幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

千代姫の活躍|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(12)

だぶんやぶんこ


約 7656

秀忠が千代姫に与えた化粧料は豊後玖珠郡小田村千石。

千代姫の姉、万姫は化粧料3千石を与えられており比べれば少ない。

千代姫は、「妹だから」と考え、疑問に思わなかった。

山深い信濃にある要害堅固な飯田城での暮らしは質素だった。

子だくさんの信濃飯田藩5万石藩主の姫であり、贅沢はできない。

たくましく元気に育っただけだが、楽しい暮らしで満足していた。

 

経済の仕組み・化粧料の意味は学んでおり「将軍の姫は多くのお金をもらうのだ」とびっくりしたほどだ。

千代姫には有り余るほどの小遣い、化粧料だった。

ところが、忠興は徳島藩に嫁いだ万姫より少ない化粧領では細川家の名に恥じると、徳川家への意地を見せ破格の5千石の化粧料を千代姫に用意した。

飯田藩では、筆頭家老でさえも得ることができない高禄で、千代姫は、心臓が止まるほどびっくりした。

忠興が千代姫に何を求めるのか、近習が不信感を持つほどだ。

 

大名家は得る石高から、家臣への録・幕府への手伝い普請・参勤交代の費用など莫大な出費がいる。その為、忠利でさえも、自由に使える費用はわずかだった。

京在住の前当主、藤孝は公家たちとの付き合いをこなし家臣を養い興秋・忠隆の暮らしを支え同じ6千石だ。

 

千代姫は、束縛されることのない使いきれないほどの潤沢な小遣い6千石を得た。うれしくてにこにこだ。

それでも、与えられた役目があるはずの化粧料だ。慎重に使わなければならないと、自分に問いかける。何をすればよいのか混乱するばかりだが。

家康は外様潰しの刺客と考えていることも、忠興は細川家の安泰と飛躍の切り札にすると考えていることも知っている。

まだ12歳だが、責任ある立場になったのは、悪い気分ではない。

 

中津城の千代姫の屋敷には、千代姫に仕えるべく忠興から選ばれた次女が待っていた。

彼女たちから聞いた、忠利の妻に選ばれ将軍養女となった経緯は面白い。

小笠原家の持つ歴史の深さ・長さ・繋がりに改めて感謝する。

玉子と小笠原秀清主従の強い結びつきにより実現した縁だと心が躍る。

玉子は高名な伝説の女人であり、玉子が導いた忠利との結婚を運命だと熱く受け止め、幸せを感じる。

 

 それでも、現実は、思い通りにならないことが多い。

父母の夫婦仲の良さを見て育ち、千代姫も母と同じように忠利に接すれば慈しまれると信じていた。

だが、11歳年上の忠利は余りに大人で、どのようにすれば妻として慈しまれるか分からず、父母と同じ思い描いた夫婦の暮らしにはならない。

忠利は千代姫の後ろに家康を見て、いつも冷静で、千代姫とは違う自分の世界を大切にしていた。

 

こうして、時が過ぎ、千代姫は大人になるが、子に恵まれないまま、大坂の陣が始まる。

千代姫の近習の主目的は、細川家の監視だ。

豊臣家に与する可能性の高い興秋・忠隆主従の動向を探り、家康に知らせることも重要な役目だった。

 

家康は、細川家が豊臣家に与することがあれば、改易させるつもりだ。

忠利もその動きを痛いほど分かっており、千代姫に夫婦としての絆を感じることはできず、細川家を守るため苦心惨憺だ。

忠興も興秋・忠隆主従を豊臣家から引き離そうと必死だ。

弟、興元はどうにか引き離したが、忠隆・興秋と秀頼の縁を切らすことができず、焦っていた。

藤孝の死をきっかけに、忠隆が離縁を受け入れ実行し、豊臣家との縁が切れ、大きな仕事を成し遂げた思いだった。

だが、興秋は、秀頼との縁を断つことを頑強に拒否した。

 

