直虎、井伊家当主に|井伊直虎の生涯 前編(10)
だぶんやぶんこ
約 8953
直虎は、中野直由からの知らせ「謀反人の遺児とされた直政殿を捕らえようと追手が来るので、奥山屋敷に母子とも逃がしました」に驚き、事態の広がりに恐怖した。
直親の後継は、嫡男、直政しかいない。
まだ二歳にならない幼子だが、唯一の後継だ。
一五五五年、結婚したひよ。
すぐにでも嫡男が生まれると思われたが、子は授からなかった。
直盛の死後、ようやく、授かったのが直政。
ひよは歓喜したが、井伊城屋敷は落ち着かないと、慣れ親しんだ祝田屋敷に戻って、一五六一年三月、直政を生んだ。
直虎や家中の反感を買っていることが痛いほど分かっており、井伊城を避けた。
そんなこともあり、直政の誕生を、家中を上げて祝福することはなかった。
密やかに生まれたのが、直政だった。
以後、ひよは、井伊城屋敷には行事のある時しか行かず、直政を祝田屋敷で手ずから育てていた。
直虎の元には、折々の行事に連れて来て、顔を見せている。
直政が、直親の後継であることを直虎に知らせることは必要なことだったからだ。
直虎が、直政を直親の後継だと認めてくれれば、直親を引き継ぐ事ができると考えていた。
井伊家中では、直虎は絶対的存在であり、二人ともおろそかにしなかった。
直虎は、本来自分が生むべき子だったかもしれないと思うと複雑だが、当主の子が生まれたことを認めることで家中がまとまると考えた。
だが、直親は慎重で、井伊城屋敷に直政・ひよを迎え入れることはまだ先だとした。
当主として家中の総意を得ている自信は最後までなかったのだ。
ひよは、自分のことを押しかけ、強引に結ばれた妻でしかないとよく知っている。
懸命に直親を支えたが思いはどこまで届いたか、常に二人の意思が一致していたかどうかわからない。
宗家当主の妻と嫡男として、宗家屋敷に入りたかったが、まだ入らないうちに直親は亡くなってしまった。
もっと堂々と、ひよと直政を公にしてほしかった。
危険な目に会わせたくないとの心遣いかもしれないが、直親は、殺された。
直虎も、直親が駿府に出向くと決めた時、もっときつく止めるべきだったと悔やんでも悔やみきれない。
義父、直満と同じ運命が待っていると感じていたのだ。
直親は、当主、直親と父、直満とは立場が違い、氏真がおろそかにするはずがないと笑って出たが、心配でたまらなかった。
やはり、不安が的中した。
ひよも心配していた。
そして直親死亡の知らせが、中野直由から祝田屋敷に入った。
信じられなく呆然としたが、直政にも危険が迫っていると言われ、我に返る。
やむなく、取るものも取りあえず実家に戻ることにした。
直虎は、小野政次の軍勢が押し寄せる奥山屋敷では直政を守り切れないと、直政の命を守るために、すぐに動く。
そこで、政次が襲う直前、朝利と仲が良い新野親矩と母の名を使い、ひよと直政を引き取ったのだ。
朝利も、軍勢が来ることを知り、新野親矩に母子を託した。
直政母子は、奥山屋敷から逃げ、直虎の母、祐椿尼の住む庵、松岳院(龍潭寺内にある塔頭)に駆け込み匿われる。
政次が、直虎の住まう龍潭寺に攻め込むことはないからだ。
直虎は、井伊家中では、特別の存在で、侵してはならない井伊家守りの神だった。
それでも、奥山勢をなぎ倒し、朝利を討ち取り奥山屋敷を占拠した政次は勢いづいた。
龍潭寺の門前まで来て、謀反人の子、直政の引き渡しを求める。
だが、武力で、龍潭寺に攻め込むことはなかった。
占拠することはなく、強固に引き渡しを求めただけだった。
直虎は、南渓瑞聞らと直政を守るすべを話し合う。
