笑顔の底力
淺野マリ子
約 9453
いつも通り、午前中の病院ボランティアを終え自宅に帰ると、まず、パソコンのメールボックスを開くのが、一つのルーティンでもあり、楽しみになっている。
今日も同じようにパソコンに向かい、メールボックスを開いた私は、届いたメールに一瞬驚きと戸惑いを覚えた。
差出人は六条院小学校長とある。
確かに、私は六条院小学校の卒業生であり、「はじめまして・・・」の件名に、突然のメールとはいえ、逸る心も隠せなかった。
間違いなく、母校の小学校の校長先生からのメールであった。
2017年から私の母校に赴任した校長先生で、余裕もでき、校長室の本棚に、出版時に寄贈した「笑顔の力」が目に留まったそうだ。
2012年11月に出版した拙著「笑顔の力」を、母校の小学校にも贈呈した記憶がある。
前任の校長先生からは、几帳面な文字の礼状が届き、そのまま書棚に残して、2017年3月で、六条院小学校を去ったのであると、察した。
後に新しく赴任した現校長先生が、本棚の拙著を見つけたという経緯になる。
受け取った校長先生のメールによれば、「校務をそっちのけ?であっという間に拝読させていただきました」
さらに「ほほえみとまなざしは」・・・は私の大好きなことばです。
既に2年半の時の経過を不安視する心情が、汲み取れる一方で、私にぐいぐいと、また、さり気なく、校長先生の真剣な想いがひしひしと伝わってきた。
故郷に帰ることはありませんか?
新しい校舎になった母校にお越しになりませんか?
最後に、メールアドレスが生きていることを祈りながらと結んでいる。
校長先生が、私の拙著を読んで、校務を放り出してまでも心に留めて頂いたことは、素直にうれしい限りである。
メールから校長先生の正直な気持ちが汲み取られ、目的はわからないが、嬉しさと、不安感が交錯していた。
校長先生への返事を私は数日間、迷っていた。
本来であれば、すぐ、母校をネットで検索するのだが、私は現在の母校を知りたいという気持ちがなぜか、起こらなかった。
むしろ、61年前のふるさとの風景が、止めどなく頭の中に広がり続けた。
岡山県浅口郡六条院小学校で、岡山駅から在来線の山陽本線で凡そ、一時間の位置にあり、私の自宅は駅から、10分で自宅に、また、母校の小学校はさらに徒歩で10分というちょうど、我が家は駅と小学校を挟んでどちらかにせよ、真ん中にあったといえる。
駅からは、一通りの商店街が続き、山陽本線が走る踏切を超えると、一本の道路を挟んで、
自宅を取り巻く春夏秋冬の日々、麦畑や稲作の田んぼ、休耕期間にはレンゲ畑でピンク色に染まり、畳表の原料のイ草が青々と茂り、風で、キューピー人形の頭のようにウエーブ状態になることもあった。
当時、麦踏み休暇、田植え休暇など、農作の季節に学校生活も合わせていた。
線路際には、月見草が背伸びするかのように並び、弱弱しい花をつけていた。
私はかつて過ごした往時の風景が懐かしく、郷愁といわれる思い出が薄れるのを目の当たりにするのが、寂しく耐えられなかったのである。
さらに自宅には、柿、無花果、山桜桃梅、柘榴、苺、トマト、キュウリ、茄子と多種多彩の生り物、大輪のダリヤが伸びやかに門前を飾り、道路に沿って、水源は記憶にないが、小学校から流れてくる凡そ、幅1メートルの川には、メダカ、ドジョウ、ザリガニ、時々ホタルが飛び交っている自然に恵まれたふるさとが、堰を切ったように思いだした。
然し、その反面、私は7か月という未熟児で、その後の私は恵まれた自然環境に反して
幼稚園にも通えないほどの虚弱体質で、小学校に入学後も、遠足や体育、運動会などの団体行動では、体力的に適わず、挫折することが多く、同級生に引け目や劣等感を持ち続けた小学校生活しかなく、悲しいかな、笑顔で晴れ晴れとした思い出はなかった。
