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玉子死後の忠興の子たち|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(14)

だぶんやぶんこ


約 10432

玉子が亡くなった後、忠興は、家康への忠誠心を見せることや忠利の結婚相手を決めることなど忙しく働いた。

ようやく小倉城の拡張改修が完成し居城とし、成し遂げた喜びに浸った。

 

そんな時、清田(きよた)鎮乗の娘、幾知に出会う。

玉子のキリッとした表情がそっくりだった。

鎮乗は、豊後(大分県)の大大名、大友一族であり、大友氏改易の後、秀吉縁者、小早川家や福島家に仕えた後、1609年、豊前・豊後の新藩主、忠興に仕えた。

 

鎮乗は大友一門、志賀氏の生まれだが清田(大友)鎮(しげ)忠(ただ)の娘、凉泉院の婿養子となり、清田家を引き継いだ。

鎮乗の義父、鎮(しげ)忠(ただ)は、主君、大友(おおとも)義(よし)鑑(しげ)(宗麟)の娘、ジェスタと結婚している。

ジェスタは再婚であり、先夫、土佐一条氏、兼定との間に敬虔なキリシタンとなる娘、マダレイナ清田(1569?-1627)が生まれていた。

後に、壮絶な殉教を遂げ、高名だ。

 

ジェスタが再婚後、生まれたのが、凉泉院。

嫡男が早く亡くなったため、鎮乗を婿に迎え、清田家を継がせた。

生まれたのが、幾知。

幾知は、キリシタン大名、大友(おおとも)義(よし)鑑(しげ)(宗麟)のひ孫になる。

祖父母・父母・伯母、皆、熱心なキリシタンだ。

キリシタンに囲まれ、育ち、宗教心溢れた、神々しさを持った娘に育つ。

 

忠興は、清田(きよた)鎮乗の出身・武将としての力を認め、重用した。

領地の支配に貢献し、満足していた。

妻、凉泉院は、3人の男子と幾知を育て、領地が3倍増となり仕える人が不足しており、皆忠興に仕える。

出会いの時、雷に打たれたようにこわばった忠興は、まもなく幾知を側室とする。

二人の間に、1615年、4男、立孝(1615-1645)が誕生する。

大坂の陣が始まっていた時だ。

 

忠隆・興秋は、秀吉に可愛がられ期待された。

それゆえ、二人はもちろん、従う家臣たちも徳川家よりは豊臣家を懐かしんだ。

その豊臣家への忠誠心を信じて、秀頼は破格の好待遇を提示し大坂城入りを何度も呼びかけた。

心動かされ大坂城入りする者も出てくる。

 

忠興は、徳川勢の一角を占め大坂の陣を果敢に戦い家康への忠誠心を見せた。

だが、多くの家臣が、反対を押し切って大坂城入りした。

ここで、大阪城に入った他の家臣に対する責任のすべてを興秋に負わせ殺す。

こうして責任を取り、細川家を守った。

 

そして、細川家中で大坂城に入り戦った者に対して、隠したり追放したと種々の対応で命を長らえさせた。優秀な家臣を失いたくなかった。

薄氷を踏む思いだったが、家臣を守り、大坂の陣を乗り切った。

 

この間、忠興の救いは幾知だった。

幾知が側にいると、本来の自分らしく強気で豊臣家打倒の戦いを進むことができた。

玉子は「家康殿べったり。言われるまま、あまりに情けない」とあざ笑い、息が詰まるほどの屈辱を感じた。

玉子とよく似た顔立ち性格の幾知は何も言わず、忠興を全幅の信頼で見つめ続けた。

幾知に支えられ、玉子の亡霊を壊したく突き進んだ大坂の陣だったが、乗り越えた。

 

幾知は、殉教者の生き様を知っており、いざとなればいつでも殉教も辞さない覚悟だった。

だが、大友家の血を受け継ぐ凉泉院と鎮乗は、清田家の存続を第一に忠興に従った。  

忠興が、棄教を命じると、一族皆、棄教していく。

凉泉院と鎮乗、嫡男、清田石見乗と弟達も棄教。

 

