井伊谷城主、直虎の治世|井伊直虎の生涯 前編(11)
だぶんやぶんこ
約 7508
直虎は、心中、今川氏との決別を固く誓っていた。
今川一門に通じる寺、浄土寺にいては、いずれ直政の命が危険にさらされる。
直政を早く安全な地に移らせなければならない。
松下清景に直政が安全に過ごせる地を探すよう命じた。
松下清景は珠源和尚・南渓瑞聞らと協議し、避難先には山深い真言宗三河鳳来寺(愛知県新城市)が良いと進言する。
兄、松下之綱の勧めでもあった。
標高七〇〇m近い霊山と仰がれる鳳来山の中腹にある鳳来寺。
七〇二年、厳しい修行を積んでいた利修仙人が、文武天皇の病気平癒祈願を命じられた。
そこで、霊鳥、鳳凰に乗って参内し一七日間加持祈祷した。
すると、天皇の病は全快。
喜ばれた天皇により、利修仙人の修行の地に建立されたのが、鳳来寺だ。
その後、一一六〇年、平治の乱が起き、源義朝は敗れ逃走した。その時、嫡男、頼朝も逃げ、身を隠したのが、鳳来寺。
父は、討たれたが、鳳来寺に入った頼朝は、守られ命を長らえた。
そのご加護に感謝し、鎌倉時代、伽藍を再興した。
時を経て、家康の母、お大の方が、本尊、薬師如来を拝むために、夫、松平広忠とともに鳳来寺に参る。
お大の方は、病気を治しやすらぎを与えてくれる薬師如来を深く信仰していた。
そして、まもなく家康を授かった。
ご加護に深く感謝した。
このように三河鳳来寺は、霊山ならではの数々の言い伝えが残る、霊験あらたかな寺だ。
氏真の支配下ではなく、家康の支配下になる。
直虎は、三河鳳来寺の説明を受け、氏真の勢力範囲でなく安全だと納得し、賛同した。
だが、無断で直政を移したことが知られると氏真の仕返しが怖い。
三河鳳来寺に移す時期を、慎重に見定めなければならない。
直親は家康に傾き殺された。
天野氏・堀越氏(遠江今川氏)・飯尾氏という遠江の有力国人衆は、氏真を裏切り攻められた。
氏真は追い詰められ、遠江で今も氏真に従っている国人衆の多くは氏真に見切りをつけていた。
だが、駿府に人質を出しており人質に危害が及ぶことを恐れ、やむなく従い、人質を取り戻し離反する時をうかがっていた。
氏真は、政治手腕もなく、人望もなく、義元に勝利した信長の勢いにあがなうすべはなくない。
信長・家康連合の思うがままになっていく。
直虎は、直政の為・井伊家の為に慎重に、本心を見せることなく氏真に従い、劣勢になった今川勢の一翼を担い戦い続ける。
氏真に逆らわず意に沿った施策をとりつつ、井伊領の内政に政治手腕を発揮していくと決めていた。
生まれ育った高台にある井伊谷城から毎日見た井伊谷は豊かで美しく、特色も知り尽くしている。
本来、領民は豊富な農作物を収穫し、豊かに暮らせるはずだった。
だが、戦いが続き、井伊家の財政は底をついていた。
領民の犠牲も大きく、農地は荒れ、収穫は減り、暮らしが生き詰まり、借金でしのぐ農民も増えていた。
領民の暮らしを立て直し、井伊家再建の道を進むための施策を行おうのが、第一だった。
直盛の積極的な経済政策を見て育ち、その政策を引き継ぐ。
だが、父の代からの借財は、軍備・兵力・領内の土木事業、開発に使われ、莫大となっていた。
直平や中野直由と共に財政再建の道を模索したが、道は遠い。
頼りにすべき人を失い、南渓和尚の支えで父を継承し自分らしい財政再建を目指すしかない。
ところが、小野政次は井伊家の借財はあまりに多く、返済は出来ないと、徳政令を出し、出直すべきだと言う。
徳政令とは債権放棄の命令であり、井伊家などが今まで商人などから借りていたお金を一方的に返済しないという命令だ。
その時は借金がなくなり助かるが、次に策がなければ貸した方は立ち直れない。
すると、井伊家は借金が出来なくなり、今以上に首が絞まる。
直虎は、徳政令は出すべきでないと、政次が勝手な仕置を進めていることを叱った。
だが経済は疲弊しており、徳政令はやむを得ない状況だ。
対策が急務であり知恵を絞るしかない。
