幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

忠興をめぐる女人|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(13)

だぶんやぶんこ


約 7813

 忠興には玉子以外から生まれた子たちがいる。

それぞれの生母との出会いと愛のひと時があり、子が生まれた。

 

庶子となる最初の子は、1585年、生まれた古保姫。

生母は藤の方。

玉子は、幽閉され、生きる希望を失ない、息苦しくもがいていた。

そのさなかに、忠興と藤の方は愛し合い、藤の方は、身ごもった。

大坂屋敷に戻り、忠興と藤の方の逢瀬を知ると、煮えくり返る思いで、裏切りを許せず、忠興と藤の方共々憎んだ。

後に、藤の方の波乱万丈の過去を知り、責任を負い筋を通す、けなげな生き方に感動し、許し認める。

 

玉子は父の死まで、恵まれた境遇の中におり、自分中心に世の中は動くとまで思い込んでいた鼻持ちならない性格だった。

だが、藤の方は絶え間なく苦労に見舞われ、玉子の過去の生き様とは全く違った。

悲惨な状況は、明智家に繋がることが多く、明智家に関わったゆえに不幸が起きたとも言えた。恥ずかしく思い、悔いた。

 

藤の方は、郡宗(こおりむね)保(やす)(1546-1615)の娘。

郡宗(こおりむね)保(やす)は、摂津衆、伊丹(いたみ)親(ちか)興(おき)(親保)の子で、郡家に娘婿養子入りし家督を継いだ。

郡氏も摂津郡山城(大阪府茨木市)を築き居城とし近郷7か村を支配する有力な摂津衆だった。

摂津国高槻(大阪府高槻市)城主、和田惟(これ)政(まさ)に仕えた。

 

和田惟(これ)政(まさ)・伊丹(いたみ)親興は、義昭を救い出し、以後行動を共にし、将軍とすべく懸命に働いた摂津衆の中心だ。

義昭には藤孝や米田求政・三淵藤英らも従っていた。

皆一丸となって懸命に働き、義昭は信長に擁され将軍になった。

 

義昭は、池田勝正・和田惟(これ)政(まさ)・伊丹親興の功に報いたくて、摂津守護とするよう信長に頼む。

信長も応じ、1568年、彼らを摂津守護とした。

その前の摂津守護は、細川氏嫡流。

ところが、信長と義昭が対立していくと摂津衆も内部分裂した。

 

1571年、室町将軍、義昭対信長の戦いが始まる。

義昭派は、信長に切り崩され、取り込まれながらも、和田惟(これ)政(まさ)・伊丹親興・忠(ただ)親(ちか)(1552-1600)・郡宗(こおりむね)保(やす)・三(みつ)淵(ぶち)藤英らが、初志を貫き主戦力で戦う。

信長に取り込まれた荒木村重(池田勝正を追い出し池田家を率いる)・中川清秀(1542-1583)・高山右近・藤孝らが、信長勢の一翼を占め、白井河原(茨木市)で義昭派と激突した。

信長勢は強く、主力の和田惟(これ)政(まさ)・郡正信(宗保の養父)が討ち死にした。それぞれ後継の和田惟(これ)長(なが)・郡宗(こおりむね)保(やす)が引き継ぎ戦う。

 

和田惟(これ)長(なが)の母は、高山右近(1552-1615)の姉。

親戚が入り組んで身内同士の残酷な戦いが続く。次第に、義昭派は劣勢となるが、戦い続けた。

1574年、三(みつ)淵(ぶち)藤英・伊丹親興らは懸命に戦うも、荒木村重勢に敗北し、義昭勢の士気は落ち、戦う力をなくした。

 

義昭を支持する摂津衆は、荒木村重に従い、信長に仕える道を選ぶしかない。

郡宗(こおりむね)保(やす)も荒木村重に仕える。

ここで、信長は、光秀の長女、倫子と村重嫡男、村次を結婚させ、光秀に村重と協力し摂津を治めるよう命じた。

村重は、信長重臣、光秀の娘、倫子を村次の妻に迎え、信長の期待の大きさを知る。嬉しくて張り切って光秀と共に、摂津衆を将軍から離し信長配下に変えていく調略に励む。

その時、倫子付け家老として郡宗(こおりむね)保(やす)を付けた。

 