かつての母校への苦い想いも鮮明に蘇ってきたために、校長先生のメールに対して、即座に返事ができなかったのである。
私の拙著を評価して、校長先生のふるさとへの誘いには、何らかの目的があってのメールと日を追って、思い切って帰郷しようと思う気持ちが強くなっていた。
さらに私の笑顔のキーワードである「ほほえみとまなざしは大好きなことばです」は、特に決定づけたといえる。
帰郷の決意までには、せっかちな性格の私に珍しく慎重さが支配もしていた。
校長先生のメールから、5日後に承諾のメールを送った結果、2018年、母校のPTAが70周年を迎えるにあたり、「笑顔の力」というテーマで記念講演の依頼だった。
6月16日土曜日という日程も決まっており、私は改めて、「笑顔の力」を読み込んだ。
これまで、病気がちな私に両親は、心配が先立ち、笑顔の記憶が残念ながら無かった。
唯、小学校4年生の時の通信簿に、「国語が抜擢」という評価に、いつも眉間にしわを寄せている父親が、これまでに見たことのない笑顔を見せたのである。
その時、子どもながらに父親の表情の変化に、人は嬉しいことや、喜びには素直に「笑顔」になると、敏感に感じ、今も忘れないほどの出来事であった。
お医者さんが、いつも「よかったなあ」と心から喜んでくれる笑顔が強くいつまでも心に残り、その後も、医療者との笑顔に支えられてきた私は、病気の方にとっての笑顔はどんなにか、大切な要素だといつしか、幼児体験を通して感じ取ってきた。
後に私は、病院ボランティアとして、病気の方の「お話し相手」として、優しいまなざしで接するように心がけてきた体験を一冊の本にまとめたのが「笑顔の力」である。
今回の母校の「笑顔の力」について、対象者が保護者中心に高学年の児童や地域や、関係機関に至るとの広範囲さにどのように話を進めたらいいだろうかと考えた。
笑顔のどの部分に焦点を絞るか、人が笑顔を求めるときはどんな時か、と次々に頭を駆け巡るも、パワーポイントに描くもののなかなか、まとまらない日々が続いた。
既に校長先生とは、メールの交換を重ねているうちに、なかなかのアイデアマンでもあり、今回の記念講演の情報発信にもポスターや浅口市の広報誌に至るまでの大がかりな取り組みに、私はプレッシャーというか、緊張が走り、責任の重さを感じていた。
一方では、校長先生とのメールのやりとりに、旧知の間柄のような錯覚を覚え、これまでの母校への負の思い出がいつしか消え始めている自分に気づいた。
1951年六条院小学校に入学、1957年卒業した学び舎に61年ぶりに帰る日が来た。
流石に梅雨期にも関わらず、「晴れの国おかやま」のキャッチフレーズを裏切らなかった。山陽新幹線開通後の岡山駅はすっかり様変わりして、賑わっていた。
岡山市内で一か所挨拶をしておきたい先があるも、タクシーに頼らなければ適わなかった。
訪ねた先も、私のかつての思い出の地ではなく、息苦しさを覚えた私は、早くその場を去りたく、タクシーに逃げ込んだ。
タクシーの運転手さんに、「もう、田植えは終わったのですか?」と尋ねると、「お客さん、ちょうど、植え終わったところですよ」
思わず、「カエルの声も聞こえるかしら?」
「お客さん、このまま、中庄まで乗車してくれれば、その風景を通りますよ」
「えっ、本当?じゃあ、このまま中庄まで、行ってちょうだい」
鏡面のような穏やかな水面に、植え付けたばかりの若緑の小さな稲が続いている。
ああ、この風景、窓からの田園風景特有のにおいに、故郷に帰ってきたと実感した。
ふるさとの鴨方駅の一つ手前の駅で、下車した金光駅は、私が4歳の時に脱腸の手術をした病院もすっかり、新しい近代的な病院に変わっていた。