財政再建の道を進めつつ、先手を打って一五六五年一〇月、南渓和尚に寺領を認める黒院状(当主発行文書)を出し、徳政令免除とし保護した。
他にも、徳政令を免除する方法を、商人らに実行した。
徳政令の影響を最小限で抑えるためだ。
直虎が次郎法師としての宗教的権威を持ちつつ、井伊家当主としての権威を内外に示した。
焦った政次は、急いで氏真の了解を得て一五六六年、徳政令を発令、強行した。
直虎の政治力が発揮されて行く姿に恐れをなし、氏真に願い徳政令を出したのだ。
だが、井伊家当主、直虎は、断固として拒否し、徳政令を凍結する。
主君、氏真が出した徳政令だが、井伊領地内の事であり直虎の承諾が必要で、体制が整うまで延期すると押し切った。
氏真に反対するのではなく、時間稼ぎし、引き伸ばし、影響力を少なくする方策を実行するのだ。
この時、直虎のためによく働いたのが、今川家重臣、孕石元泰。
氏真から直虎との取次役を命じられていた。
孕石元泰は、直虎の思い描く政策を理解し、氏真の徳政令の凍結に賛成し、猶予期間を置く必要があることを氏真に伝えた。
人質として駿府にいた家康に意地悪くつらく当たり、家康が恨んだことで有名な孕石元泰だが、新野親矩と縁があったこともあり、直虎の味方となった。
また河手城(愛知県豊田市川手町)主、井伊主水祐(山田景隆)も直虎の政策の実行を支えた。
三河の国人、山田氏は、清和源氏満政を始めとする名門だ。
尾張国山田郡山田荘を領し山田氏を名乗った。
一三三五年、尾張から三河に移り、川手城を居城とし、松平氏に仕えた。
松平宗家(徳川家)が義元に従うと、山田氏も従う。
当主、山田景隆は義元に高く評価され、家康が人質となり駿府に入ると、変わって家康の居城、岡崎城の城代となり仕切った。
桶狭間の戦いで義元が戦士すると、家康が岡崎城への帰還しようとした。
その時、山田景隆は、岡崎城の引き渡しを拒否し戦うべきだったが、家康のために、城から離れた。
家康は、城を明け渡した山田景隆に感謝し、印象は良い。
氏真の印象は悪かったが、以後、氏真に従い戦い、主従関係を続けた。
氏真が追い詰められると一五六三年、新野親矩に呼ばれ、井伊家に仕えるようになる。
氏真の了解を得ている。
新野親矩に従い、直虎に仕え、直虎の信頼を得た。
だが、新野親矩は、一五六四年、戦死した。
以来、新野親矩に成り代わり、直虎の側近となる。
ここから、山田景隆は、井伊主水祐と呼ばれる。直虎の厚い信頼の証だ。
徳政令の阻止を、直虎とともに、氏真に願い、延期させる。
だが、徳政令が実行されると、居り場がなくなり、家康に従う。
その後、井伊家が家康に従うと、家康は、山田景隆の嫡男、川手良則を直政に付ける。
その時、直政筆頭家老とするべく、信濃国伊那郡から引き取られていた直政の姉、高瀬姫との結婚を決めた。
川手良則は再婚だが、直政の義兄となり、家康から付けられた井伊家筆頭家老級の重臣となる。
一方、政次は、井伊領内の政治を取り仕切り、代々続く商人や祝田禰宜(峰前神社神主)ら本百姓との結び付きが強かった。
彼らは、多くの借金を抱えており、徳政令を願った。
直盛は、新興の商人から、多くの借り入れを行っており、旧来の商人は借金する側だった。
彼らの願いを受けて、政次が徳政令を発布したのだが、凍結され面目をつぶされた。
ここで、今川家重臣、匂坂直興を取り込み「一刻も早く徳政令を出し、領民の苦境を救い、井伊家の経済再生を図るべきだ」と再三、直虎に進言させ、実行を迫る。
直虎は、政次を許せず、表立って激しく対立していく。
直虎は、父が引き立てた新興の商人を引き継いでいる。
彼らや彼らと近い寺や武家や名主など銭主方と呼ばれる直盛に縁ある資産家からの借金をなくそうと図ったのが徳政令だ。
主君、氏真の命令であり、いずれは実行せざるを得ないが、できうる限り先延ばしし領内の活性化を図り、徳政令の影響を少なくしなければならない。
瀬戸方久ら井伊領内の経済立て直しに、ともに取り組み、重用した商人に、今後の策を出すように言う。