直政を捕えようとしているのは政次だ。
命令を出した氏真は、直接手を下す気はなく、戦力の余裕もなく、すべて政次に任せている。
氏真は直親を殺し満足し、後継を直政とする考えはなく、関心は薄かった。
井伊谷を直接支配すると決めており、特に焦ってはいない。
直虎は種々の角度から状況分析し、氏真の祖母、寿桂尼に嘆願すれば道はあると考える。
今川一族である母、祐椿尼は、寿桂尼をよく知っている。
母、祐椿尼の兄、井伊家への監視役、新野親矩は、井伊家重臣の一角を占めており、直虎の思いを理解し、積極的に動く。
母、祐椿尼が、直政の命を守って欲しいと寿桂尼に直訴する。
そして、新野親矩が、今川一門として氏真に忠節を尽くすが直政の命は守りたいと願う。
あらゆる伝手を動員し「直政の助命」を寿桂尼に働きかけた。
寿桂尼は、井伊家の戦力・政治力・家格などなどで今川勢の中で重要な位置を占めていることをよく知っている。
直政を殺せば、家康方に傾いている配下の遠江衆・国人衆が雪崩を打って取り込まれるはずだ。
それより味方に留める事がより有効だと、申し出を了解した。
義元がいた時の今川家ではないことを、寿桂尼は、厳しく受け止めていた。
今は、今川家の家名を守り、存続させる道を模索するしかなく、敵を多く作らないよう氏真に命じる。
氏真も祖母の命令には逆らえず、渋々了解したが、直政は氏真の一存でどうにもできる謀反人の子であり、井伊家当主とはしないと言い渡した。
新野親矩は、遠江城東郡新野村(静岡県御前崎市新野地区)から井伊谷の屋敷に本拠を移しており、その屋敷に直政母子を引き取り、監視しつつ育てることが認められた。
以後、直政母子と共に暮らす。
直政を身近に見るようになると、直政の優秀さに驚く。
直政を養子としたいと思い始める。
直政の養父として井伊家を率いるのも悪くない。そんな日が来るかもしれないと夢が膨らむ。
直政を可愛がりよく面倒を見て、直政もなついた。
小野政次は、氏真から直政を追うことは止めるようにとの命令を受け、直政を追うのを断念する。
まず直親亡き、井伊家中をまとめ、筆頭家老として井伊家を主導することが急務だと。
そのため、形式的な井伊家当主が必要だった。どうするか考える。
嫡流の血筋を継ぐ者は直平と直虎のみで当面、二人を当主と見なすことにする。
直虎との結婚で、当主になる道を頭に描きながら、直政の動向は静観することにした。
政次は、死別したが、新野親矩の娘と結婚し、新野家とは親しい関係だ。
直政はどうにでも出来ると思え、了解した。
直平は「当主は直虎」と決めていた。
井伊家をまとめられるのは、直虎しかいないと、南渓瑞聞ら一門衆に図ると、皆、文句なく大賛成だった。
直虎は、いずれこんな日が来ると予感していた。父も見守っていてくれると思えた。
きっと唇を結び重々しく直平に「御指導お願いします」と承諾した。
直政が成長し引き継ぐまで井伊家を守ると心に誓う。
こうして、直虎が、皆の思いに応え当主となり、中野直由が直親と同じように後見する。
続いて、直虎は、直親の意を尊重し、氏真派の小野氏ら重臣を慎重に排除し、氏真に敵意を持つ重臣と協議し、家康に従い、井伊家を守ると決める。
ここで、直虎が当主になることが一門衆の意思だと政次に賛成を求める。
一五六四年、政次も直虎なら扱いやすいと賛成した。
家中には、直親を無残に殺した氏真への憎しみが残っている。
直虎も、直親の無念さを思うと耐えがたく、家康に忠誠を誓う決意を固めていたが、直政の助命嘆願を受け入れた氏真を直ちに裏切ることは出来ず、今川氏忠臣の風を装う。