幾知が側室となったために、清田家は注目され厚遇されていく。

その恩に応えて、大坂の陣で、清田鎮乗・乗栄親子一族は、抜群の働きをし、幾知の実家として認められ、3000石重臣となる。

幾知は、そんな親兄弟を頼もしく見ていたが、忠興を全幅の尊敬で見上げても、ひれ伏すことはなかった。

棄教はしても、信仰心は失わない。それは信念のようなものだった。

 

忠興は、幾知のその覚悟を胸ときめかせ見ていた。

玉子と重なる瞳は、何も言わなくても、忠興の覚悟を問うている。

負けられないと奮い立ち、戦い、豊臣恩顧の大名の烙印を拭い去った。

こうして、細川家を盤石にしていく。

 

このような時に、生まれた立孝だった。

忠興には、興秋の生まれ変わりとも思え、愛しくてならない。

玉子との三人の子忠隆・興秋・忠利から「母を死に追いやったのは父だ」と冷たい目で睨まれ続けて15年が経っていた。

今また、興秋を殺し、忠隆の怒りが増している。

忠利も、兄、興秋を出家させ、事態を収拾させたいと考えていた。

秀忠の娘婿として、実績を重ね、将軍家の信頼を得ているはずだ。

殺すことはなかったと、許せない。

 

だが、忠興は、興秋を許すことができなかった。

自己保身と言われようが、細川家の繁栄のためには避けては通れない。

幾知の研ぎ澄まされた目を見て、覚悟を問われていると、決意できた。

興秋は、可愛そうだが、やむを得ないと確信した。

忠興はそういう性格だ。正しいことをしたと胸張った。

 

忠興は、優秀な幾知を側室としたことに、反対があるはずがないと考えていた。

ところが、家中は、忠興が幾知を側室としたことに猛反対だった。

清田家は、キリシタンの家系であり、たとえ棄教しても幕府の疑いの目が晴れることはないと言い続けた。

やむなく、家中の意を受け入れて、立孝を愛宕山福寿院に出家させる。

災いの種を遠くに置くことで、時期を待つ。

 

忠興は、幾知を信頼し愛し、1617年、五男、興(おき)孝(たか)(1617-1679)の誕生と続く。

家中が認める子ではなかったが、人質を求められていた時だったため、忠興の子として、1619年、幕府への人質となるべく江戸に行く。

 

ここで、筆頭家老、松井氏らが、小山(このうえ)リンを側室に推す。

忠利を藩主とし、細川家を盤石とするために、忠興には、幕府も認める出身の側室が必要だと考えたのだ。

小山(このうえ)リンは、丹波上林荘(京都府綾部市)に勢力を持った豪族、丹波上林氏に生まれた。丹波を支配した波多野氏に従い、波多野氏が滅亡すると、光秀の配下となる。 

茶の湯に惹かれていた宗家、上林氏は、宇治(京都府宇治市)に移り、宇治茶の生産に没頭していく。茶道にふさわしい宇治茶の生産を軌道に乗せる。

 

秀吉の天下になると、茶頭取として取り立てられる。

茶頭取としての権威で、この地で勢力を持ち、宇治茶の生産の主力となる。

家康の天下となると、秀吉以上に宇治茶を好み、主力生産者、上林氏の生産技術を褒め、宇治郷の代官・茶頭取とする。

更に権威を上げ、領地を広げ、茶業は盛んになり続いた。

上林氏と家康は、茶道を通じて親しかったのだ。

 

丹波上林氏一族には、光秀滅亡後、丹後に移り、細川家に仕える一族がいた。

上林宗家は、忠興とも親交がある利休など一流の茶人との交友を深めた。

そこで、細川家家臣となった上林氏(井沢氏)は、文人としても重用された。

 