文政10年創業の和風旅館のロビーで、校長先生と、「はじめまして」となった次第である。
初めてお目に掛かる我が母校の校長先生は、しっかりした体格の持ち主であると共に、すべてを包み込むような温かく穏やかな「笑顔」に、講演を引き受けて良かったと思った。
校長先生の溢れる「笑顔」に、私は帰郷の決心を素直に受け入れることができた。
まさに「笑顔の縁」の始まりであった。
翌日の講演の朝、校長先生は宿泊先の旅館に、わざわざ、迎えに来てくださった。
母校までのふるさとの風景に、61年の時を経て、目を見張るほどの様変わりであった。
校長先生の車から降り立った時、明るく近代的でシンプルな建物に、門の前で暫く立ち止まってしまった。
私の姿に気づいて急いで走ってきてくださったのは、教頭先生であった。
その教頭先生も溢れる笑顔で「お帰りなさい」が第一声であった。
教頭先生の一言は、母校に帰ってきた我が子を笑顔で迎える親のような温もりを覚えた。私は、50代で両親を亡くして以来、「お帰りなさい」「ただいま」はいつしか聞く機会の無くなった言葉であった。
母校の中で、変わることなく私を迎えてくれたのは、二宮金次郎像だけであった。
既に、講堂には、後輩の高学年生、続いて、保護者や、母校側が招待した教育関係者や、同級生、地元の新聞社、ケーブルテレビなどが私を待っていた。
然し時間が経過するうちに、正直なもので、専門的な内容になると、高学年の児童が落ち着かなくなるのである。
私は、敢えて、テーマから逸脱して、後輩にあたる高学年生に、ある問いかけをした。
母校のある浅口市は、岡山県でも一番小さな市である。
18年前に金光教総本部のある金光町と、瀬戸内に面した海の幸に恵まれた寄島町、市役所の所在地の鴨方町の3町が合併して、それぞれの町が特徴を持っている。
浅口市は大気の安定している町で、天文台には最適地で「天文のまち あさくち」といわれて、山の頂には間もなく60年を迎える国立岡山天文台、京都大学の天文台もオープンの準備をしているといった町である。
また、昔から、教育県としても知られるように、教育には熱心な地域である。
事前に調べていた浅口市に「市の花」がないことに気づき、「故郷の浅口市を象徴する花は何がよいですか?」と問いかけた。
これまで、落ち着きのなった児童たちが、急に活き活きとした表情に変わり、伸び伸びと、それぞれの花の名前を声に発してくれたのである。
然し、本来の趣旨から完全に逸脱していることは明らかである。
子どもたちが取り戻した活力に対して、教職員の困惑を私は感じてもいた。
つい、私は一番近くで、一所懸命に大人しく私を待っていた後輩の児童の瞳が気になり、情が移るのである。
元気に手を挙げて、花の名前を挙げる高学年生の児童に、私は母校の未来の後輩の声を感じ取り、「これでいいのだ」と思った。
子どもたちは、自分たちが主役を取り戻した時の喜びが、痛いほど、私には伝わってくる。
これまでに講演や講師で、場慣れをしているつもりでいたが、初めて対象者の幅の広さの難しさを体験したが、母校の児童の笑顔や、元気な声が心に心地よく残った。
その後、私は、元PTA会長から現在は市役所で社会福祉のポストの方から、思わぬ「笑顔の力」についてのチャンスを、また、現会長から、「先ほど、花の提案をしていたうちの一人は私の子どもで」と聞くことができた。
決して、苦労した今回の講演は無駄ではなかった。
何たって、また、故郷に帰れる機会ができたのである。
ということは、今回の講演は、その人、その人によって必要とする部分は十分に伝わったのではないだろうかと思った。
翌日の予定があるために、限られた時間しかなかった。