そして始まった大坂の陣、忠興は家康に従い出陣し、決死の覚悟で戦い、細川勢の力を見せる。

忠利も、藩内の事には関らず、秀忠勢の一翼を担い豊臣方と果敢に戦う。それしか考えなかった。

秀忠の娘婿として毅然と胸を張り、秀忠の側に付き従い、信頼を得ていくしか細川家の生き残りはないとの信念だけだった。

 

一方、千代姫の父、小笠原秀政と兄の嫡男、忠(ただ)脩(なが)は豊臣勢に突撃し壮絶な戦いの中で討ち死にし、家康が絶賛する戦いぶりをした。

秀政は、主君の娘、登久姫を得たにもかかわらず亡くしてしまい家康に申し訳なく責任を感じていた。

死して忠誠心を見せる決意だった。

細川家への刺客だけで終わる可能性もある千代姫が幸せになるためにも、小笠原家の存在を示そうとしたのだ。

 

戦功をあげなくてはならないと切羽詰まった激情にかられ突撃し戦死した父、父の側を離れず戦死した兄、忠(ただ)脩(なが)。

その様子を聞き、千代姫は絶句した。

自分の思い描いている生き方は甘いと知る。

父・兄が亡くなると家康は、兄、忠(ただ)真(ざね)を後継とした。

そして忠(ただ)真(ざね)に父・兄の功だと播磨明石藩10万石を恩賞として与えた。

松本藩8万石からの加増国替えであり徳川譜代大名として地歩を固めた。

 

忠興は、家中から興秋を始め多数の大坂城入りが出て、頭を抱える。

忠興・忠利の奮闘ぶり差配の能力を見て、幕府内に取り込むべきだと家康は「よく戦った。興秋を許してもよい」と言う。

とても信じられる言葉ではないが、家康の孫婿、忠利として認められている証だと、喜びつつ策を講じる。

そこで、豊臣家に与した家臣を追放し隠し、興秋にすべての責任をかぶせ自害させた。こうして、細川家は咎められることなく安堵され残った。

 

忠利は、忠興との意見の違いもあったが、何も言わず、将軍、秀忠にひたすら尽くした。

渾身の力を込め戦い、大坂の陣を乗り切り肩の荷を下ろした。

この時、つぶらな瞳だった千代姫が大人の美しさをたたえていることに初めて気づく。

千代姫は、変わらず忠利を尊敬する兄のように見つめていた。

ようやく伴侶として抱きしめる日々となり、千代姫も妻として心身ともに充実する。

 

1619年、細川家嫡男、光尚が元気に生まれる。

光尚誕生で忠興56歳は、隠居を決意した。

誰も心底信頼できないと生きてきた忠興にとって、忠利33歳はまだまだ未熟であり、忠興を裏切り幽閉させるかもしれない不安があった。

だが、幕府からの強い要望を今まで引き伸ばしてきたこともあり、伸ばすことは出来ないと諦め、翌1620年、家督を譲る。

 

以後、偏執と思われるほどに忠利に書状を送り日常のことから政治まで細かく情報を伝え指示した。

現存するだけで1820通。

忠利は、嫌ったが役に立つこともあり1084通、返書した。

それが、忠興の存在を示すことであり、身を守る術だった。

 

藩主の妻、千代姫は小倉城に入り、代わって隠居の忠興が中津城に入る。気取らない明るい性格で藩主の妻、嫡男の母を自然体でこなす。

母亡き後の実家が譜代大名としての体面を保つことが出来る待遇を得て安心し、心身ともに満ち足りていた。

 

1623年、江戸詰めが決まる。

わずか3年間の在城でしかなかったが、国元での役目が済んだのだと、近習たちに感謝する。

細川家の女主として、柔らか微笑みを浮かべる。

小倉城での暮らしは充実していたが、幕府の監視の役目を持った近習がおり細川家家臣との緊張関係があった。

その為、気を使い、落ち着かなかった。

 

 兄弟に会える江戸に戻る旅が、細川家上げて準備され、始まる。

心ウキウキ楽しかった。

江戸屋敷は、忠利が千代姫の好みを重んじて隅々まで心配りしていた。細川家の贅を尽くした千代姫のための新築の屋敷は気持ちいい。

江戸には、親類・縁者の屋敷が近くにあり、気軽に連絡を取り招き、千代姫自身も出かけることもできた。

小倉藩江戸屋敷での暮らしは気が楽で快適だった。

 