松井(まつい)興(おき)長(なが)は、細川家筆頭家老でありながら、秀吉・家康から安堵された直轄地を山城国(京都府南部)宇治近くに持っていた。

そのため、上林氏との縁は深い。

忠興が小倉に移り落ち着くと、松井(まつい)興(おき)長(なが)の推挙で、上林氏(井沢氏)は、茶の湯指南となり、茶道に造詣の深い忠興に引き立てられる。

 

こうした縁が結びつき、家康に縁があり浄土宗を信仰し茶道に通じた上林氏(井沢氏)小山(このうえ)リンが、松井(まつい)氏らから推され、忠興に仕える。

千代姫を迎え、国元でも家康への忠誠心を見せる女人が必要と考えたのだ。

忠興も家康が不信感を持つことは避けたい。

小山(このうえ)リンは、か細いながらも凛とした芯があり、忠興お気に入りの側室となる。

深い教養に裏打ちされた茶人であり、忠興は、茶会を開くのが楽しみになる。

 

キリスト教信仰をまったくは捨て去ることはできない幾知とは違い、家康も認める側室であり、心安い。

茶の湯を通じて忠興の愛妾となり、小倉城から中津城に伴ったが、身体は丈夫ではなかった。

1623年、子は生まれないまま、小山(このうえ)リンが亡くなる。

 

ここで、家康に敬意を表したかのように、浄土宗菩提寺を建立し、法名から西光寺を寺号とした。

小上リンの弟、乗誉良運上人が、1619年、ささやかに庵を作っていたのを小上リンの菩提寺とし、拡張整備したのだ。住職は、乗誉良運上人。

忠興が小上リンを愛したのは、弟、乗誉良運上人とともに、キリシタンに理解があったからだ。密かに信仰していていたときもあったほどだ。

それ故、キリシタンの長女、長姫の位牌を守るように乗誉良運上人に頼んだ。

茶道に造詣が深いことと、新しい文化に興味を持つこととは共通するところがあり、茶人にキリシタンもしくは理解者が多かった。

 

家康の取次で長姫が救われたこともあり、長姫は浄土宗を信仰しているとしたが、長姫は、キリシタンとして生涯を閉じた。

後に、忠興は、八代城に移る。

城下に西光寺も移し、忠興の祈祷所とした。

この時、小倉・中津では建立しなかった長姫の菩提寺を、西光寺の東に建立した。寺号を、安昌院とし、篤く弔った。

住職は、西光寺と同じ、乗誉良運上人だ。

 

 

玉子亡き後、30歳を過ぎ、子を生む時を終えた藤の方の代わりとして、松井氏や米田氏、忠興妹、伊也らが推したのが、才の方。

もちろん、藤の方も推した。

才の方は、細川家家臣、真下元家の娘、真下元重の姉になる。

才の方と真下元重の2人を育てたのが、米田氏・伊也だ。

 

米田氏は、室町将軍、義輝の側近だった。

義輝が殺され、生き残った米田(こめだ)求(もと)政(まさ)(1526-1590)は、「義昭を将軍にするように」との義輝の遺命を実現させる為に奔走する。

まず、いつ殺されるかもしれない幽閉中の義昭の救出を急ぐ。

そこで、決死の覚悟で敵中に入り、変装して義昭を救出した。

義昭支援者からは「英雄だ」と称賛される大手柄だった。

そんな米田(こめだ)求(もと)政(まさ)だったが、義昭が将軍になると、意見が違うようになり、離れる。

その後、藤孝に従う。

藤孝は篤く迎え、家老として遇した。

 

光秀が丹後攻め総大将となり、藤孝に丹後守護、一色氏を従わせるよう命じた。

だが、藤孝はかっての同僚、一色氏との戦いに気乗りしない。

そのため士気が上がらず、勝利できず、かえって窮地に追い込まれた。

光秀の援軍が到着し、ようやく窮地を脱し、勝利する事ができたほどだ。

 

