徳川千代姫と細川忠利|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(11)
だぶんやぶんこ
約 4056
忠興は、忠利の結婚相手は千代姫だと決めていた。
そこで、家康に願い続けた。
だが、返事はなかった。
福岡藩主、黒田長政を始め、徳川方に寝返った豊臣恩顧の有力大名は、すでに家康からの積極的な申し入れで、縁続きになっていた。
東軍に与した諸藩も、藩主が既婚であれば、順次、後継ぎを決め徳川家縁者の妻を迎えることを願い、お家の安定を図ろうとしている。
家康の意向に沿い嫡男とした忠利に妻が決まらないのは異例だ。
忠興はまだ試されているのだといらだつ。
忠隆、興秋は、今でも豊臣家を重んじ家康への忠誠心は弱い。細川家中にも豊臣家に近い一族家臣が多くいた。
そのような細川家中の内情を知る家康は、忠(ただ)興(おき)・忠利の忠義を認めても細川家を信用していなかった。
また、興元との関係も冷えたままで、家中不和を思わせた。
そのため結婚相手を、決めなかった。
1607年、家康の隠居城、駿府城の築城が始まる。
忠興は、江戸城に続いて、率先して、多大な出費を負担し築城に励む。
家康は、笑顔で、翌1608年、忠興と興元を駿府城に呼び、興元の独立を認めた。
細川家から独立した大名となった興元は、幕府に忠誠を誓い、悩みの一つが片付いた。
ここで、忠利と秀忠養女、千代姫との婚約を願い、ようやく実現する。
以前から内々に再々家康に願っていた姫だ。
ここまで8年の歳月をかけたが、思い通りの最高の花嫁を迎える事ができるのだ。成し遂げたと飛び上がらんばかりに喜んだ。
千代姫の母は、登久姫。
登久姫の母は、信長の一の姫、徳姫。
父は家康の嫡男、信康。
つまり千代姫は、家康と信長のひ孫になる。血筋的には申し分がない。
父、信康が非業の死を遂げ母、徳姫は織田家に戻るが、残された登久姫は祖父、家康の庇護で育つ。
登久姫の結婚相手、千代姫の父は、小笠原秀政。
小笠原宗家の当主であり、信濃守護の家系になる名門だ。
武家の棟梁、源氏の嫡流が河内源氏。
鎌倉幕府を創生した源頼朝や室町幕府を創生した足利尊氏の家系だ。
その支流に武田家があり、その弟の家系が小笠原氏になる。
玉子付きの家老、小笠原秀清は、小笠原一門の京都小笠原家の出身。
小笠原宗家の弟の家系になり、足利将軍家の側近くで仕えた。
足利将軍、義輝に仕えた小笠原稙盛は、義輝と共に討死し、嫡男、秀清は義昭に従わず京に在したままで、態度が定まらなかった。
そのため、義昭に嫌われ、結局、浪人となった。
同僚だった藤孝は、義昭を将軍とするために貢献し、次いで、信長に仕え丹後を得た。
その時、藤孝は、秀清を客分として招いた。
秀清は感謝し、藤孝を主君とし仕えると決め、才を発揮していく。
玉子の住まう玉造屋敷の奥の老女筆頭は小侍従と清原マリア。
清原マリアは、藤孝の母、智慶院(ちけいいん)の甥(兄、宣(のぶ)賢(かた)の嫡男)の娘。
早くからキリスト教を信仰しており、玉子の指示で侍女17人と共に洗礼を受けている。
表の小笠原秀清と奥の清原マリアは協力して玉子に仕え、玉子は全幅の信頼を2人に置いた。
この頃から、秀清は玉子や清原マリアの影響を受け、キリスト教の理解者となっていく。
そして、玉造屋敷の家老として炎上する屋敷の中で、玉子を介錯した後、自害することになる。
玉子は、忠利を送り出しホッとしながらも先行きに不安を抱いていた。
その時、秀清は「忠利様が小笠原本家の千代姫様と結婚されることを願っています」と思いを込めて話す。
千代姫はまだ3歳だが、姉の万姫が家康養女として蜂須賀家に嫁ぐことが話題となっていた。
細川家にとって家康との縁が重要なのは疑いようがない。
だが家康との縁は、忠隆を脅かすことになるのは明らかだ。
千代姫が家康の養女ではなく、小笠原家の姫として嫁ぐなら問題ないが。
玉子は「良い縁ですね」と複雑な思いをでうなずくしかなかった。
秀清は満面の笑みで「仲を取り次がせてください」と力を込めた。
まもなく、二人とも亡くなった。
藤孝は、殉死した秀清の功を高く評価し、秀清には500石を与えていたが、もっと引き上げ細川一門の扱いをすべきだと考える。
そこで、秀清嫡男、長元と藤孝の孫姫、たま(伊也の娘)。
秀清2男、長良と藤孝娘、千姫との結婚を決めた。
千姫は、長岡孝以と結婚し死別しており、再婚だ。
2重の縁で秀清の後継を二つの家系とし、細川一門として取り立てることで功に報いた。
長元は、破格の待遇に感謝し、父の願い、忠利と千代姫との結婚を実現させることが役目だと肝に銘じた。
忠興も大賛成だった。
長元は、小笠原宗家との折衝・家康方への申し入れの役目を担う。
家康の孫姫、登久姫と小笠原秀政は、秀吉に命じられて結婚した。
