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細川家を継ぐ、忠利|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(10)

だぶんやぶんこ


約 6765

玉子は、1586年、3男、忠利を生む。

忠興との葛藤が続く中での妊娠出産で、精神的にも落ち込んでいた。

体力が落ち、23歳の若さなのに、今までと比べて苦しんだ出産だった。

子の誕生を素直に喜べないほど疲れ切り、今まで、安産だったのにと、忠利に申し訳なく思う。

 

生まれた忠利は、元気な産声を上げることなく、病弱だった。

玉子は、親として恥ずかしく、健やかに育ちますように一心に祈る。

心配で夜も眠れない日が続いた。

祈りが通じたのか、乳母達の必死の努力が実を結んだのか、乳を元気に飲むまでに丈夫になり、生き生きとした笑顔を玉子に見せるようになる。

「元気に育ち、兄を支える重要な力となるはず」と胸をなでおろした。

 

ここで兄が2人居り後継は十分だと、僧になると決まる。

修業の場は、愛宕山(あたごやま)(京都市右京区)福寿院。

玉子には悪夢のような、寺だ。

出来うるならば、行かせたくないが、どうすることもできない。

それまで、篤い宗教心を持ち修行するようにと、心を込めて厳しく心構えを説きながら育てる。

忠利は、玉子の祈る姿を目に焼き付け、腕白と言えるほど元気ではないが探求心の旺盛に育ち、8歳になる1594年、出家した。

 

愛宕神社は山城国と丹波国の境の愛宕山(あたごやま)にある。

その鎮護の寺として中腹、五峰に朝日峰愛宕大権現、白雲寺を筆頭に大鷲峰月輪寺・高雄山神護寺・竜上山日輪寺・賀魔蔵山伝法寺の五寺がある。

その白雲寺内に長床坊、尾崎坊、大善院上坊、威徳院西坊、福寿院下坊、宝蔵院と6つの社僧の住坊があり、山岳信仰の修験(しゅげん)道(どう)を学んだ。

忠利は、福寿院に入り天台宗・真言宗両義を修業する。

 

標高924m愛宕山(あたごやま)は京を大きく包むように聳え、山上からは京を一望できた。

光秀は、1582年6月17日、愛宕山に登り愛宕権現に戦勝祈願し白雲寺内、威徳院で連歌会を開いた。

光秀・光慶・東行澄・里村紹巴・里村昌叱・猪苗代兼如・里村心前・宥源・威徳院行祐の9人が歌を詠み「愛宕百(あたごひゃく)韻(いん)」として残す。

一流の歌人ばかりを呼び集めていた参拝であり連歌会だ。

 

光秀の句 ときは今あめが下知る五月(さつき)哉(かな) から始まり次々歌で繋がるが、信長を討つ決意をした句だと有名だ。

4日後、6月21日、本能寺の変となる。

 

その1年前、藤孝は光秀や連歌師数人を招き連歌会を主催している。

皆それぞれ忙しく、すぐすぐ開くことは難しいが折々開いていた。

まず、居城、宮津城に光秀らを招き、その後共に天橋立に行き連歌会を開いた。

天橋立には、この日のために、茶屋を建て鮎や鯉、鮒の泳ぐ池を造っていた。一部始終を演出したのが、福寿院住職、幸朝。

藤孝が頼んだ幸朝は、光秀の趣味をよく知る共通の友でもある。

 

福寿院住職、幸朝と藤孝は特に親しく、藤孝3男、幸隆を福寿院に入門させることになっていた。

翌1582年4月、幸隆11歳が入門した。

幸隆を励ます意味もあり、光秀は愛宕権現で戦勝祈願し白雲寺内で連歌会を開くと決めたのだ。

当然、藤孝も出席するはずだったが、欠席した。

 

福寿院住職、幸朝は、連歌が得意ではなく出席していない。

威徳院で住職、行祐の元で、連歌会が開かれた。

そして本能寺の変が起きる。

 

事前に行祐から詳しく事情を聞いていた幸朝は、予測し、周囲の状況を確認して、すぐに京の細川家に駆けつける。

そこには、細川家家老、米田(よねだ)求(もと)政(まさ)が待ち受けており、前後の京の状況と事件の詳細を、情報を持ち寄り、すばやくまとめる。

次いで、控えさせていた求(もと)政(まさ)家臣、快速で聞こえた早田道鬼斎を呼び、書状を渡す。

すぐに、ひた走り、藤孝に伝えた。

名の知れた武将の中で、藤孝が真っ先に光秀謀反と京の動きを知ったのだ。しばらく後に光秀の使者が来る。

 