信長は、光秀では早期の完全勝利は難しいと判断し一色氏との和議を成立させるよう命じる。

ここで、光秀は、藤孝を和議の責任者とし、藤孝が取次役としたのが米田(こめだ)求(もと)政(まさ)。

求(もと)政(まさ)は、誠意を持って取次ぎ一色(いっしき)義(よし)定(さだ)と藤孝の娘伊也(1568-1651)との結婚を条件に、丹後国を細川家と一色家で分け合う和議を、信長の了解のもと、結んだ。

 

求(もと)政(まさ)の交渉術は素晴らしく、藤孝の最も信頼できる武将となり筆頭家老となる。

 

そして本能寺の変が起きる。

光秀は、細川家と一色家は配下であり、味方だと信じていた。

だが、一色家は光秀に従うが、細川家は裏切った。

光秀が殺されると、藤孝はすぐに一色(いっしき)義(よし)定(さだ)を謀殺した。

続いて、一色家居城、弓(ゆみ)木城(のきじょう)(京都府与謝野町岩滝)を奪おうと包囲した。

城を預かる一色家一門である家老、真下元家に引き渡すよう迫った。

だが、真下元家は、引き渡しを拒否し戦った。

 

この時一番活躍したのが、和平交渉の細川家責任者、米田(こめだ)求(もと)政(まさ)だった。

和平交渉以来、一色(いっしき)義(よし)定(さだ)に信頼され、城中を訪れるようになり、知っていたからだ。

しかも、和平交渉の一色氏側責任者が、真下元家だった。

以来、真下元家と親しい関係を築いている。

 

真下氏は、大和国真下を発祥の地とする国人で、招かれ、一色氏家老となった。

米田(こめだ)求(もと)政(まさ)が真下元家に戦いを挑むのは、旧知でありつらかった。

だが、忠興から厳しく早く平定せよと命じられ、突撃する。

迎え討つ真下元家は、負けを悟っており潔かった。

最期と覚悟を決めており、米田(こめだ)求(もと)政(まさ)に妻や弟、2人の子、真下元重・才の方を託し、自害した。

 

才の方は生まれたばかりだった。

米田(こめだ)求(もと)政(まさ)は、約束を守り、2人を大切に育てる。

細川家に戻った一色(いっしき)義(よし)定(さだ)の妻、伊也も庇護者となり、見守った。

こうして、真下元家の弟は、松井氏に仕え、元重は、忠興に仕える。

 

米田家は、1591年求政が亡くなり、嫡男、是政(1558-1600)が引き継いだ。

是政は、関ヶ原の戦いで見事に討ち死にした。

その功に応え、忠興は、米田氏を二番家老とした。

筆頭家老は松井氏。

是政の嫡男、是(あき)季(すえ)が引き継いだ。

 

才の方は、成長し、家中で際立つ美貌と才知を持つ。

忠興の姉、伊也のお気に入りとなる。

伊也は、玉子が亡くなり周辺が寂しくなった忠興を和ませたいと、1582年生まれの才の方を忠興に仕えようと考える。米田氏・松井氏らも積極的に推した。

忠興も納得し側室とする。

才の方は、子が生まれなかったが、藤の方と共に、小倉城の奥を守る。

 

是(あき)季(すえ)は玉子の希望で次男、興(おき)秋(あき)の近習となった。

興(おき)秋(あき)は、忠興と対立し大坂の陣で豊臣方に付く。

是(あき)季(すえ)も従い大坂城入りし、共に果敢に戦った。

大坂城は落城し豊臣家は滅びた。

興(おき)秋(あき)主従は逃げ延びたが、忠興は興(おき)秋(あき)に自害するよう命じ、是季には死を許さず、西教寺(滋賀県大津市坂本)で謹慎させた。

 

才の方が、米田(こめだ)是(あき)季(すえ)の命を守りたく、また細川家への復帰のために、忠興に嘆願した結果でもある。

忠興は、おとなしかった才の方が強く主張する姿に心動かされた。

個性的な強い美女が好きで、才の方に物足りなさを感じていたのだ。

米田氏への責任に燃える才の方の思いを受け入れ、米田(こめだ)是(あき)季(すえ)を庇う。

ここで、才の方の意思の強さに打たれ魅せられ、熱い一時が生まれた。

才の方は、1617年、35歳で忠興六男、松井寄之(1617-1666)を生む。

忠興には、子は充分おり生まれた子を細川家で育てる気はなかった。

生まれてまもなく、嫡男の生まれなかった古保姫と松井(まつい)興(おき)長(なが)の養子とし、引き渡す。

そして、才の方と母の実家当主、長岡(沼田)延元の結婚を決める。

 