秀政は、主君と信じた家康の孫姫、登久姫との結婚に感激し敬い慈しむ。
その愛に応えるかのように登久姫は、男子6人と女子2人を生む。
その二人の姫が、万姫と千代姫だ。
1597年生まれた千代姫。
5歳年上に姉、万姫がいたが、1600年、8歳で阿波徳島藩主、蜂須賀氏に嫁いだ。その時、千代姫、3歳。
華やかな嫁入り調度類を見て「晴れの日」のめでたい様子を、断片的に覚えているだけだ。
以後、千代姫は、母の唯一の姫として母の愛を独り占めして育った。
母、登久姫に可愛がられた愛情いっぱいで育つが、その間は、母は、子を生み続けた。
末っ子、長俊が生まれた後、産後の肥立ちが悪く寝込みそのまま1607年、31歳で亡くなる。
残された千代姫は10歳。
千代姫には母が側にいることが当たり前であり、必要なことだった。
大好きな母は、難産の末、苦しみながら亡くなった。
大きな愛に包まれ、屈託なく育ち、ほんわかとした温もりのある家族が未来永遠に続くと信じていた千代姫だ。
あってはならない母の死を受け入れられずに、泣き続けた。
その時、父が「小倉藩主後継、細川忠利殿との縁談が決まった」と嬉しそうに告げた。
姉、万姫の嫁ぎ先以上の大藩に嫁ぐのだ。
兄弟はうらやましそうに喜び、一躍、千代姫は家中の羨望の的となる。
「泣いてばかりはいられない。母が導いてくれた道だ。父や一族のためにも踏み出さなくては。しっかりしなくては」と幼いながらも思う。
父も驚いていた。
小笠原家は信濃飯田藩5万石だ。
想像できないほどの大藩に嫁ぐ幸せな娘の父となるのだ。
千代姫は、将軍、秀忠の養女として嫁ぐことが決まり、きっと小笠原家も加増されるだろうと、笑みがこぼれる。
亡くなった妻、登久姫の縁のありがたさをしみじみ思う。
千代姫に「いつまでも母を想うのではなく、母の思いを受け継ぎ大人になりなさい。小倉藩は姫を待っているのだから」と力づけた。
長元は、父の願いを実現するために奔走したが、その道は長かった。
1608年ようやく実現し、涙をこぼし亡き父に報告した。
家中一同が喜んだ結婚であり、取次実現させた功は大きい。
その功で、細川家家老の地位は不動となる。
千姫に子は生まれず長良の家系は、絶家となるが、長元の子、長之が6000石家老・長昌が1300石重臣として続く。
秀清が生きていた頃には想像できなかったほどの出世だ。
だが秀清3男、長定は、玉子の影響を受け、キリシタンとして生きた。
後のことになるが禁教令が厳しく施行されても棄教しなかった。
忠利はかばい続け、何度も棄教を勧めたが拒否された。
島原の乱の前、1636年、泣く泣く死刑を命じた。
妻子15人と共に殉死し、玉子のもとに行く。
忠利と千世姫の結婚は、忠興も待ち続けた苦しく長い年月だった。
細川家の忠誠心を試し続けられ待たされ続け、ようやく実現したのだ。
感慨深い。
翌1609年、伏見城で忠利23歳と千代姫12歳の結婚式が執り行われる。その後、中津城に千代姫を迎え新婚生活が始まる。
つらい時を過ごし、一番待ち焦がれたのは、忠利だった。
父、忠興の努力・小笠原一族の献身的な働きを見ており、何も言えず悠然と待っていたが。
23歳の結婚は大藩の嫡男としては遅すぎる。
若い肉体をもてあます時もあった。
それでも、外様藩として幕府の厳しい目が光っており、いずれ家康縁者を妻にする身だと、厳しく節制した。
気品があり格調高い小倉城は千代姫を迎えるための城だった。
忠興が精魂込めて築いたが、万感の思いがこみ上げ、千代姫を迎えても小倉城を譲らなかった。
家康は結婚を決めると、忠利に家督を譲ることを望んだが、譲らない。
家康に忠誠を誓うが、細川家の意地を見せた。
余りに仰々しく監視の目を光らせる千代姫付きの徳川家から遣わされた家臣らの様子を見た後、引き継ぎを考えるとした。
忠利も余りに長く待たされた結婚で幕府の冷たい対応を感じていた。
「まだまだ(秀忠に)忠誠心を見せ仕えることが第一だ。細川家を守るために気を抜いてはいけない」と結婚の喜びを抑えた。
張りつめた緊張感を漂わせながら、千代姫を迎えた。
千代姫は、江戸城に入り、将軍、秀忠の養女となる儀式を執り行ない、秀忠の励ましを受け将軍の娘となった。
次いで、駿府城に入り家康に挨拶した。
家康はご機嫌で迎えてくれた。
ここまで、江戸城・駿府城に入るのも、秀忠・家康に対面するのも初めてで、夢のような興奮状態が続いた。
そして、伏見城で、初めて忠利と対面し盛大に式を執り行う。
すぐに、居城となる豊前中津城(大分県中津市)に入る。
想像を超えるほどに豪華な花嫁調度と共に、百人近くの供を引き連れた。
千代姫の乳母近習は少なく、大半は幕府からつけられた家臣で寂しく不安もあったが。
母の死以後、目まぐるしく忙しい1年半年だった。
余りの変化についていけずくじけそうになった時もあったが、あこがれていた忠利との結婚生活が始まる。