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直虎と花姫|井伊直虎を彩る強い女人達。(5)

だぶんやぶんこ


約 3830

家康が新たに得た領地を治める時、権力を振りかざしての高圧的な支配を行わない。大義を重んじ旧主を引き継ぎ治めることを旨とした。

戦いで得た領地でも、和議で得た領地でも変わらない。

旧主の旧臣を活用するためにも大義は友好だった。

今川領に関しての第一の大義は、瀬名姫や氏真という今川氏の正当な血筋からの引き継ぎだった。

反抗的な瀬名姫・信康より、氏真を担ぐほうが駿府支配を円滑に進められると、二人を殺した。

ところが、その後、氏真は、俗世を離れて出家しているにも関わらず、氏真衆を率い勢力伸長を試みる。

家康は許すことが出来ず、京に移り文人として生きたい氏真の意向を重んじた形で1580年、京に送りだした。

この時点で、旧主を重んじる道を終わらした。

家康の駿河・遠江支配は軌道に乗り、大義の必要が少なくなっていたこともある。

それでも、大義が大事なことに変わりはない。

次の大義は、足利氏一門であり今川家の本家筋に当たる東条吉良家を松平一門に取り込み吉良氏を配下にし、家康が引き継ぐという形をとることとした。

足利氏から吉良氏が分家した後、室町幕府が誕生したが、吉良氏は、将軍、足利氏の後継にもなれる最高級の名門であることは間違いない。

だが、吉良氏から分家した今川氏が、時代を経て力を持ち、吉良氏の力は弱まった。

主従が入れ替わり、主君となった今川義元は、義元への忠誠心の高い東条吉良家、義昭を吉良家当主とした。

そこで、家康は、その東条吉良家を取り込むことにする。

1563年、氏真に従う当主、吉良義昭は、家康に従った筆頭家老、松井(松平)忠次に攻められ降伏し、居城、東条城(愛知県西尾市吉良町)を追われる。

ここで、家康は、東条松平家、家忠を東条城に入れ、東条松平家が東条吉良家を引き継ぎ、この地を治めるとする。

東条松平家と吉良家は、縁戚だったからだ。

松井(松平)忠次は、遠江二俣城主、遠江松井氏と同族になる。

三河国幡豆郡(はずぐん)吉良庄(愛知県幡豆郡(はずぐん)吉良町小山田)を領した。

家康が今川氏から離れると、主君、吉良義昭を裏切り、家康に臣従した。

その家康の命令で、今川方、吉良義昭を追放したのだ。

そして、松平一門、東条松平家、家忠7歳を東条城主に据えた。

東条松平家を実質、率いていたのが松井(松平)忠次。

妹が東条松平家、松平忠茂に嫁ぎ1556年、嫡男、家忠が生まれた後、忠茂が亡くなり、

妹に請われて松井(松平)忠次が、赤子の家忠の後見人となって以来、見事に務めた。

家康は、松井(松平)忠次を配下にすると、その統率力・軍事力を活用し、吉良義昭を追放するように命じ、成功した。

そこで、家康の縁戚であり、親代わりの庇護者、松井(松平)忠次に守られた家忠を吉良氏の居城、東条城主とし、実質後継としたのだ。

それだけではなく、家康は、吉良氏後継を、追放した義昭の兄、吉良義安とする。

義安の後継、義定と氏真の娘の結婚を取り持つことで、氏真を京に追いやった代わりに、氏真を引き継ぐのが吉良家、義定としたのだ。

ここで、吉良家は、小録の家康の一家臣となり下がった。

こうして、吉良氏本拠を引き継ぐ家系を東条松平家とし、吉良氏を一家臣とし取り込み、松平一門宗家、家康の遠江(とおとうみ)支配の大義とし、完成する。

忠次はこの功で、松平一門、松井松平家を創設し、当主となる。

家康は、松平氏と直接の血縁がない忠次を、まず、松平一門の能見松平家の娘と結婚させる。

妻の縁で松平一門としたうえで、新たに松平姓を与え、松井松平家を起こさせた。

忠次は、(やす)(ちか)との名乗りを許され、初代、松平(やす)(ちか)となる。

東条松平家を支える一門筆頭家老となる。

吉良氏を受け継いだとした東条松平家、家忠(1556-1581)は、子なく1581年亡くなる。

そこで、家康は、秀忠の弟、4男の忠吉を養子入りさせ、後継とする。

家康の実子が後継となり、東条松平家の格は上がり、遠江支配は盤石となる。

松井松平家は、代々、吉良家の筆頭家老の家柄だ。

そのため、家康は、松平(やす)(ちか)の実力を認めても吉良氏・今川氏を引き継ぐ東条松平家を全面的に支える柱としては、役不足だと考えた。