才の方を幸せにはできず、申し訳なく思い、延元との結婚で落ち着いた暮らしを実現させようとしたのだ。

才の方は、1624年、延元が亡くなるまで、愛のある結婚生活を送る。

以後500石を得て、悠々自適に、松井家・米田家・真下家との親交を深め亡くなる。

 

大坂の陣の後始末を幕府が終え、千代姫が江戸詰めとなり、小倉藩は安泰だと確信すると1623年、是(あき)季(すえ)を再び召し抱え、才の方の思いを叶えた。

その後、是(あき)季(すえ)は、大坂城修築・島原の乱で大活躍し、米田家を万全とした。

 

また、長岡(沼田)家は、嫡男、延之が5000石で引き継ぎ、延之が得ていた1000石は、松井一門、松井二平次や平野九郎太郎に分け与えられた。

この配分は、敗者に光を与えたい才の方の踏ん張りだった。

平野氏は、相模の雄、北条家一門であり、武勇に優れた家系だった。

大阪の陣で豊臣家に与し戦ったために、蟄居していたが、忠利の代に召し出され、細川家に仕えた。

加増分を加え、1000石重臣、国家老となり、藩政に重きをなす。

 

こうして忠興は、才の方の行く末を見守り、小山(このうえ)リンを見送り、責任を果たした。

残り少ない命思う存分に生きると、1630年、堂々と、立孝を還俗させ呼び戻した。67歳になり、立孝と会いたくてたまらなくなったのだ。

連絡は取り合っており、立孝も父のもとに戻りたがっていた。

ようやく、幾知と共に暮らすことができた。

以後、立孝を側から離さず溺愛し、持っているものすべてを教えていく。

 

忠興69歳、1632年、終の棲家とした隠居城、八代城に入る。

忠利と話し合い、隠居領9万2000石とする。

忠興3万7千石、立孝3万石、興孝2万5千石を合わせたのが忠興の総領地であり、隠居料となる。

 

忠利は、すでに46歳。

忠利にすべてを委ねることを望まれていると、わかっていた。

本来ならば、藤孝のように京での隠居ぐらしをすべきなのだ。

だが、藤孝を超える文人としての才はなく、玉子の子たち3人から嫌われており、忠隆の居る京に居場所はない。

忠利に嫌われていることはよくわかっていたが、頭を下げれば、存在を脅かされる。

 

そこで、最後の仕事として八代城で目を光らせることにした。

江戸で人質として暮らす興孝に、藤孝が継いだ長岡(細川)刑部家(和泉上守護家)を2万5千石で引き継がせる。

残り全て6万7千石を、忠興の後継として立孝に相続させ、熊本藩から独立した藩とすることに命を掛ける。

 

八代城本丸に立孝を置き、自身は北の丸を隠居所とし住む。

忠利が何を思おうとも、立孝を八代藩主として遇した。

そして忠興の持てるものすべてを立孝に引き継がせ、立孝を忠利も認めざるを得ない後継とするため、共に在城するときは熱心に教えた。

忠興を父として尊敬の眼差しで見つめる立孝と過ごす時間は、楽しくてならない。

幾知と立孝とともにいる時が一番心休まる。

 

家中の反対があっても伴侶とし暮らす幾知。その守役用人が、加来兵右衛門。

賀来荘 (大分市)を領し、大友氏に仕え、母、凉泉院の願いで幾知に付けられた。忠興は、細川家家臣とする。

幾知は、幼い時からずっと側にいた兵右衛門を、父親のように慕った。

兵右衛門亡き後、嫡男、佐左衛門が引き継ぎ仕える。

 