「これから、東京まで送ってきます」と教頭先生に声をかける茶目っ気たっぷりの校長先生に送られて、61年ぶりにふるさとの鴨方駅に立った。
すっかり明るくモダンになった駅のホームで列車の到着を待っている時、一陣の風が私を巻き込んだ。
その瞬間、私は、嗚呼、この風こそ、かつてのふるさとの懐かしい香りだった。
11月の帰郷まで、校長先生に、ふるさとの自然や母校の温もりに目覚めた私は、切々とメールに綴っていた。
私の50年来の友人からふるさとの話を聞く度に、私には不思議で他人事のように捉えていたが、61年ぶりの帰郷で、学び舎の母校への想いや、望郷の思いが初めて理解できた。
11月に帰郷が待ち遠しく、自分がこれほどまでにふるさとを想う変化に驚きを感じた。
この11月の帰郷には、5が月後の母校を訪ねる楽しさもあった。
私の小学校時代は、学校給食の導入は卒業するまでなかった。
校長先生に、学校給食の体験をしたいという厚かましいお願いをしていた。
予定の日が近づくが校長先生からの返事はなく、諦めにも近い気持でいたところ、当日の給食のメニューと、宮沢賢治の短編の「やまなし」の授業参観まで準備していますとのメールが届いた。
給食のメニューは、「バチ汁」という郷土料理とあったが、私には記憶がなく、ネットで検索して、鴨方でも、北部に近い地域では、糸のように細い寒そうめんの産地であり、食の細い私は、温めんにして食をつないだ体験を思い出した。
細いそうめんをきれいに揃えるために、両端をカットした先が三味線の「バチ」に似ていることから、それを利用して、野菜など入れた温かい汁物であった。
初めての郷土料理を楽しみにしていた。
宮沢賢治の「やまなし」についても、慌てて図書館に駆け込み、新幹線の中で読みながら、難しくどのような授業の展開をするのだろうかと、興味津々であった。
11月は、多くの目的や私の希望が叶う楽しみな帰郷となった。
前日までの雨が止み、澄み切った青空の朝を迎えた。
初めて、岡山県が民生委員の発祥の地であることを知った。
与えられた演題は「地域の力を笑顔の力で」、前回との違いは、民生委員、民生児童委員としての経験豊富な人達が対象である。
お陰様で、事なきを得たという使命感で安堵したのである。
講座が始まるまでの時間を縫って、オープン近い京都大学天文台の「せいめい望遠鏡」を案内してくださった時の、突き抜けるように高く澄み切った素晴らしい青空に私は、母校の笑顔と温もりに加え、我が故郷の空の美しさに魅せられた。
この日から私は、母校のあの笑顔と明るさ、伸び伸びとした校風に次いで、爽やかな青空に、ますますふるさとが忘れがたい存在となった。
翌日は、校長先生が宿泊先まで迎えに来てくださった。
昨日の講座の報告を済ませ、前回は長く感じていた母校に、あっという間に着いた。
6月の講演会を機に、校門に迎えてくれる教頭先生をはじめ、玄関先で、「ただいま~」と大きな声で挨拶をした。
すると、教職員室から「お帰りなさい」という声が聞こえ、「実家」に帰ってきた様な懐かしさを感じた。
校長先生が、今、学芸会の練習をしているからと、案内されると同時に「スター・ウオーズ」の迫力ある演奏に、思わず、こんな素晴らしく熟せる母校の児童に、私は驚いた。
次に「やまなし」の授業で、担当の先生は、各児童の感性を「なるほどね~」と丁寧に受け止めながら、進めていく姿に、私の時代の授業との違いをまざまざと感じた。
間もなく、待ちに待った学校給食の時間である。
校長室に、教頭先生が背中を押すようにして、一人の男子児童を連れてきた。
その児童は、恥じらいと緊張した表情で、教頭先生に促されるように、「給食の準備ができましたので、どうぞ」と、私を案内してくれた先は、2年生の教室だった。