だが、1578年、摂津を任された荒木村重・村次は、信長の高圧的な支配に納得できなくなった。信長に信頼されているのかどうか、疑いが増すばかりだ。

疑心暗鬼に陥り、毛利家や本願寺からの誘いに乗ってしまう。

ここから、信長への謀反の戦いを起こすが、敗北し、逃亡する。

その前、村重・村次は、信長に許しを乞うように説得に来た光秀に、決別を告げた。

 

そして、光秀に類が及ばないよう、倫子を離縁し明智家に戻す。

その時、倫子は、勝ち目のないことを悟った郡宗(こおりむね)保(やす)から娘、藤の方(1569-1629)を預けられる。

郡宗(こおりむね)保(やす)は、父の死・養父の死を見ており、村重と共に死ぬ覚悟だ。そこで、倫子に仕え始めたばかりの幼い藤の方を預けた。

ところが、郡宗(こおりむね)保(やす)は、生き残り、村重逃亡後、乞われて秀吉に仕える。

 

実家、明智家に戻り、謹慎する倫子には、託された藤の方を召し抱える力はなく、妹、織田信澄の妻に預けた。

信澄は、信長から側近として重用されている有望株であり、妹なら藤の方に良い婿を見つけ幸せにできるはずだった。

 

その後、倫子は明智一門、秀満と再婚し過去と決別し新しい人生を踏み出した。

そして、重利が生まれる。

倫子は、重利の子守役に適任なのが、結婚が決まっていない藤の方だと、会いたくて呼び戻す。

藤の方も、この日を待っており、喜んで倫子・重利に仕える。

 

だが、1年も経たないうちに、本能寺の変が起きた。

光秀が山崎の戦いで負けたと知ると、倫子は死を決意し、藤の方に父、郡宗(こおりむね)保(やす)を頼り逃げるよう言い渡す。

藤の方は、倫子とともに有りたいと願うが、泣く泣く去るしかなかった。

 

郡宗(こおりむね)保(やす)は、秀吉側近となっていた。

藤の方を喜んで迎え入れたが、秀吉が不信感を持つかもしれないと手元に置けず、預け先を探す。

そこで、旧知であり玉子の義父でもある忠興の父、藤孝が信頼できると頼む。

藤孝は、すぐに事情を呑み込み、隠居となった身であり気にすることはないと、引き受ける。

 

この時、藤の方は13歳。

荒木村重居城、有岡城の戦い、倫子の2度の悲痛な表情、坂本城での悲壮な戦いぶり、すべてを涙と共に記憶の中に刻み込む。

何事にも動じない肝の座った女人へと成長していく。

迎え入れた藤孝の妻、沼田麝香(じゃこう)は、一人耐える藤の方が愛しくてならない。

同じような経験をした過去があり、藤の方の思いが手に取るようにわかり、自身と重ね合わせ抱きしめた。

 

こうして藤孝・麝香(じゃこう)の元で、教養を磨く藤の方は、見違えるように美しく知性に溢れた女人となる。

その姿が、玉子と離ればなれで暮らす忠興の目に留まり、忠興と結ばれ、1585年、古保姫が生まれる。

玉子の幽閉中の出会いであり、忠興のもとに戻った玉子が忠興に不誠実をなじり怒ったことを知り、藤の方は、申し訳なく、忠興の前から去ると思い定めた。

忠興から子を生むように言われ、出産後、身を引くと決めた。

そんな時、玉子から側室として認められ、国元、宮津城の奥を守ることになる。

 

1593年、成長した三宅重利が細川家にやってきた。

藤の方は、三宅重利に再会することが出来、感無量だった。

生まれてまもなくから世話したが、わずか1年で離れ離れになってしまった。

その後、三宅重利は、逃げ、光秀が懇意にした商人の家で裕福に育った。

それでも、父や光秀のような武将になる夢を捨てることはできず、その時を待った。

鞍馬寺に入り僧となることが決まっており、その時が来た。

ここで、ガラシャ玉子を頼る。

三宅六郎太夫や乳母ら近習は、細川家に仕えることをずっと願っていたが、ようやく玉子のもとに行くことができた。

 

