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井伊家の始まり始まり??|井伊直虎の生涯 前編(1)

だぶんやぶんこ


約 8364

 井伊家といえば、幕末のヒーロー、江戸城桜田門外の変で殺される大老、井伊(いい)(なお)(すけ)が有名。

幕府を背負い国難を乗り切ろうと奮闘するが、江戸城桜田門外(東京都千代田区霞が関)の変で殺された。

譜代筆頭彦根藩三五万石藩主であり、幕政では圧倒的権力を握ったが、殺され方があまりに天下を率いた人に相応しくなく、評判を落とした。

井伊直弼は、尊王攘夷派を弾圧する「安政の大獄」を強力に実行し、追い詰められた水戸浪士らが襲撃を計画していた。

そんな不穏な状況であることを、重々承知していたが、気にする風を見せることなく、大義を掲げて幕政を主導する。

それでも、剣術に秀でた藩士を中心に六〇名の護衛を付き従え登城し、万全ではなくても守りは固めた。駕籠かきや徒歩人足も含むが。

襲撃側は一八名で、そのうちの二名は見張りだった。

負けるはずがない警備体制だった。

だが、戦いが始まり終わるまで一〇分余り。直弼は戦うこともなく首を取られた。

 牡丹雪がちらつき、足元も視界も悪い手足が凍るほど寒い朝だった。

水戸の浪士たちは、直訴を装い飛び出して駕籠を止め、中に居た直弼めがけて銃を発射した。

駕篭を守る警護も、飛び出してきた浪士を押さえる藩士も間に合わなかった。

浪士の思うままだった。

こうして、直弼の腰部に弾丸は当たった。

発射音を合図に浪士が飛び出す。

幸先の良い始まりに、士気が上がり、警護の藩士に勢いよく飛びかかり、切りつけた。

襲撃を想定し、その際の防御の仕方は入念に打ち合わせしていた。

なのに、彦根藩士は、危機感が薄かった。

銃に対応する訓練もなく、雪にぬれると刀や(さや)が傷むと、刀と(さや)に柄袋をかけ、その上(さや)に鞘覆いをかけ、二重に保護し、刀を取り出せにくくしていた。

主君に向けて発射された弾丸に驚き、慌てた彦根藩士は、鞘覆いを外し、柄袋を外すのに手間取った。

ほとんどの藩士が戦う前に討ち取られ、わずかだったが、奮闘した藩士も戦死した。

襲撃ありと、覚悟を持って訓練をしていれば、あり得ない事だった。

幕府の危機管理を主導し反幕府勢力を一掃する大弾圧をした直弼が、自らの危機管理のなさを露呈し殺された。

泣くに泣けない幕末の幕府の現状を表している。

その井伊家の歴史は長い。

時にファンタジーの世界に入り込み、変幻自在に生き抜いた名家だ。

その間、存亡の危機がいくつもあった。

その一つが、戦国時代、(なお)(とら)が生きていたときだ。

危機が迫った時、(なお)(とら)は、燦然と光り輝き、井伊家を再興した。

(なお)(とら)が生まれ、井伊家を背負う契機となる日まで綴る。

目次

一 井伊家の始まり始まり??

二 (なお)(とら)曽祖父、直平と娘、直の方

三 (なお)(とら)、誕生

四 (なお)(とら)の父、直盛

五 (なお)(とら)(なお)(ちか)

六 (なお)(とら)出家する

七 (なお)(ちか)の裏切り

八 直盛の決断

九 (なお)(ちか)、井伊家当主に

一〇 (なお)(とら)、井伊家当主に

一一 井伊谷城主、直虎の治世

一二 直虎、井伊谷城を奪われる

井伊家の始まり始まり??