また、直親が無防備に家康に近づいていた事実もしっかり受け止める。
政次を許すことはできないが、事実を氏真に告げただけであり、直親の謀反の動きは間違いなかった。
直虎を支える一門衆は、直親の死でかなり変わった。
直虎が脅威に感じ、井伊家中で圧倒的存在感を誇った奥山朝宗・朝利が亡くなり、奥山氏は脅威ではなくなった。
朝利の後継、朝忠はまだ幼い。
朝宗の叔母は、叔父、新野親矩と結婚していた。
朝宗の姉は、井伊氏家老、鈴木重時と。
朝宗の妹は、直虎と気の合った小野政次の弟、朝直と。
同じく朝宗の妹は、父、直盛が後を託そうとした中野直由の嫡男、直之と。
同じく朝宗の妹、ひよは、直親と。
他にも、奥山家に価値ある結婚をした娘たちが居る。
奥山氏は、井伊家を支える主力武将と縁続きとなり覇権を確立した。
直虎は、どうしてこのようなことが実現したのか、朝利・朝宗の手腕と野心の大きさに驚いていたが、二人とも志半ばで直虎の前から消えた。
直親も小野朝直も逝った。
こうして、井伊家一門に直虎に敵対する者はいなくなり、直虎が当主になった。父との冗談が現実となったのだ。
父の愛に包まれながら進むしかない。
一門衆、新野親矩・南渓瑞聞・中野直由に支えられ直平と共に小野政次・氏真との敵対を避けつつ井伊家を守る。
小野政次は氏真に了解を求め、直虎が井伊家当主になる事に了解を得た。
その時、氏真は、直虎と井伊家の忠誠心を試したいと、条件を出す。
直平に、氏真を裏切り家康に従った今川家重臣、天野氏を討つように命じたのだ。
直虎は直平の体調を気遣い「出陣すべきではない」と止めるが、直平は笑いながら「大丈夫だ」と答えた。
そして、井伊勢を率い天野氏居城、犬居城(浜松市天竜区)攻めに出陣する。
天野氏は、藤原南家工藤氏の一族。
藤原不比等の子たちから始まる藤原四家の一つで、長男の系統になる。
朝廷内では藤原式家が圧倒的力を持ったが、藤原南家は武家となり栄える。
頼朝の側近となり平家討伐で功を上げ、鎌倉時代以降、遠江国、三河国、安芸国などに分家し、勢力を伸ばす一族がいた。伊豆国田方郡天野郷(伊豆の国市天野)に在し、天野と称した。
南北朝時代、遠江守護、今川氏と結び、有力遠江国人となり犬居城を築き、今川氏重臣となったのが、天野氏宗家。
義元亡き後、天野景泰.元景親子は家康に近づき、氏真を裏切る。
直平率いる井伊勢は、途中、曳馬城(浜松城)(浜松市中区)で休憩する。
天野氏は古くから付き合いのある国人だ。
井伊家も家康に通じており、味方なのだが、氏真の命令で戦うことになった。
戦う意志はなく、降伏和議を勧めるための出陣だった。
高齢の直平をもてなしたのが、曳馬城(浜松城)主、飯尾連竜の妻、椿姫(お田鶴の方)。
飯尾家にも、井伊家にも家康からの調略の使者が、次々来ていた。
直平は、飯尾連竜が家康に臣従するべく内々に打ち合わせをしているのを知っている。
そこで「井伊家も氏真殿と合い入れないものを感じている。両家の思いは同じだ」と暗に氏真を裏切る思いを示しながら、天野氏を討つことに力が入らないと話し、くつろいだ。
直平の晩年の妻は、飯尾一族、貞重の娘だ。
妻を愛する直平は、飯尾家と親しくしており、気を許した。
お田鶴の方は今川家を裏切るつもりはない。
そのため「直平殿は今川家を裏切る」と直感し許せず、直平の油断に乗じて毒を盛る。
一五六三年一〇月五日、直平は、八四歳で急死した。
直親が殺されてからわずか九か月後のことだった。
直平の妻は、直平の死後、自殺した。
お田鶴の方は氏真から飯尾家と今川家とを繋ぐ役目を命じられ嫁ぎ、今川家のために働くことが誇りだった。