中津城・小倉城では6千石の化粧料をほとんど使わず忠利に預けるしかなかった。

だが、江戸には付き合うべき人達が多くおり、欲しいものも取り揃っており、使い道はいくらでもあった。

養父母、秀忠・お江と折々のつきあいも思う存分出来、心を込めた手の込んだ贈り物を届ける。

お江の身体が思わしくなく、健康になることを祈って送り届ける

将軍家との自然な付き合いは楽しく、忠利がにこにこと見守っており、幸せな良い気分だ。

 

将軍家と細川家を結ぶのが結婚の第一の目的であり、役目を忘れることなく細心の注意を払い付き合いを続ける。

細川家の対外的な顔となり、ようやく結婚の実感、細川家女主としての自覚が生まれる。

 

もう一つの大切な役目と心していたのが、実家の兄、小笠原忠(ただ)真(ざね)や小笠原一族と細川家を繋ぐことだ。

実家、小笠原家と幼い頃に戻ったように連絡を取り合った。

外様の細川家と譜代の小笠原家では幕府の対応は違い、情報交換は欠かせない。

兄弟たちを招くと、忠利も時には顔を見せ、玉子譲りの気配りと説得力のある話しぶりで、忠(ただ)真(ざね)の年上の義弟として貫禄を見せた。

千代姫も誇らしい。

 

忠利は、千代姫の夫として秀忠を義父、家光を義弟と呼び再々会う機会を作った。

そして、家光との親しさを増していく。

その間を繋いだのは、千代姫ではなく、春日局だった。

忠利の母は玉子。

家光乳母、春日局の父は、縁戚になる光秀筆頭家老だ。

春日局は主君、光秀の娘、玉子を崇拝し、子、忠利の願いに惜しみなく便宜を図る。

 

春日局は、家光の乳母として権力を握り、将来を見越して、秀忠の二人の男子、家光・忠長の近習に長男、稲葉正勝・三男、稲葉正利を配した。

家光の弟、忠長と正勝の弟、正利は、気が合い兄弟のような親しい主従関係を築いていた。

将軍とその弟では待遇が違い、忠長の近習は、数が少なく、密度が濃い。

 

家光は、忠長と幼少時から仲が悪かった。

両親の愛が、忠長により多く注がれているとひがんでいたのだ。

1623年、将軍になると、将軍としての権威を見せると、弟、忠長を家臣と見なし、治世に関し事細かに干渉し、監視の目を厳しくする。

庇護者の母、お江が亡くなると思うがまま、忠長の主君として君臨した。

忠長は息がつまり追い詰められていく。

 

春日局は、家光と忠長の亀裂は修復できないと見極め、正利を忠長から引き離そうとしたが、正利は強烈に「主君は忠長様だけ」と拒否した。

忠長を庇う父、秀忠が1632年、亡くなると、待っていたように忠長に改易を命じた。

 

その原因の一つが、忠長と熊本藩主、加藤家との親しい仲だった。

熊本藩52万石藩主、加藤家は、不忠の動きが多々ありと家光の怒りを買い、改易となる。

忠長と共謀し、幕府に逆らう意図があったとされた。

続いて、忠長の不忠・乱行の数々があげつられ、改易、上野国高崎での蟄居を命じられる。

 

正利らは家光へ必死の助命嘆願を行うがむなしく、忠長は許されることなく、1634年1月5日、自死。

正利は忠長が亡くなるまで側に付き従い、亡き後、兄、正勝に引き取られる。春日局は「願いさえすればいつでも(家光に)仕えることができるのです」というが、全く受け付けず、死ぬことばかり考えていた。

 

忠長家臣は、謹慎・追放・改易となるが、罪を問われないものも多い。

だが、正利は、共に死ぬ覚悟を決めた。

家光は「母とも思う春日局の子だ。いずれ許す。謹慎すればよい。時が来たら(家光に)仕えるように」と自害は許さなかった。

 