忠興は慎重で、三宅重利主従を国元に迎えた。

そこで、藤の方は、成長した三宅重利に会えたのだ。

成長した姿に満足し、再び、細川家で共に生きることができる幸せを、倫子に報告、「守っていて下さったのですね」と感謝する。

玉子の意思で実現したのであり、側室として、玉子に誠心誠意尽くすと思い定めた。

 

古保姫の成長を見守り、玉子と連絡を取りながら宮津城の奥を仕切り、時々、三宅重利に会い、充実した日々を送っていた。

その時、1598年、藤の方の妹、慶寿院(郡宗保の四女)が夫、木村吉清を亡くし頼ってくる。

藤の方は忠興に遠慮し、藤孝・麝香(じゃこう)に預かって欲しいと願い、暖かく庇護された。

 

木村吉清の父は、大和国を制した松永久秀の弟、松永長頼。

木村吉清は、三好氏重臣、内藤如安に仕え、次いで、光秀に仕え、光秀死後、秀吉に亀山城を引き渡す際の手際の良さを褒められ、仕え、5000石を得た。

以後、秀吉に気に入られ、北条征伐から奥州制圧まで数々の功を上げ、奥州仕置で、奥州(宮城県北部と岩手県南部)12郡30万石を得た。

 

だが、あまりに急激な出世で、家臣団を揃える間がなく、秀吉の要望を満たすことができず、焦った。

すると、伊達政宗が、領民の蜂起を促す陰謀を張り巡らし、騒乱状態となり治世に失敗、領地は没収、1592年、改易。

 木村吉清は、キリシタンであったことから、改易後、同じキリシタンで親しくしていた蒲生氏郷に呼ばれ、客将となり5万石を得た。

 

1595年、陸奥国会津92万石を治めた氏郷が亡くなり、嫡男、秀行が後継になる。だが、1598年、秀行には会津藩を治められないと、宇都宮18万石に国替えとする。

その時、秀吉は、木村吉清を呼び直臣とした。

そして、妻を亡くした木村吉清と慶寿院との再婚を決めた。

 

郡宗(こおりむね)保(やす)は、秀吉側近として働き、蒲生家の監視の役目も担っていた。

会津に屋敷を持ち、一家で移っていた。

娘、慶寿院(1580-1629)は、姉、藤の方とは違い幼く、ずっと父、郡宗(こおりむね)保(やす)のもとで、育ち、木村吉清との出会いもあり縁もあった。

そこで、慶寿院と結婚を決めたのだ。

 

秀吉直臣となった木村吉清は、豊後国に1万5千石を得る。

慶寿院は、木村吉清とともに伏見城に戻り、それから、国元に行く。

ところが、その途中、木村吉清は、亡くなった。

 

慶寿院の結婚生活は、短かく、あまりにも激しく移り変わった。

何を信じるべきかわからないまま、独り身になった。

子はなく、先妻の子、清久を後継にする許しを秀吉から得ると、木村家を離れる。

新しい暮らしを初めたいと、実家には戻らず、姉、藤の方のもとに行った。

 光秀の旧臣でもあり、玉子も迎え入れたことを喜んだ。

 

藤孝(幽斎)の父は足利一門、三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)(1500-1570)だ。

三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)は、細川家から三(みつ)淵(ぶち)家の娘婿養子に入り家督を継いだ。

生まれた子は多い。

そこで、嫡男、藤英が三(みつ)淵(ぶち)家を継ぎ、次男、藤孝(幽斎)が父の実家、和泉守護細川家の家督を継ぐ。

 三(みつ)淵(ぶち)藤英(細川藤孝の実の兄)と嫡男、三淵秋(あき)豪(ひで)(-1574)は、将軍、義昭に最後まで忠誠を尽くし力尽きて1574年、信長に降伏した。

だが、許されず藤英と嫡男、秋(あき)豪(ひで)共に殺された。

 

三(みつ)淵(ぶち)藤英と異母弟、細川藤孝(幽斎)は打ち解けることのない兄弟だった。

三渕藤英は「長年の恩を忘れ信長に寝返った」と藤孝を糾弾しながら、義昭に従い戦い続けて死ぬことになった。

藤孝は、兄の思いがよくわかり、幼い甥(藤英の次男)光行(1571-1623)を匿い預かり育てた。

 