特に、忠吉を後継とした以上、より家臣団の層を厚くする必要があった。

そこで、もう一つの柱に、武勇著しい井伊直政を抜擢すると決める。

瀬名姫の母の実家、井伊家を今川氏に通じると見なした。

直政は、家康から家康家臣や新たに家康家臣となった武田家・今川家旧臣を与力として付けられ、家臣団の層を厚くしていた。

彼らは直政の元よく働き井伊勢の軍事力の中心となっていた。

直政は彼らを従え良く戦い、井伊勢は武功を挙げ、直政の統率力が秀でている証を見せつけた。

家康は井伊家への影響力を強め、直政や井伊家家中の動きすべてを把握している。

そして、直政の家康への忠誠心を確信し、抜擢したのだ。

それでも、井伊家が、瀬名姫の縁戚であるだけでは、東条松平家の両輪となる大義には弱い。

そこで、家康は、直政を血縁によってより強く結びつけようとした。

以前から、(なお)(とら)の願いを聞いており、直政は20歳になりそろそろ時期が来たと松井松平家、(やす)(ちか)の娘、花姫との結婚はどうかと勧めた。

今川氏を引き継いだとされる東条松平家の筆頭家老、松平(やす)(ちか)と共に、東条松平家を支えるよう命じたのだ。

直政は、驚きと喜びで興奮した。

 直虎も、西郷正友から知らされた吉報を喜んだ。

井伊家の長い歴史の一コマを自ら創っている実感に震える。

瀬名姫に感謝したい。

(やす)(ちか)の娘婿となり、松平一門に名を連ねるのだ。

これ以上の吉報はないと、謹んで受ける。

こうして、1581年、直政と花姫の結婚が決まる。

しかも家康は、直政への期待を込めて、井伊家の格を上げる為に、花姫を養女とした。

家康の娘(養女)との結婚で、直政は家康の婿になるのだ。

直政も「二つの柱(松井松平家・井伊家)をうまく結びつけるように」と結婚の取次役を西郷正友を願い認められる。

 東条松平家を引き継いだ忠吉は、義理とはいえ、西郷正友の甥でもある。

忠吉を支えるための結婚であり、取次は適任だ。

正友は、直政の母、ひよの妹を妻にし、母方の叔父となっていた。

直虎が結びつけた結婚だ。

直政にとっても身近な兄のような存在でもある。

安心してすべて任す。

正友は、改めて「花姫様と直政様の結婚の取次を命じられた」と、(なお)(とら)に挨拶する。

「直政に家康様ゆかりの姫を迎えたい」と頼まれて以来、折に触れ家康や側近に願っていたことが、実現したのだ。

正友は得意そうに嬉しさを隠し切れない様子で挨拶した。

(なお)(とら)の思いを適えられたと、大役に胸が一杯なのだ。

家康の重臣にでもなったかのように気負った言い方を、(なお)(とら)は笑いながら受け入れた。

(なお)(とら)は、自分の過去を振り返り、直政を思い、良き妻を持って幸せにしたいと思う。

結婚へのあこがれを持っていた若い頃があった。

何度も結婚話が持ち上がるが、結婚しなかったが。

父母の愛に包まれて、嫡流の唯一の姫として、常に尊厳を持って生きた。

だが、似合いの結婚ができるはずが、実現しなかった。

内心忸怩たる思いを持って怒ったり嘆いたりもした。

そして時が過ぎ、井伊谷城を追われた。

全てを無くす不安に陥ったときもあるが、短い期間で井伊谷城を取り戻した。

振り返ると、家族の愛に包まれ、穏やかで静かな充実した暮らしだったと思う。

比べて、直政は、父を覚えないまま亡くし命の危険にさらされ逃げる暮らしが続いた。生母、ひよが常に側に居り、母の愛には包まれたが、緊張の連続で落ち着いた家族としての暮らしはなかった。

かけがえのない大切な母、ひよだったが再婚し、直政は、養父とともに暮らすようになった。

これも短い期間で終わり、まもなく、井伊家当主、(なお)(とら)に引き取られ養子となった。母とは離れた。

以後、直虎の保護のもと、次期当主として厳しい修練を積んだ。

そして、直虎とも離れ、家康の側近くで仕えることになった。

(なお)(とら)は、直政には落ち着いた家族の暮らしはなかったと、かわいそうに思う。

直政に愛する女人と子に恵まれた幸せな家族を持たせたい。

自ら家族を作ることは(なお)(とら)には出来なかったが、直政には実現させたかった。

そのため、家康に働きかけ続け、素晴らしい結果が出たのだ。

正友以上に興奮し、喜んだ。