井伊家の始まりは、おとぎ話だ。

井伊家の歴史は??が続くが、不可思議な面白さで周囲を魅了し、歴史に名を残す。

まずは始まりから。

昔々、九九〇年頃、遠江(静岡県大井川以西)国司(祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り絶大な権限を持つ官吏)となったのが藤原北家の一族、藤原共資(ともすけ)

藤原共資(ともすけ)は、都から遠江国に赴任し治める。

志津城(浜松市西区村櫛町)を築き、租税徴収等の役目を熱心に果たす。

役目は楽しく、任期を終えた。この地は居心地が良く、都に戻りたくなくなった。

そこで城に留まり、自らこの地を治めることにする。

藤原北家は、天皇の外戚となり続け、都で絶大な権力を築き上げた。

摂関政治を世襲し政治の実権を握り、そして五摂家を作り、公家の頂点に立った。

だが、共資(ともすけ)は嫡流ではなく都での栄達は望めなかった。

地道に力を蓄え、この地の最高の権力を持つことができれば十分だと考えた。

そのために、在地の有力者や、在庁官人とも友好な関係を結び、人脈を築きながら、恵まれた暮らしを謳歌した。

こうして二〇年が過ぎ、藤原共資(ともすけ)一族は、この地の暮らしに根付いた。

一〇一〇年正月、共資(ともすけ)は、井伊谷の八幡宮に初もうでした。毎年のことだったが。

その時、御手洗(みたらい)の井(神前に行く前に身を清める井戸)の側で大きな泣き声をあげている赤児を発見する。

赤児なのに、すべてを見通す眼「虎の目」を持ち、共資(ともすけ)をじっと見つめた。

目鼻立ちの整った美しい顔に野性的な目が光っていた。

共資(ともすけ)は吸い付けられるように、見詰め、思わず抱き上げると、すぐに泣き止んだ。

この出会いは、神のお告げだと、全身を震えさせながら、大切に抱き、屋敷に連れて戻る。

以後、家族同様に育てる。

成長と共に並外れた才知を発揮し、第一印象に間違いはなかったと、出会えた幸運に感謝した。

共資(ともすけ)には男子がなく、娘ばかりだったが、皆、実の兄妹のように仲よく育った。

「神の子だ。間違いない」と興奮し、家中に話す事が増える。

どんな事があっても離したくないほど大切になり、娘の婿養子とし、後を継がそうと考える。

家中に図ると皆、大賛成だった。

こうして「虎の目」を持つ容姿端麗な赤児が、成長し、娘婿養子となり(とも)(やす)と名乗る。

捨て子がこの地の領主の娘に愛されて、後継者となったというお話が出来上がる。

共資(ともすけ)は、田地の開発を積極的に進め広げ、収入を増やしていた。

現地赴任の国司(受領(ずりょう))が在地した時の典型的な成功例で、潤沢な資産を作った。

すると、都からの赴任者、よそ者ではなく、領地に根ざし領民に愛されるこの地の土着の支配者になりたくなる。

そこで、その地の子を拾い上げ、後継とする領民第一の微笑ましい話が生まれたのだ。

同時に、共資(ともすけ)の郷土を愛する思いが広く伝わり、領民の心を打ち、名君として慕われることになる。

(とも)(やす)が天からの授かりものになるには理由があった。

遠江には、共資(ともすけ)と同じく朝廷から与えられた役目が終わっても在地し新国司に従い治める在庁官人になった藤原一族やその前からの名家、三宅氏など有力な一族がいた。