夫、飯尾連竜が家康に傾いていくのを必死で引き留めており、家康に従う武将はすべて敵だった。
直平は、飯尾家が一枚岩でないことを理解しきれていなかった。
犬居城攻めは、天野一族の景貫が宗家の城主、天野景泰を攻め追放し、代わって城主となり氏真に忠誠を誓い終わった。
直虎は、支えとしていた直平のあまりに急な死に動揺する。
井伊家の生き字引として尊敬し、亡くなることはないとまで思うほど長命で元気だった。
父の遺志に従い、直平と共であれば、当主の道を進んでいけると考えた自分の甘さを思い知る。
どこにも敵はいるのだ。
慎重に動かなければならないと改めて肝に銘じる。
直虎は人をあざむく策略が張り巡らされているのが戦国の世だと、実感する。
尼僧として思い通りに修養を積む日々からのあまりの変わりように、当主としての責任を果たせるか、確信が持てなくなる。
将来不安で、落ち込んだ。
すると、南渓瑞聞が父に成り代わったように暖かく「大丈夫。大丈夫。当主になるべき素晴らしい能力を持っておられます。今のままで良いのです」と励ます。
長年側で暮らした南渓瑞聞の心のこもった言葉に肩を押され「自分らしくあればいい、おたおたするのでない。気を確かに」と前を見る。
父の背中が見えるように思えた。
そこに、直政の元気な様子が伝えられる。
守るべき幼子が居ることが励みになり、自分のなすべき役目が見えてくる。
直平亡き井伊家を立て直し、いずれ直虎の子となる直政に井伊家を引き継がせるのが、父の望みのはずだ。
直虎が責任持ってなさなければならないことだ。
だが、氏真は、直平の死だけでは満足しなかった。
次の戦いを命じた。
新野親矩に家康に与した曳馬城(浜松城)主、飯尾連竜攻めを命じたのだ。
氏真は、井伊勢を信用せず、父であり兄だと慕う三浦正俊に兵を預け監視役とする。
翌一五六四年、新野親矩は、井伊勢と共に出陣した。
今川勢・井伊勢が力を合わせ、城を包囲し攻め滅ぼすはずだった。
だが、直政を育て井伊氏を背負う意欲を持つ親矩は、氏真への忠誠心は失せており、和議を結び円満に事を収めようとする。
直平を殺された恨みはあるが、首謀者は氏真だ。
今川氏配下だった国人衆は、家康や信玄に傾いており、今川氏からの離反が続いている。
飯尾連竜と思いは同じであり、戦っても得るものはないと思い込み、戦いも様子見の状態だった。
氏真を裏切り家康に与する決意はまだ出来ない飯尾連竜も、たちまちは、良い条件での和議がしたかった。
井伊勢の弱気を見て、勝てると確信し、城から討って出て猛反撃を始めた。
戦う意欲のない井伊勢は翻弄され、井伊勢の大将、中野直由ら井伊家重臣と三浦正俊・新野親矩は戦死する。
死を恐れず突撃する飯尾連竜は強く、戦う体制を整えられないまま中野直由らは討ち死にしてしまった。
三浦正俊は監視役のはずだったが戦死した。
氏真は、思惑通り、井伊勢の主力を失わさせることに成功したが、それ以上に、頼りにしていた三浦正俊を失い大きな衝撃を受けた。
戦いを継続する意欲はなくなり、兵を引くように命じた。
喜んだのが筆頭家老、小野政次。
直虎の後見人ともいうべき中野直由・新野親矩が亡くなり、井伊家中に怖いものはなくなった。
予期しない形で、政次が、井伊家を取り仕切る覇権が出来上がった。
直虎は、頼るべきものをすべてなくした。
それでも、もう一歩も引かないと、悲壮な決意で立ち上がる。
もはや信念が揺るぐことはない。
曾祖父、直平・祖父、直宗・父、直盛・許嫁、直親・叔父、新野親矩らを失った恨みを身体中に刻み込み、今川氏・小野氏からの決別を誓う。
もう失敗は絶対に許されない。