瀬戸方久は、井伊谷七人衆の一人、松井助近の一族だ。
松井家は、今川家屈指の重臣。
山城国の幕府御家人、松井宗次(兵庫亮)・助宗(八郎)父子が足利尊氏に味方し、足利一門、今川範国に属して戦功を揚げ、その恩賞として駿河国葉梨荘(静岡県藤枝市)を得て、移住し、始まった。
その後、一五一三年、今川氏親から遠江国鎌田御厨領家分を得て、城東郡平川郷(菊川市下平川字堤)に居城を築いたのが松井宗能。
その孫、信薫(-1528)が、義元から遠江支配の拠点、二股城(浜松市天竜区二俣町二俣)を与えられ移る。
遠江支配を統括するためだ。
だが、信薫の死後、弟、松井宗信が継ぎ、続いて、信薫の子、松井宗親が継ぐが、義元が戦死後の一五六六年、飯尾連龍の裏切りに関わっているとみなされ殺される。
その前、義元が井伊氏に付けたのは、宗信の弟、松井助近。
松井助近は、直盛に仕え、疲弊した井伊家の経済政策を打ち出した。
その策を採用し、直盛は重く用いた。
助近の経済政策の後ろ盾となったのが、松井氏一族の商人、瀬戸方久。
方久の資金で、業績を伸ばし、井伊家に重きをなした。
瀬戸方久は、瀬戸村(浜松市北区細江町中川)で生まれた。
浜名湖が海に繋がった恩恵を受けてこの地の経済活動が盛んになった頃だった。
浜松での商取引が急拡大する時、商人となり急成長し、遠江引佐郡気賀の豪商として名を成した。
そして、遠江松井氏の財力を支えつつ、井伊氏への経済的影響力を高めていった。
小野政直・政次は旧来の本百姓・商人との取引を重視し続けていた。
瀬戸方久がまとめる新興勢力は、商品調達力・資金調達力が優れ、武具・兵糧から家中の土木事業などまで広く請け負い、直盛に尽くした。
井伊家の戦力を保持することに役立つが、借金も増やすことになった。
直虎が当主となった頃、瀬戸方久は、井伊家の経済を左右する力を持っていた。
だが、井伊勢は、氏真に命令を受けて、不毛な戦いに駆り出され、奮闘すれば奮闘するほど、直盛から引き継いだ井伊家の経済はますます悪くなり、破たん状態となった。
年貢を上げるしかなかった。
本百姓は、年貢の引き上げに反対し、徳政令の実施を願った。
直虎は、方久らの進言を聞き、井伊領の経済再生の対策を練る。
方久の浜松に経済再生の道があると熱心に説く姿に賛同した。
まず、これからの再生事業で井伊領が安泰となることを祈願し、方久の資金で、直虎の名で、渋川村の福満寺(浜松北区引佐町川名)に梵鐘を建立した。
福満寺は、奈良時代、行基が創った薬師如来を本尊とし、多くの塔頭を持つ堂々とした大寺院だ。
直虎がこの地の領主であることを高らかに宣言したのだ。
こうして、一五六八年、方久に、浜松再生の後ろ盾になることを了解し、氏真との直接交渉で実現するよう命じる。
方久は、松井宗家を通して「堀川城普請を自らの資金で行いたい」と、氏真に申し出る。
資金提供の見返りに「徳政令免除」を願った。
一四九八年、明応地震が起き、浜名湖が海に繋がった。
すると、海への入口となる堀川は、交通の要所となり遠江支配の重要地点となった。
その権益を守り今川氏支配の威光を見せる堀川城(浜松市北区細江町気賀)築城の申し出は、氏真が喜び賛同する提案だった。
氏真は、堀川の支配権を確立し、交易の利益を得るため有効な案だと、方久の堀川城築城を許した。
方久は、周辺の農民を総動員し自己資金で築城を完成させた。
源氏の血を受け継ぐ新田氏を祖に持つことから、新田喜斎と名乗り城主となる。
堀川城は、故郷を愛する方久や大沢氏・竹田氏・山村氏・尾藤氏などの豪族や農民らの希望と汗の結晶であり、氏真に利益をもたらす。
まもなく、家康の怒涛の遠江侵攻が始まる。
皆、堀川城への愛着が深く、高圧的な侵攻を嫌い、血と汗の結晶、堀川城を引き渡すことは出来なかった。
方久は、家康への降伏、開城を訴えたが叶わなかった。やむなく城を去り、隠棲する。
家康は、力で抑えようとしたため、やむなく籠城し戦うも、力の差は明らかで、敗北し虐殺された。
その後、徳川の世が始まり、気賀を挙げて代官所に訴状を出す。