幾知が40歳を過ぎるころ、兵右衛門の娘、いせ(立法院)を召し抱える。

忠興は70歳を過ぎても元気で、自分に代わり、忠興に仕えさせようと決めたのだ。

 藤の方も小ややも小山リンも才の方もいなくなった。

忠興に仕えるのは幾知一人。

女人としての役割を果たすには、歳を重ねすぎたと、いせ(立法院)を推した。

いせは、若く美しく、抜群の才女だった。

忠興は、いせを気に入り側室とする。

 

一方、忠利は、怒っていた。

忠利の藩政に事細かく指図し、玉子を忘れ去ったかのように幾知を愛し立孝に自分の持てるものすべてを引き継がせようとする父、忠興を許せない。

庶子であり一門として家老並みの扱いをすべきだと、話すが忠興は納得しない。

 

忠興は、気がついたときには腹心がいなかった。

この現実を、空恐ろしく思う。

短気で冷徹で激情型の忠興は、家中に煙たがられ、皆、一歩引いていた。

いまや、家臣団は皆、忠利に仕えていた。

 

忠興には、幾知と立孝・興孝しかいなかった。

立孝は、溺愛されるべき資質を持っており、母の素性も恥ずべきところはなく、忠興後継にふさわしかった。立孝も自信を持っていた。

 そこで、忠興は、万姫のまたいとこ(夫、烏丸光賢の父、烏丸光広のいとこの子) 五条為適の娘、鶴姫との結婚を決め1635年、結婚。

藩主の弟であり、庶子であると、分別をわきまえ、縁戚になる、文人の家系として名高い公家の娘との結婚を決めたのだ。

 

考えに考えた結婚だったが、鶴姫と立孝との仲は、睦まじくなかった。

鶴姫との間に子は生まれなかったが、結婚以前から仕えた慈広院布施野氏との間に、1637年、細川行孝(1637-1690)が生まれた。

他に斎藤氏も仕え、亀松や大炊御門経光に嫁ぐ娘が生まれるが、男子で成長したのは、行孝だけで、嫡男となる。

 

加来氏一族、父と兄3人と一族皆、忠興・立孝・興孝に仕えていたが、いせの方が忠興に愛され側室になると、忠興の筆頭家老的地位となる。

それだけでなく、忠興・幾知の全幅の信頼を得て、家族同様の付き合いとなる。

そんな時、いせの方の兄、加来三七が亡くなり、幼い娘、お三の方が残された。

ここで、忠興は、子のいない、いせの方に養母となり、育てるように命じる。

忠興より200石を得て、いせの方がお三の方の養母となり育てる。

 

立孝の子、行孝の筆頭乳母も、いせの方だった。

いせの方は、行孝とお三の方を引き合わせ幼馴染となった。

成長すると二人は愛し合うようになる。

忠興は、お三の方をとても気に入っていた。

そこで、忠興の養女とし、行孝に嫁がせると決める。

 

忠興が細川家の子と認めたのは、

玉子との間に生まれた忠隆(内膳家)・興秋・忠利・長姫・多羅姫。

子ややとの間に生まれた万姫(烏丸光賢室)。

幾知との間に生まれた立孝(宇土藩細川家)・興孝(刑部家)だ。

松井家に預けたのは、

藤の方との子、古保姫(松井興長室)。

才の方との子、松井寄之(古保姫の養子)。

二人は、細川家一門ではあるが、筆頭家老、松井家を受け継ぐように育てられた。

 

1641年4月忠利。

1645年7月立孝。

1646年1月忠興が亡くなる。

忠興は亡くなる前、

1、お三の方に忠興の遺品すべてを残すこと。

2、行孝と結婚の時、化粧料は500石とすること。

3、行孝(1637-1690)を7万石藩主として独立させること。

4、興孝に2万5千石を与え、支藩とすること。を遺言とした。

今まで何度も言っていたことだ。

後継、光尚は、1と2を了解したが、行孝には熊本藩支藩、宇土藩3万石を与えただけだ。

行孝は、独立化を果たせず、悔し涙を流したが、宗家の後継ぎになれる第二の地位を確保し、後に本家を継ぐ。

興孝は、2万5千石を取り上げられ、一門、刑部家1万石を興し、続く。

江戸暮らしが長く、贅沢で浪費家の興孝にとって腹立たしい沙汰だった。

 