教室に着いた男子児童は、水を得た魚のように、私をまず自分の隣の席に案内し、給食の手順についても、担当の教師は、その児童のもてなしを見守っているだけであった。
4人が一つのテーブルで、ほかの3人の児童も、興味深く私の一挙手一投足を見ていたが、
すぐに、「どこから来たん?」「何しに来たん?」と関心を示し、問いかけてきた。
初めての学校給食は、ボリュームいっぱいで、児童たちのスピーディに口に運ぶ美味しそうな表情は、笑顔に満ちていた。
あたりを見回しても、完食で、食べ終わると、それぞれが食器を定位置に運び、歯磨きが済むと、テーブルをみんなで元の位置に戻すまでが一連の給食後の行動だった。
先の男子児童の指示に従って、机を運び、牛乳瓶をそろえるなど、ともに行動をした。
その後、すっかり私に慣れた男児は、校内を案内しながら、自分の夢を話してくれた。
今考えると、学校側は、今回の帰郷時のシナリオが用意されていたのではないだろうかと、どれをとっても素晴らしいもてなしに、心から母校への想いが強くなった。
帰京後の私は、学校だよりといわれる校長先生の「笑顔輝け」や、教職員の児童との折々の活動記録のブログが欠かせない楽しみとなり、新しくルーティンが増えた。
岡山と、東京と離れているが、パソコンというツールで情報の共有もできた。
2019年ある日、自宅のマンションのポストに一通の母校からの封書が届いていた。
令和二年から、母校でもスタートする文科省が推奨している「コミュニティスクール」といわれる学校運営協議会の委員として出席をとの連絡であった。
第1回の学校運営協議会は、5月21日であった。
私には現在の母校を取り巻くふるさとの情報にはまだまだ不十分で、学校運営協議会開催日を利用して、思い切って1週間ほど、ゆっくりふるさと探訪をする決心をした。
ちょうど、母校の運動会もあり、子どものように心が弾んだ。
その運動会の前日、給食でもてなしてくれた児童が、運動会を前にして、体調がすぐれないと、廊下で担任の先生から聞いた。
担任の先生は、私に「運動会にいらっしゃると知ると、あの子はきっと立ち直って元気になると思うので、知らせてもいいでしょうか?」と、児童を想う気持ちに、「私で役に立つのであれば喜んで、どうぞ。よくなるといいけど、心配ですね」
翌日、校長室の私を見つけて「やっぱり、来てくれたんだ。来るとは思っていたけどさ」と、すっかり元気になった彼は、開口一番自分の思いを告げ、校庭に走っていった。
健康的で、はち切れんばかりの声を上げて頑張っている姿に、私は目を見張った。
こんな近くで、運動会を見たのは、初めてといってもよかった。
改めて、自然に恵まれたふるさとで、未来ある子どもたちのために、私が役に立つことがあれば、こんなに嬉しいことはなく、きっと、校長先生のプレゼントに違いないと思った。この1年できる限り、母校の参観日をはじめ、他の行事にも足を運ぶ決心をした。
「コミュニティスクール」とは、子どもたちを学校と、家庭と地域が一体となって、育てていきましょうといった教育方針である。
学校運営協議会の下で、委員はふるさとの良さや伝統や、田植えとか、桃の袋掛けとか、未来を担う子どもたちとその家族が、教育の現場とは異なった切り口で体験を通して楽しく学ぶという意図を持っている。
地元の人は至極当たり前に思っていることが、故郷を離れて初めて、故郷の特色や良さに気づくのである。
身を以ってふるさとの素晴らしさに目覚めた私は、母校の鴨方町六条院で、過ごした幾つもの思い出が駆け巡り、学校運営協議会にいくつかの提案をした。
時には、勢い余って、委員が戸惑うような提案をしても、卒業生の私を穏やかに受け止めてくれる温かく優しく包み込んでくれるのが分かる。