春日局は、どうすれば正利が再起できるのか、悩み苦しむが、細川家に預ければ、再起できると思い定める。

玉子との縁をかけがえのないことと大切に思い、その血を受け継ぐことを誇りとし、細川家を高く評価した。

そして、忠利に、身内のような親しみを感じていた。

真面目で物分りがよく心憎い心配りに感心し、正利を再起させるのは忠利しかいないと。

 

忠興・忠利は小倉藩主として秀忠・家光の評価が高かった。

将軍の指示に沿って、九州の状況を逐一幕府に報告し、外様でありながら、譜代以上の働きをしたこと。

薩摩藩島津家に対する的を得た報告がなされたこと。

熊本藩加藤家に関しても冷徹で辛らつな報告を度々した。その報告も影響し、加藤家は改易となり、役立ったこと。

などなど幕府への貢献度は大だった。

 

その評価を受けるのは、春日局と稲葉正則親子が支え取り持ったことが大きい。忠利が、人質として江戸に来て以来、幕閣・旗本との気安い関係を築くことができたのも春日局がいたからであり、忠利は感謝した。

忠利の結婚後、家光と親しい仲を築くことができたのも、春日局ゆえだ。

 

春日局は、天下のため、正利のために動く。

まず、加藤家改易後の熊本藩主に忠利を推した。

家光も異議はなく、1632年、島津藩への押さえの役目を持った細川家は、熊本藩54万石を手に入れる。

 

千代姫は、あまりに大国となった細川家に仰天した。

忠利の政治手腕・千代姫の外交の成果でもあるが、春日局の力の凄さに目を見張った。

ガラシャ玉子が忠利の後ろ盾となり、細川家は大きくなったのだ。

 

忠長死後、稲葉正利は兄、正勝の元に引き取られたが、正勝は病の床にあり、長くは預かれない状態だった。

正利は、誰とも話さず、籠もったままだ。

春日局は、忠利に預け、早急に稲葉正利を大名復帰させると決めた。

忠利も春日局の考えを聞き、急ぎ受け入れ態勢を整え、正利の引き取りを幕閣に申し出、正利主従を熊本に案内する。

熊本藩を得た引き換えに、正利を預かったのだ。再起させなくてはならないと肝に銘じていた。

 

正利は、自害が許されないと知ると、もぬけの殻になった。それでも、10人ほどの主従で熊本入りする。

忠利は、春日局が兄、斎藤利宗の娘婿、松下市之進を推したことで、世話役として受け入れ、他に10人ほどの用人を仕えさせ、もてなした。

松下市之進は、利宗お気に入りの婿であり、春日局からの熊本藩への監視役であり、忠利と正利の取り次ぎ役だ。

 

だが、正利は、忠利の忠告を全く聞かない。

「細川家は、主君を、加藤家を、落としこめた張本人だ」と終生恨み続け反抗し、自由奔放に行動する。

忠利は、なんとかして抑えようとするが、次第にあきらめていく。

1641年、忠利が亡くなると、熊本藩は正利の復権に積極的ではなくなる。1643年、春日局が亡くなると、正利の復権には手を貸さない。

細川家は、春日局の思いに応えることなく、熊本藩を手にした。

春日局の意思を重んじ、松下家を1500石程度の重臣とし受け入れたが。

 

千代姫の兄、忠(ただ)脩(なが)・忠(ただ)真(ざね)の妻は、亀姫。

姫路藩主、本多忠政と千代姫の母、登久姫の妹、熊姫との間に生まれた。

亀姫は、忠(ただ)脩(なが)・忠(ただ)真(ざね)・千代姫のいとこであり、家康のひ孫同士の結婚だ。

家康の養女として嫁いだ。

 

1613年、忠(ただ)脩(なが)と亀姫の結婚が決まると、秀政は加増され飯田藩5万石から松本藩8万石に国替えとなる。小笠原家の旧領への復帰であり一族家中は喜んだ。

続く大坂の陣、忠(ただ)脩(なが)が戦死すると功を認められ、義父、本多忠政の領地近く播磨明石藩10万石に加増され国替えとなった。

忠(ただ)脩(なが)の遺児、長(なが)次(つぐ)も隣接する播磨龍野藩6万石を得た。

ここで亀姫と再婚した忠(ただ)真(ざね)が小笠原家を継ぎ、長(なが)次(つぐ)は一門衆となった。

 