 細川立孝・忠興亡き後、幾知は興孝と共に住み、いせの方は行(ゆき)孝(たか)と共に住む。

いせの方の実家は、500石の細川宗家重臣となり、兄弟も家臣として別家を興し召し抱えられる。

 

忠興が愛した女人は、玉子から遣わされたかのような女人ばかりだ。

 藤の方(1569-1629)は、姉、倫子に仕えた。

小ややは、玉子の姉と明智光忠の間に生まれた娘。      

幾知は、大友一族、清田鎮乗の娘であり、一家は皆キリシタンだった。    

才の方は、真下元家の娘。キリシタンを理解し興(おき)秋(あき)に近い人脈の中にいた。

小山リンは、キリシタンの理解者であり、弟は長姫の菩提寺の住職。

いせの方は、キリシタン大名、大友氏の重臣、加来氏の出身。

 

玉子の子、忠隆・興秋・忠利は、玉子を母として尊敬し愛したが、忠興を玉子を殺した人だと断じ好きではなかった。

忠興の生き方・性格は、子たちから嫌われ憎まれたのだ。

忠利・多羅姫は、関ケ原の戦い後の細川家が飛躍した時に大人になっており、徳川幕府しか知らないため対立は表面化しなかったが、忠隆(内膳家)・興秋・長姫とは、亡くなるまで、対立したままだった。

玉子が、忠興に課した重荷を背負って、忠興は生きざるを得なかった。

 

 炎の人として生きた玉子の炎は、受け継がれ、灯火(ともしび)として続く。

父子のいさかいは続くが、細川家を揺るがす内紛とまではならないうちに、収まる。

玉子が愛した細川家を守るため、皆それなりの分別で、お家存続を第一に、身を引いたからだ。

 

徳川家光の乳母、春日局は、玉子の子を愛情深く、見守り、熊本藩52万石に大幅加増の国替えになる道を作り、成功した。

玉子の幕府への貢献を高く評価し、尊敬したゆえだ。

春日局が、父、斎藤利三を想う心が突き動かしたのだ。

 

1632年、忠興は、熊本藩52万石藩主、忠利の父となる。

細川家居城を熊本城とし、入城するのは、将軍秀忠の娘(養女)婿となった忠利だ。

忠興は、隠居城を八代城(熊本県八代市)としにゅうじょうする。

直ぐに、父、藤孝の菩提寺、泰勝寺を小倉から八代に移し建立し、泰勝寺を細川家菩提寺とし、藤孝、玉子を篤く弔う。

一方、熊本城に入った忠利は、1636年、藩主として、細川家菩提寺、泰勝寺(熊本市中央区)を建立し祖父母、玉子を篤く弔う。

忠利にはかけがえのない母であり、藩主としての意地を見せ、供養する。

母に冷たく接し、見殺しにし、異母弟、立孝を溺愛する忠興に毅然と対抗したのだ。

忠興と忠利は、競うように玉子の菩提を弔ったのだ。

 

忠興と忠利は、細川家菩提寺の建立という名の下に、玉子の墓所を競ったが、藩主の力は忠興の比ではなく、忠興が亡くなると、八代、泰勝寺は廃寺になり、忠利の築いた泰勝寺に統一される。

 忠興は、玉子に救われ縛られる生涯だったが、受け入れ、大大名の道を進んだ。

玉子の暮らしを縛ったとされるが、素直に守る玉子ではなく、お互いが分別を持って立場を守りつつ生きた。

1646年1月18日、細川家にとって偉大な功績を残したのは自分だ、と自らを自画自賛する強がりを言いながら、83歳で亡くなる。

玉子の死から46年が経っていた。