平均2か月に一度の割合で、委員会は開催されるまでに、自分でも驚くほど次から次へとふるさとで過ごした風景や出来事を思い出した。
校長先生から、校長職の定年は60歳と聞き、2021年の3月には六条院小学校をもって、卒業すると辛い話を聞いた私は、校長先生から「笑顔の力」という「笑顔の縁」で、私に希望と笑顔で支えてくれた気持ちに応えたかった。
現在の私の自宅は、道路を挟んで、土の残った公園がある。
必ず小学校と公園が隣接しているという特徴がある区といっても過言ではない。
特に、父親が相手をしている時の子どもたちの表情は、嬉しさを満面に出した笑顔、笑顔に、コミュニティスクールの体験学習に、稲を植えて後の水田に発生する害虫駆除や雑草駆除の提案をした。
子どもが父親との笑顔は、母親とはまた異なっていると、いつも感じていたからである。
後にブログから、この提案が成功したことを知ることができた。
唯、残念なのは、体験学習には私は提案のみで、心苦しく感じているが、校長先生からの
メールや、ブログで、その成果に一喜一憂していた。
コミュニティスクールは子どもたちが「笑顔」になる一番ふさわしいプロジェクトと思う。
達成感や、努力した成果がはっきりと形になって残るものが多く、遣り甲斐を感じるのではないだろうかと思っている。
子どもたちは、その成果に喜びを感じ「笑顔」を生み出す力を持っているのではないかと気づいた。
母校に帰るたびに、母校全体の雰囲気がどんどん、明るく伸び伸びとしている。
校長先生の「笑顔の力」の種が、見事に育っていることに気が付く。
下校時の明るい声と共に、校長室の窓ガラスを叩いたり、のぞき込んだりする光景に、校長先生が如何に子ども達に近い存在であり、心を開いているかが分かった。
ある時、私は「校長先生って『笑顔』しか洋服を持ってないように見えます」と、つい
言葉が口を滑った。
ところが、校長先生はいつもの笑顔に増して、「喜んでいただきます」と応えた。
幸せいっぱいで楽しい母校との縁が続き、令和2年度の第5回の学校運営協議会開催日が、3月25日との案内が封書で届いた。
空は澄み切った故郷の青空の下、既に花言葉が「笑顔」といわれる菜の花が延び延びと、ふっくらと実をつけた大麦も日差しを浴びて元気だ。
ふと、東京では、新型コロナウイルスが忍び寄っていたせいか、もしかして、母校との
最後の日になるような想いが過った。
予感が、現実となった私は、「笑顔の力」から更にもう一段階踏み込んだ「笑顔の底力」を、子ども達に交わって学び直したっかた母校への卒業論文として、校長先生に約束した。
これまでは医療の体験を通しての「笑顔」に対して、短期間ではあったが教育の現場での「笑顔」の体験を母校の場で、多く学んだ。
新しく教育の場で学んだ「笑顔」は、子ども達より目線を低くして、共に子ども達と喜ぶ宝物探しをすることだはないかと気づいた。
共に成長する喜びを、共有しながら、共に前向きに、明るく、一人一人の良さを見つけ、
達成感を味わうことで、必ず笑顔が生まれるといっても過言ではない。
「笑顔」には自分自身を育てていくうえでも重要な要素を持っていると思うようになった。
医療の現場であれ、教育の場であれ、「笑顔」は、様々な場で「底力」を発揮すると思った。
2月11日の建国記念日の日、静かな校長室から「ラストステージに先生(私)に巡り合えたことも、偶然ではなく、必然であったように思っています」とのメールが届いた。
拙著「笑顔の力」に端を発した校長先生に、61年ぶりの帰郷で、母校愛に目覚めた卒業生の私が、約3年間の「笑顔の縁」で辿り着いたのが「笑顔の底力」であった。
いつの日か、校長先生の「笑顔は人生のテーマ」となった話を、聞きたいと楽しみにしている。