共資(ともすけ)は、彼らと競いながら、通婚しながら勢力を伸ばした。

だが、一歩先んじた個性を出さなければ、この地の盟主にはなれない。

そこで、共資(ともすけ)は、共資(ともすけ)の縁戚と三宅氏の娘の間に生まれた子、(とも)(やす)に井伊家を託したいと考えた。

二人は優秀で、生まれる子もきっと賢いと、確信していたからだ。

貰い受け、引き取った時点では、多少不安があったが、成長を見守り、納得した。

予想通り、神童と噂されるほどの優秀な子に育った。

共資(ともすけ)は、綿密な計画を立て、生まれた(とも)(やす)に井伊家を託したのだ。

国司が定められる以前、大和朝廷に属した地方豪族が国造(くにのみやつこ)に任命され、治めていた。

その前は、ヤマト王権の代理として地方豪族が(あがた)(ぬし)に命じられ治めた。

その浜名県主が三宅氏だったのだ。

時代を経て、浜名(はまな)惣社(そうじゃ)神明宮(しんめいぐう)(浜名市北区)の宮司を世襲する。

権力は、かってほどではなくなったが、この地の精神的支柱としての存在感は光っていた。

 そこで、共資(ともすけ)は、三宅氏との縁を重視し、この地に根付こうとしたのだ。

一〇三二年、家督を継いだ娘婿、(とも)(やす)は、神聖な井戸の側で拾われた縁を尊び、この思いを持ち続ける。

拾われた井戸の地、井伊谷から名を取り、井伊氏を名乗る。

井伊家の始まりの地とし、()伊谷(いのや)(じょう)(浜松市北区引佐町井伊谷字城山)を築いて本拠とする。

井伊谷は、遠江国の最北端にあり、西は三河、北は信濃、南は浜名湖に続く。

城は、井伊谷川に神宮寺川が合流する北側の尾根に築く。

南は三方からの敵の動きが見通せ、北は標高が高い山が連なり守りは固く、適地だった。

井伊谷の由来は、八幡宮(渭伊(いい)神社(じんじゃ))の南に冷泉が湧きだした事と伝わる。

それゆえ、八幡宮(渭伊(いい)神社(じんじゃ))は万物の命の根源、ご神水を祀る為に建立された。

(とも)(やす)を生み出したゆえ、井伊氏の氏神となる。

築城とともに、八幡宮は移され、井戸のあった地は(とも)(やす)の菩提寺となる。

霊水が湧き出るように生まれた赤子が神童と崇められ、井伊家の創始者となるという不思議なおとぎ話が、井伊家の始まり始まりだ。

こうして、平安時代から始まった井伊家。

時を経て、源氏に味方し鎌倉幕府の成立の為に戦い、勝利者となり、遠江国人としての地位を固め勢力を広げながら代々続く。

一族は分家し広がり、彼らを従え、また、周辺の国人衆(横地氏・勝間田氏ら)と血縁を結び、遠江の盟主的な位置につく。

 分家して井伊家を支える一門衆は。

まず、赤佐氏。

一一七〇年、六代目当主、盛直の次男が、遠江国麁(とおとうみこくあら)(たま)郡赤狭(ぐんあかさ)(ごう)を与えられ本拠とし、分家した。

その後、奥山城(浜松市北区引佐町奥山)を築き本拠としたため、奥山氏を名乗ることになる。

井伊家と共に、不可思議な伝説を創る井伊家第一の一門衆だ。

一三三六年、鎌倉幕府が倒れ南北朝の戦いが始まった。

井伊家当主、井伊道政は、奥山氏当主、直朝・嫡男、朝藤父子らを従え、南朝に与する遠江衆の主力となり戦った。

翌一三三七年、()醍醐天皇(だいごてんのう)の皇子、(むね)(よし)親王(しんのう)が征東将軍となり、井伊谷城に入る。

井伊氏の戦力を主力とし、北朝、今川勢らとの戦いを指揮するためだ。

(むね)(よし)親王(しんのう)は、井伊道政の戦功を褒め、軍事力を頼りとした。

出迎えた道政は、(むね)(よし)親王(しんのう)の厚い信頼に答え、張り切って(むね)(よし)親王(しんのう)の居館を建てる。

