳細を聞き、すべての望みをかけ、待つ。
家康は間髪入れず一二月初め、井伊谷城奪還の兵を送る。
井伊谷三人衆が先陣となり、家康勢が井伊谷城に突撃した。
政次は、あまりに早い直虎の反撃に驚くが、共に戦う家臣団は少なく戦える相手ではなかった。
やむなく、応戦せず城を明け渡し、謹慎する。
こうして、城を出てわずか一か月で直虎は井伊谷城を取り戻し、井伊谷三人衆と共に、城主の座に返り咲く。
井伊谷城を取り戻した井伊勢は、家康勢の一翼を占め積もり積もった怨念を氏真にぶつけた。
氏真は、追い詰められた。
直虎が城を明け渡して二か月も経たない一五六九年一月終わり、信玄に攻め込まれた氏真は駿府城を放棄し掛川城に逃げる。
あっけない氏真の駿府落ちだった。
家康は遠江を制圧し、政次と対峙する。
政次は、進退窮まり逃げることもできず、ひたすら許されることを願い謹慎していた。
だが、直虎は、直政の将来を思い許さず、捕えた。
直虎の意を汲んで、一五六九年四月、家康は、小野政次の処刑を命じた。
その一か月後、政次の長男と次男も獄門はりつけにする。
政次は重正・政直・政次と親子三代にわたって井伊家に仕え、役目を果たし実績を残した結果がこれかと思うと無念だった。
今までの功に免じて謹慎処分で済まされるはずだった。
子たちまでが、処刑されるとは想像もしていなかった。
父、小野政直は、政次と直虎の結婚を夢見たが望みを絶たれ、政次と新野親矩の娘との結婚を決め、今川家一門に繋げた。
まもなく、妻は病死ししてしまう。
そこで、井伊家の祖、共保の母の実家、二宮神社(浜松市北区引佐町)の神主、三宅氏の娘と再婚させた。
二宮神社は三宅氏の始祖、多道間守(記紀伝説上のお菓子の神)を祀る神社だった。
一三八五年、宗良親王が亡くなられ、葬送の御儀を執行し合祀したため、宗良親王と多道間守の二つの祭神を祀る。
そこで、二宮神社と名を改めた。
政次は、井伊家一族に繋がる再婚をし、井伊家に忠誠を誓った。
筆頭家老としての重責を果たし、直虎の婿になるための要件を満たしたつもりだった。
そして、氏真により、井伊領の代官となり、井伊家を掌握したはずだったが、失敗した。
それでも、直虎や直政に危害を加えたわけではない。
なぜ殺されなければならないのか、わからない。
井伊家へ多大な功績を上げたと自負していただけに、無念だった。
直虎は、戦国の世のむごさと家康の冷酷さに涙する。
小野政次親子を処刑したが、空しさが残る。
それでもじっと前を見据え「井伊家は新しい道を踏み出した」と前に進む。
父祖の地を治め続け、井伊家を守る為に、まだまだすべきことは多い。
家康の力で井伊谷城主に返り咲いたが、井伊谷三人衆が城代として仕切っている。
家康の考え次第で城主が決まる不安定な身なのだ。
大きく息をし、井伊谷城主として、家康に一歩も引かない覚悟を決める。
この頃には、身体中から井伊家当主としての威厳がかもし出されていた。
すぐに、直政を呼び寄せる。
直政の力量により今後の井伊家が決まるのであり、当主としてふさわしく育てなければならない。
直政の教育のための環境を整え、自らの手で育てる覚悟をしている。
まず、直政の近習に同年代の小野朝之・中野三孝・奥山朝忠を加える。
皆優秀であり、学問・武芸を共に学ばせ競わせていく。
そして、直虎自ら直政に井伊家の歴史すべてを教え引き継がせることを急ぐ。
近習三人には、主君の為に死をも辞さず、身代わりとなる覚悟を持つことを厳しく命じる。
政次親子を処刑した後の小野家を政次の弟、朝直の遺児、朝之に引き継がせた。
奥山家を朝宗の子、朝忠に引き継がせた。
直虎を苦しめた小野氏・奥山氏は、完ぺきに配下になった。
直虎は、両家への許しがたい思いを引きずることなく、直政の腹心とすべく再生させた。
幼い彼らを見守りつつ育てることは、やりがいがあり、皆可愛くて仕方がない。
直政も小野朝之も中野三孝も奥山朝忠も、元気に武芸に励む。
彼らを見つめ、胸を熱くすることも度々となる。
皆に母のように慕われほおが緩むが、心して我が子のように厳しく教える。
彼らは、ひよにとっても甥たちだ。
奥山氏の凋落に心を痛めていたが、甥、朝忠が直政の近習となり、ほっとした。
直虎に「直政も奥山家も託します」と吹っ切れたように願い、笑顔が戻った。
直虎は、井伊谷の空のかなたにいるはずの父に向かい「井伊家は必ず甦ります。待っていてください」と話しかける。
父もうなづいているはずだ。
井伊領は減ってしまったが、井伊家は続いている。
井伊勢も少なくなったが、直虎や直政の為に家康勢の一角を担い戦い続けており、強い。
直虎の自信は揺るがない。