時が過ぎ、藤孝邸で慶寿院は、三(みつ)淵(ぶち)光行と出会い、惹かれ合う。

光行は、政争の中で翻弄された傷心の慶寿院を、受け入れ、愛した。

細川家や摂津衆は、将軍、義昭の元に結集した旧知の間柄であり、結婚も自然の流れだった。

兄、三(みつ)淵(ぶち)藤英を守ろうとして散った伊丹親興の恩に報いたいと、親興の孫娘、慶寿院と甥、光行の結婚となる。藤孝も賛成だ。

 

 後に、三淵家は、藤英・藤孝の弟、長岡義重が継ぎ細川家重臣となり続く。

三(みつ)淵(ぶち)光行は旗本家となり独立する。慶寿院の子、嫡男、藤利(1603-1657)が後継となり続く。

 

兄、三(みつ)淵(ぶち)藤英が藤孝に複雑な思いを持つのは、藤孝には、皆にうらやましがられる出生の秘密があったからだ。

藤孝の母は、三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)の後妻、智慶院。

公家、清原宣(きよはらのぶ)賢(たか)(1475-1550)の娘だ。

清原宣(きよはらのぶ)賢(たか)は、神道家、吉田家から養子入りして清原家の家督を継いでいる。

屈指の国学者として名が知られ、宮中で講義を行い、将軍、足利義晴(1511-1550)の師だった。

 

そこで、娘、智慶院が望まれて将軍、足利義晴に仕え、愛妾となった。

だが、義晴は将軍とはいえ、都落ちもたびたびで権力はとても不安定であり、権威を高めるため近衛家の姫と結婚すると決める。

その時、身辺をきれいにする必要があり、智慶院を側近、三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)に下げ渡した。

まもなく、父が定かではないまま、藤孝(幽斎)が生まれた。

智慶院は何も言わないが、将軍の子だと皆が思った。

 

忠興の祖母、智慶院の甥(兄の子)の娘が、清原マリア。

藤孝により麝香に付けられ老女となり、麝香の側に付き従った。

玉子が、味土野に来て欲しいと願い、以後、玉子付きとなる。

玉子とキリスト教を結びつけた、玉子の側近だ。

智慶院の孫が三淵光行。

 

藤の方は、玉子が妹、慶寿院と三淵光行を結びつけたと、心から感謝した。

それから目まぐるしく世は移り変わる。

秀吉の死、関ケ原の戦いと続き、玉子の死と向き合うことになった。

玉子への忠誠心が、理解されていたかどうかわからず、本当に玉子が許していてくれたかどうか不安のまま玉子は旅立ってしまった。

キリシタンとしての玉子を尊敬し、キリスト教への理解を深めるべく励むことで、

きっと許してくれると思う。

 玉子を受け継ぎ、忠興・細川家に仕えると、霊前に誓う。

 

玉子の死の衝撃は大きかったが、実家も悲惨だった。

藤の方の父、郡宗保は、関ヶ原の戦いで、西軍となり改易。

その後秀頼の側で仕え、大阪の陣で敗れ亡くなる。

2度の敗北で、家中はバラバラとなり、子孫は同郷の摂津衆、黒田家に仕えた者が多いが、忠興も藤の方に願われ、縁者を召抱えた。

 

藤の方は、玉子を尊重しつつ、妹、慶寿院を見守り、実家の一族家臣を守った。

古保姫は、成長し、細川家筆頭家老、松井興長に嫁ぐ。

安定した暮らしで縁者も細川家に招くことができ、忠興に仕えた幸せを噛みしめる。

 

慶寿院の次男は、郡藤正と名乗り、忠興に仕え、重臣として続く。

禄高は3000石までになり、家老として重きをなす。

藤の方の功に報いた、藤の方の後継でもある。

 

藤の方は、小倉に従い、小倉城の奥を守り続け、千代姫・忠利に仕え、娘や婿、松井興長に看取られ、1629年亡くなる。

 

玉子が、娘同様に可愛がり自ら忠興の側室としたのが姪、小やや。

玉子の後継でもある。

 母は、玉子の姉。

 父は、玉子の叔父、光忠。

共に光秀に殉じた。

坂本城から、逃げ、しばらく叔母の家で潜んだ後、玉子を頼った。

 