標高四六六mの三岳(みたけ)山に三岳(みたけ)(じょう)(浜松市北区引佐町三岳字城山)を築き、差し出し、(むね)(よし)親王(しんのう)の居城となった。

この城は南朝の拠点となる。

伊井氏は、井伊谷城を本拠とし、その麓に井伊城、本丸・二の丸・三の丸を築いている。

その二・六㎞北方に詰めの城、三岳(みたけ)(じょう)が築かれたのだ。

南朝方、井伊勢の布陣は、整った。

以来戦い続けたが、()醍醐天皇(だいごてんのう)が病に伏したとの知らせで(むね)(よし)親王(しんのう)は吉野に戻る。

()醍醐天皇(だいごてんのう)崩御後の一三三九年、再び、井伊谷城に戻り、陣頭指揮を執る。

(むね)(よし)親王(しんのう)をもてなすのは、いつも、道政の娘、駿河姫だった。

始めての出会いから惹かれ合い、結ばれた。

だが、()醍醐天皇(だいごてんのう)亡き南朝は弱く、翌年、井伊谷城は北朝勢に攻め込まれる。

井伊勢は、防戦するも詰めの城、三岳(みたけ)(じょう)にまで追い詰められ、ついに、落城した。

やむなく、道政は(むね)(よし)親王(しんのう)を守り、駿河へ落ち延び、さらに越後、信濃へと後退しながら戦いを続ける。

駿河姫は残された。(むね)(よし)親王(しんのう)と二度と会うことはない。

その時、愛の結晶、(ゆき)(よし)親王(しんのう)を宿していた。

道政は、(むね)(よし)親王(しんのう)を擁して奥山勢を引き連れて戦い、井伊家の本拠を奥山朝藤の二男、定則に守ることを命じた。

そして、駿河姫の安全と親王の誕生を見守るよう命じた。

定則は、父、朝藤を引き継ぎ宗家、井伊氏と共に南朝方として勇猛に戦い、駿河姫を託すにふさわしい猛将だった。

命令を受けて、駿河姫を守る為、北朝勢が踏み込まない奥地に高根城(久頭(くず)(ごう)(じょう))(浜松市天竜区水窪町地頭方)を築く。

駿河姫は、戦いのない高根城に入り、緊張せず安らかな思いで、(ゆき)(よし)親王を生む。

井伊道政は、歴戦を戦い抜くが、南朝の勝利は難しかった。

疲れ果て、(むね)(よし)親王(しんのう)と別れ、井伊谷城に戻る。

(むね)(よし)親王(しんのう)は信濃大河原(長野県大鹿村)の国人、香坂(こうさか)高宗(たかむね)に迎えられ、この地を南朝の拠点とし戦い続ける。

香坂(こうさか)高宗(たかむね)の娘を愛し、信濃を最後の地と定め、思う存分戦い、生涯を終える。

この地で幾人かの子が生まれている。

高根城(久頭(くず)(ごう)(じょう))は、遠江最北端に位置する山城で、標高四二〇m・比高一五〇mの三角山の山頂を中心に築かれた。

水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろす位置にあり、信遠国境警備を目的として築かれたのでもある。

駿河姫と(ゆき)(よし)親王を守るにふさわしい、難攻不落の堅城だった。

こうして、井伊氏は後醍醐天皇の孫の外祖父の家系となった。

篤き志をもって南朝へ忠節を尽くし、後醍醐天皇の子を支え、孫を守った義士として名を残すことになったのが井伊直政。

不確かな部分もあるが、これもまた井伊家らしい壮大なロマンだ。

駿河姫を守り、(ゆき)(よし)親王の守役となった奥山朝藤の二男、定則。

(むね)(よし)親王(しんのう)が戻らないことがはっきりすると、駿河姫は、(ゆき)(よし)親王を一人で育てると覚悟を決め、この間、真摯に仕えた定則を伴侶に選ぶ。

定則は、駿河姫を心から愛し、二人の仲は睦まじく、添い遂げる。

南朝を指揮する(むね)(よし)親王(しんのう)の妻となった駿河姫は、宗家を代表する存在であり、婿となった定則の地位は上がり、奥山氏次男の系統が嫡流を凌いで宗家、井伊氏との関係を強めていく。