時期が来るまで慎重に政次との対決を避け良好な関係を保ち続けていく。
二五年来の長い付き合いの政次だ。気心は知れている。
政次にさりげなく氏真から正式に井伊家当主に認められたいと、丁寧に取次ぎを頼む。
氏真は、次々起きる謀反の動きに対応するのが精いっぱいであり、今川家を守ることしか頭にない。
「井伊家が離反しない為なら」と了解する。
小野政次を支えることで、井伊家を支配できると確信していたのだ。
こうして、直虎は一五六五年、還俗し正式に井伊家当主となったのだ。
名乗りを直虎とし、再び、対外的には男子となった。
まずすべき事は、親矩が戦死し、安全な住まいをなくした直政を守ることだ。
親矩の死が伝えられると、直政を預かっていた親矩の妻はひよと話し「直政殿の命が危ない。すぐに逃げるように」と急いで親矩の叔父、珠源和尚が住職の曹洞宗浄土寺(浜松市中区広沢)に直政母子を移らせる。
直虎は、直政の行方を案じていたが、無事逃げたことを確認するとホッとする。
それでも「浄土寺に直政を置くのは、あまりにも危険すぎる」とより安全な地を探すよう松下清景に命じる。
松下清景は、直盛から直親の筆頭家老に命じられ、直親亡き後、直虎が直政の筆頭家老に任じていた。
以来、緊密に連絡を取り合った。
氏真も直政の動きを知ってはいたが「珠源和尚は今川一門であり、直政はどうにでもなる。後は、政次に任せればいい」と、厳しく直政の命を狙うことはなかった。
義元が、井伊家の重臣として送り込んだ井伊谷七人衆。
井伊谷七人衆は、筆頭家老、小野氏。続いて井伊家一門の中野氏・鈴木氏。そして松井氏・松下氏・近藤氏・菅沼氏と続く。
このうち、鈴木氏・近藤氏・菅沼氏がいち早く家康に従い井伊谷三人衆と呼ばれることになる。
直虎は、皆と良好な関係を保っていた。
松下氏は三河碧海郡松下郷(愛知県豊田市)から始まり、嫡流が今川家重臣の之綱だ。
遠江頭陀寺城(浜松市南区)を居城とした。
松下清景は分家だが、妹が之綱に嫁ぎ義兄弟であり強く結ばれている。
義元から井伊家に付けられ、直盛から直親との取次ぎの家老を命じられ、直親が当主になると家老として勢力を強めた。
また、弟、松下常慶は優秀な修験者であり、家康の側近くで秘密裏の役目を果たしていた。
家康との縁をつなぐ役目もこなす。
義元は、松下之綱を飯尾連竜に付けた。
その後、之綱は飯尾連竜に従い今川勢の主要な一翼を占め歴戦を戦い、戦果を挙げた。
だが、義元死後、飯尾連竜は家康の調略に乗り裏切ったと、確信した氏真は一五六四年、攻め込ませた。
その時、之綱も飯尾連竜と同じように裏切ったとみなされた。
そして、攻めた。
居城、頭陀寺城は今川勢に襲われ、放火され、城は燃え落ちる。
松下之綱は、やむなく城を捨てて、松下家に縁のある三河鳳来寺(愛知県新城市)に逃げた。
この地は家康の勢力下にあり、帰る城をなくした松下之綱は、家康に従うしかなかった。
松下一族、松下清景は、井伊家重臣であり妹婿とは同心せず氏真に反旗を翻さなかった。
だが、氏真の信頼を失ない、今川家重臣ではなくなった。
以後、今川家に戻ることは考えず井伊家家臣として、直政の守役に徹し、側近くを離れず守る。
心は、之綱とともにあり、家康に従うと決めていたが。
井伊谷七人衆・井伊氏一門衆から推され、氏真の了解を得た直虎は、家中を集め「私、次郎法師直虎が井伊家当主となる」と宣言。
家中皆、待ち望んでいたことが正式に実現し、口々に喜びを表した。
家中の支持を得て、当主になったことを実感し、感慨深いものがあった。
自信を持って胸を張って井伊家当主になり、後継を養子、直政とする道を創っていく。