玉子は、暖かく迎え、庇護し、我が子と同じように学ばせた。

美しく賢く成長していく姿を見て、忠興に仕えさせたいと考えるようになる。

玉子に代わりうるように、忠興の趣味・性格・好みなどなど教えた。

そして、細川家伏見屋敷ができると、忠興の世話をするように送る。

 

忠興に愛されるよう祈った。

思いが実り、1598年、4女、万姫(1598-1665)・四男、千丸(1598-?)の双子を生む。千丸はまもなく亡くなるが、忠興との愛を確認し、胸をなでおろす。

 

そして、玉子の死。

小ややは、伏見屋敷におり、玉子の死を後で知る。

この日のために、忠興に仕えるよう命じられたのだとすぐに理解した。

洞察力に優れ、思い通りに忠興と結びつけた、玉子の偉大さを改めて感じる。

以後、玉子の身代わりだと、堂々と、忠興に仕え、折りに触れ、玉子の墓前に参り、細々としたことを知らせ、冥福を祈る。

 

万姫は、成長し、細川家の姫として公家、烏(からす)丸(まる)光(みつ)賢(かた)(1600-1638)に嫁ぐ。

烏丸家は、歌道を世襲する藤原北家日野家の分家になる。

また、光賢の父、光弘(1579-1638)は、天皇に厚く信任され、徳川家との取次ぎの役目を担った。

清原宣賢に儒学を学んでおり、藤孝から古今伝授を受け、歌道の復興にも力を尽くし多才な人として知られる。

 

藤孝と光弘がとても親しかったゆえに麝香が取り次ぎ、結ばれた。

忠興にとっても、朝廷につながる益のある結婚だった。

 

小ややは、玉子の後継とみなされ、万姫は細川家の姫として大切に育てられた。

関ケ原の戦い後は、細川家京屋敷で玉子の教えを守り、万姫を育て、烏(からす)丸(まる)家に嫁がせた。その後、小倉城の忠興の元に行く。

生涯、万姫の母として生き、万姫が夫婦仲睦まじく次々子が生まれるのを我がことのように喜んだ。

 

万姫からの便りを読む小ややに、稲妻が走った。

玉子の魂に突き動かされるように忠興・忠利に、万姫の子、やや姫(1619-1636)と忠利嫡男、次期2代藩主、光尚(1619-1650)との結婚を願い出る。

「玉子様の声を聞いたのです。ぜひ、取り次がせてください」と。

 

忠利は心動いた。

光尚は、玉子の孫。

やや姫は、玉子の姪、小ややの娘、万姫の子だ。

どちらも、忠興の孫になる。

 

忠利は、外様藩、熊本藩54万石という大藩を得て守るために、幕府に対して、慎重に控えめであるべきと考えていた。

光尚と徳川家に縁ある姫との結婚が、一番、熊本藩に優位に働くはずだと思う。

だが、あまりに幕府にすり寄ると細川家の負担が大きすぎる。

 

幕府の覚えも良く、文化人として知られる烏丸家との縁組は、幕府が好ましく思うはずだ。

藤孝との縁も深い烏丸家であり、万姫との仲も睦まじい光賢の娘であり、似合いの結婚だと賛成した。

細川家に負担が少なく、京大坂の情勢を知るには適任の烏丸家だった。

 

幕府の了解を得て、小ややは、ようやく、役目を果たしましたと、玉子の墓前に報告できた。

明智家の血筋で細川家が続くと思うと感慨深い。

細川家江戸屋敷での結婚となり、小ややの出番はないが、やや姫のために、国元の奥を守る祖母として、心を込めた品々を江戸に送る。

玉子の生きざま想いを伝え、心に留めてほしいと願う。

 

こうして大役を果たし小ややは、中津城・小倉城と忠興に仕え1635年亡くなる。

続く1636年、やや姫は、嫡男を生みながら、産後が悪く亡くなる。

期待の嫡男も、やや姫を追うように亡くなってしまう。

小ややの思いは実現しなかった。

 

我が物顔に我道を歩く忠興に見えた。

だが、玉子の敷いた道の上を歩いた。

忠興が思う以上に、もっと深く、玉子と細川家は深く結びついていた。

明智家の血筋をつなぎ、細川家への影響力を及ぼす玉子は、死後も燦々と輝いた。