奥山氏本拠は高根城(久頭(くず)(ごう)(じょう))となり、奥山定則は、宗家と共にある宗家に次ぐ位置になった。

(ゆき)(よし)親王(しんのう)は成長すると井伊家を去り、父を引き継ぎ征東将軍となり戦い、戻ることはなかった。

だが、嫡流には苦渋の、腹立たしい時となる。

それから何十年もの日が流れ、奥山朝藤の嫡男、朝実(定則の兄)から朝実の嫡男、親朝が奥山氏嫡流を引き継ぐ。

奥山氏嫡流を引き継いだ奥山親朝は、嫡流としての誇りを持った野心家であり、井伊家一門筆頭の座を取り戻すと決意した。

志半ばで倒れるが、嫡男、朝利に夢を託す。

朝利が、奥山氏嫡流の意地を見せ、花を咲かせていく。

貫名氏。

井伊盛直の三男が遠江国山名郡貫名郷(静岡県袋井市)を与えられ、分家して名乗る。

家を興して間もなくの一二二一年、鎌倉幕府と朝廷との戦い、承久の変が起きる。

貫名氏は、朝廷側に付き、反幕府側として戦った。

鎌倉幕府は勝利し、貫名氏は、あえなく、敗れ、安房国(千葉県)への流罪となる。

こうして、遠江の貫名氏は絶える。

だが、安房国で、一族は生き延び、愛を育み、子が生まれていた。

その子の一人が、日蓮宗 (法華宗) の宗祖、日蓮上人となる。

伝説的で有名な話だが、井伊家は優秀な名家だとの証明になった。

()(だいら)氏。

八代、(みつ)(なお)の子、直時が井平、花平を与えられ殿村(浜松市北区引佐町伊平)に居館を構え()(だいら)を名乗る。

井伊谷北方にある()(だいら)は三河との境にあり井伊領を守る最も重要な地だった。

時が過ぎ、井伊一門中、奥山氏の力が落ち、貫名氏は絶え、渋川氏が去った時、()(だいら)氏が一門筆頭の座に就く。

軍事力・政治力に秀でた()(だいら)氏の娘が、井伊家一六代当主、直平・一七代当主、直宗と結婚し、権勢を誇る。

()(だいら)氏は、直虎の祖父、直宗の母の実家であり、その上、妻の実家となり、直宗と強い縁で結ばれた。

縁が強すぎ、常に、直宗とともにあり、戦った。

直宗が戦死すると、井平家、当主・嫡男がともに戦死し、急速に力をなくすことになる。

渋川氏。

一一代当主、泰直の子、直助から始まる。

渋川村(浜松市北区引佐町渋川)を与えられ本拠とし、その地の名を名乗る。

(むね)(よし)親王(しんのう)の守役となり、側近く仕え、信頼され、井伊家中での地位は高かった。

戦いも強く、井伊軍団を主導した。

その後、遠江守護となった斯波氏と縁を結び、ますます勢力を広げた。

斯波氏が全盛の時、渋川氏は一門筆頭となる。

だが、斯波氏の栄華は、短く、今川氏が台頭すると押され凋落していく。

井伊家は、斯波(しば)(よし)(たつ)に従い戦うが、今川(いまがわ)(うじ)(ちか)に敗北し、降伏し従う。

渋川氏は、最後まで、斯波氏と共に戦い結局、負ける。

一五一五年、斯波(しば)(よし)(たつ)は捕虜となり尾張に送り返され、渋川氏は、行き場を失った。

(うじ)(ちか)から激しい憎悪の目を向けられており存続は難しく、井伊谷を離れ甲斐国(山梨県)へ逃れ、断絶した。

中野氏。

一四代当主、忠直の子、直房から始まる。

直房は、直平の叔父になる。直平のいとこが二代目、直村。三代目が(なお)(よし)

直虎の父、直盛は、年齢の近い(なお)(よし)に全幅の信頼を置き、一門筆頭の扱いをした。

そして、遺言で井伊谷城代とし、直虎の後見を託した。

(なお)(よし)は妻・娘・息子と共に、一家で直虎に仕えた。

直盛は「直親を娘婿養子とし、家督を継がせる」とは言ったが、後継とは明言しないまま亡くなった。

中野(なお)(よし)の嫡男、直之を(なお)(とら)の婿にし、家督を継がせたいと思う時もあったためだ。

中野家は井伊家・徳川家の為に働き、徳川系の重臣が質量とも圧倒的となる彦根藩でも一門筆頭家老として権勢を保ち続ける。井伊家安中藩でも、中野家から養子入りした松下一定が筆頭家老として続く。

父を愛し継承しようとした(なお)(とら)の信頼が厚い中野氏は、直虎が強力に推したゆえに、直政も重用し生き残った。

(なお)(よし)は、分を知り、控えめに、井伊宗家に尽くし、功績を上げ、なるべくしてなった一門筆頭の知恵者だった。

 一門衆は幾家も出来たが、井伊家宗家の栄枯盛衰と同じように浮き沈みがあった。

(なお)(とら)が認めた中野家が一門筆頭として生き残り、(なお)(とら)が嫌った奥山家は、影が薄くなる。