皆に頼まれた方久は、代表する形で訴状を書いた。
訴状を受け取った代官は、方久を首謀者と見なし処刑した。八二歳だった。
氏真は、新野親矩の死後、重臣、孕石元泰や関口氏一門、関口氏経(瀬名姫の父、関口義広の一族)や井伊主水祐(山田景隆)を直虎の目付とし、井伊家への監視役とした。
彼らは、井伊家の縁者でもあり、直虎の治世を助ける。
関口氏経は、井伊谷城に来た当初から、氏真を代弁し厳しい言葉を使うが、直虎にやさしい視線を向けその施策を支持した。
それは、関口義広の妻となり氏真によって自害させられた直虎の大叔母、直の方の存在があったからだ。
直の方は、関口宗家の束ねとなり、瀬名姫を育てた。
その姿は、氏経のあこがれだった。
また、祖母、浄心院も直虎の施政を助ける。
直宗の妻、浄心院は、直盛が結婚して井伊谷に戻ると、代わって今川氏の人質となり駿府城下の屋敷に住まう。
そこで、義妹、直の方と力を合わせ、井伊家と今川家を繋ぐ役目を果たしたが、直宗の妻であり伊平氏の娘としての自負があり、今川氏に心底臣従できなかった。
直宗が亡くなると、直宗の弟らが人質となり浄心院は井伊谷城に戻る。
だが、井伊城に戻った浄心院には、城内に落ち着く場はなかった。
やむなく、出家を決意する。
一時は井伊家を主導する力を持った、実家、伊平氏が凋落していたためだった。
そこで、我が子である直盛に、菩提寺建立の費用と隠居領を願い、得た。
隠居領は、伊平氏領に近い引佐町東久留女木(浜松市北区引佐町東久留女木)だ。
この地に如意院を建立し、直宗や自身の菩提寺とし、側近、仲井氏を従え出家し住まう。
一五五〇年亡くなるまで、井伊氏・伊平氏の行く末を見守りつつ、この地の人たちと共に暮らした。
浄心院を迎えた農民は心を込めて世話をする。
浄心院は、伊平氏の隆盛を支えた、高名な女人だった。
駿府で暮らし、洗練された知性にあふれ、皆の自慢の藩主の母だった。
かっての威光を少しも見せることなく、慎ましく、穏やかなほほ笑みを浮かべて住まう。
そして、この地の人たちに読み書きを教えたり、昔語りをし喜ばれる。
その上「老いの身を生きるだけです。食べるだけあればいい。年貢は必要ない。自由に田地を使うがよい」と隠居領から年貢を取らず、収穫した農産物も分け与える。
領民が持ち寄る自慢の作物を嬉しそうに受け取り、出来栄えを褒めるだけだった。
駿府での贅沢な暮らしとは程遠い質素倹約の暮らしを、嬉々として続けた。
喜んだ領民は浄心院の篤い心に応えようと、農作業に励む。
そして、それぞれ自由な発想で幾つもの棚田を創り田地の開発をしていく。
稲穂を始め種々の農作物に覆われる大地が広がっていき、浄心院を喜ばせた。
直虎も、祖母、浄心院の生き様を聞き、尊敬していた。
そして、財政再建の一環として田地の開発を命じた時、祖母の隠居地の開発方法を学ぶよう命じる。
その旨知らされた領民は、今こそ恩に報いる時だと培った開発力を駆使して直虎に尽くし、経済再生の見本となる。
直虎は綿々と受け継がれてきた祖母の偉大さを改めて知る。
井伊家の長い歴史の流れを実感し、先人の苦労で今があることに感謝するのだった。
自分も務めを果たすと家康との交渉に力を入れる。
直虎は三二歳。
ようやく城主としての実行力に自信が出てくる。
徳政令の影響を最小限に抑える施策を思いつく限り実行した。
領民の耕作地を守り、作物収穫を手助けする為のきめ細かな施策を行い、産業振興の政策も次々編み出し、領民にやる気を起こさせた。
こうして、棚田が縦横に作られ米や農産物の収穫は増え、豊富な材木を活用し利益を生みだし、画期的な衣料素材となり需要が急拡大していた綿花栽培にも力を入れ成功する。
直虎の誇る故郷がよみがえっていく。
故郷の素晴らしさを再確認しながら、氏真の徳政令を二年以上引き延ばし、財政好転のめどを立てた。
これ以上の引き伸ばしは難しいと判断する時が来た。
一五六八年一一月九日、関口氏経と連署で氏真との約束「徳政令」を出す。