千代姫と亀姫は同じ年の生まれ。

千代姫が嫁ぐ前に、兄、忠(ただ)脩(なが)と亀姫は結婚し、短い期間だったが、親しくした。

千代姫が江戸詰めになった頃、本多忠政家は、日の出の勢いだった。

亀姫の兄、忠刻(ただとき)が豊臣秀頼の妻、千姫の再婚相手となったためだ。

千姫の化粧料10万石を含めて25万石の大藩となったのだ。

だが忠刻(ただとき)・熊姫が亡くなり、千姫が江戸に去り、火が消えたようになる。

千姫の化粧料10万石がなくなり、忠政が1631年亡くなると、次々当主が変わり姫路藩は姫路城を守れず、1639年には姫路藩を追われてしまう。

 

徳島藩は、姉、万姫の踏ん張りで17万5千石だったのを25万7千石の大藩とした。だが、万姫は、夫を1620年亡くし、幼い後継、忠英の母として後見しなければならなかった。

実家と余裕を持って付き合える状態ではない。

 

比べて、千代姫は熊本藩52万石の女主となった。

夫、忠利は、将軍家との縁はとても良好だ。

 そこで、小笠原家を支えるのは、千代姫しかいないと自覚する。

本多家近くに移った小笠原家だが、頼るべき本多家は去った。

すべきことは、国元で細川家と小笠原家との良い関係を築くことだ。

 

登久姫には、5人の男子が成長していた。

小笠原忠真・忠知・松平重直・小笠原忠慶・小笠原長俊。

彼らと共に、忠利の協力を得て、小笠原一族を九州譜代大名として要所要所に配置していこうとする。

九州に譜代大名を置くことは、幕府が願うところだった。

 

兄、忠(ただ)真(ざね)は幕府目付の役目を与えられ西国譜代大名の筆頭として千代姫の後を引き継ぎ、小倉藩15万石藩主となり小倉城を居城とする。

千代姫の在城は短かったが、兄、小笠原家の居城となり幕末まで続く。

 

弟、忠知は、豊後(ぶんご)杵築藩(きつきはん)(大分県杵築市)4万石藩主となる。

 

弟、重直は、松平家に養子入りしていたが、豊後高田藩(大分県豊後高田市)3万石を得る。

 

残り2人の弟は旗本となる。

 

千代姫と万姫がかわいそうに思う忠(ただ)脩(なが)の忘れ形見、齢昭院と小笠原家を継ぐはずだった長次。

齢昭院は、万姫の息子、徳島藩主、蜂須賀忠英と結婚する。

万姫が、末永く面倒を見たくて、幸せになるように取り計らった。

長次は、千代姫の計らいで細川家旧領、中津藩8万石を得る。千代姫が住んだ中津城が居城となる。

 

細川家の国替えに連動し小笠原家は続々九州に集まり、千代姫の願いが実現した。

千代姫は「(玉子の)導きにより(忠利と)結婚し小笠原家に尽くすことができました」と玉子との強い縁を感じ、身を震わせ生涯霊前に感謝の祈りを捧げる。

 

続いて、幼い時より親しかった年の近い2歳下の弟、忠知の子、甥の長定を光尚の近習とし側近くに置く。

将来は、光尚の家老とし、細川家一門重臣とするはずだった。

千代姫の働きは、細川家に貢献したはずだった。

 だが、小笠原家は千代姫に心から感謝したが、細川家は冷静に対応し、長定の子、長賢は1900石重臣にしかなれなかった。

 

玉子の影が細川家を覆い、家臣は一見バラバラに見えても細川家としてまとまりがあり、譜代大名、小笠原家の千代姫の影響力を最小限にとどめようとしたのだ。

千代姫もこだわらなかった。1649年、忠利の死後8年、楽しく暮らし、成し遂げた満足感の中で、52歳で亡くなる。