玉子は、愛宕神社の戦勝祈願から光秀の死まで思い巡り、

幸隆を幸朝に弟子入れさせたこと。

幸朝が光秀の動きをつぶさに知っていたこと。

藤孝が出席しなかったこと。

米田(よねだ)求(もと)政(まさ)が京に居たこと。

快速の家臣を召し抱えていたこと。

などから、不信感を感じた。

 

藤孝はそれまでの連歌会などを通じて光秀の謀反の考えを知り賛同していたが、いよいよとなると確信が持てず、光秀が天下人になれるかどうか様子を見たのだと思う。

決起の後の京の動きを見て光秀では信長に代われないと判断し、光秀との決別を決め、裏切ったのだとしか考えられない。

愛宕神社には心に秘めた苦い思い出があった。

 

 その後、藤孝は、感謝を込めて福寿院を庇護する。

幸隆は還俗させたが、その後、娘、伊也の子、一色五郎に引き継がせた。続いて、伊也が吉田家に再婚後に生まれた幸賢が、福寿院住職となる。

愛宕権現と細川家との縁は、光秀との縁より遥かに深く長い。

光秀は、藤孝との縁で、決意の場を、愛宕権現としたのだ。

 

本能寺の変後、藤孝は、隠居の身となり、和歌・蹴鞠・囲碁・料理・能など極めた芸や刀・弓など武芸を引き継がせたいと幸隆を呼び戻した。

忠興にはない文人としての才を幸隆は持っており、頼もしく可愛がった。

幸隆は、特に能を極め能に関する幾多の文献を残す。

 

だが忠興は、関ケ原の戦い後、武将としての才を評価し、出奔した興元の代わりとしたいと、国元に呼び戻し、竜王城(大分県宇佐市安心院町)城主とし1万石を与え藤孝から引き離した。

幸隆は、竜王城に落ち着くと、かってこの地を支配し西軍に属し改易となった筑紫上妻郡1万8千石藩主、筑紫(ちくし)広門(ひろかど)の嫡男、重門を召し抱える。

重門はよく働いた。気に入り才知を認め一人娘、兼の婿養子とし、後継とすると決めた。

 

幸隆には藩主としての勤めは性に合わず、重門に引き継ぎたいと考えていたが、その前、4年後の1607年、36歳で亡くなる。

重門に引き継がせるよう、忠興に願い出ていた。

だが、忠興は、筑紫(ちくし)氏は、豊臣恩顧であり、細川家との縁はないと、筑紫重門を一門にすることを拒否した。

 

藤孝は、幸隆に刑部家(和泉上守護家)の家督を受け継がせており、その意に沿って、重門に引き継がせるはずだった。

だが、忠興は、和泉上守護家を5男、長岡興孝に継がせた。

玉子の嫌った、思い込みの激しすぎる執念深い性格ゆえだ。

仔細を聞いた藤孝は幸隆が不憫で、ますます弱り、病に伏せ勝ちとなる。

忠興の姪、兼の婿、筑紫重門は、幸隆の意に反して、わずか700石で細川家に仕え続ける。

 

忠利は、福寿院に入り修行し、のびのびと過ごしながらも、真面目な性格で勉学にも励み、秀でた才知を注目されていく。

1598年、秀吉が亡くなると、忠興が連れ戻し側に置く。

玉子は、4年間の別れの後、再び会った忠利の成長した姿に感激する。

忠利も母と会うと、忘れかけていた心の安らぎを感じ、時の経つのも忘れて話した。

 

家康は、秀吉に目をかけられた忠隆、興秋の力を認めながらも嫌った。

正室、玉子に、もう一人、僧として修行している忠利がいることを知り、会ってみたいと言ったのだ。

そこで、忠興は、忠利を還俗させ、引き会わせた。

忠利に会った家康は気に入り、忠利の江戸行きを命じた。

忠興は、いよいよ時が来たと張り切って、承知した。

忠利を秀吉に仕えさせず仏門に入れたのは正解だったと、顔がほころぶ。

 

忠利は、忠興に呼び戻され、新しい世界に飛び出した。

僧になるのが当然だと考えていた忠利には、驚くべきことばかりだったが、流れに沿うことは苦痛ではなかった。

家康が、秀吉色のない忠利を人質に求め、細川家を代表して江戸に行くという役目の大きさをうれしく思う。

 

忠隆・興秋は大坂城で秀吉・秀頼に仕え、しかも秀吉が決めた妻がおり、戦力にはなっても、人質には不向きだった。

1600年初め忠利14歳は「秀忠様に仕え、役目を果たします」と自信を持って江戸入りする。

 忠利と玉子は、1年余り、母子の充実した時を過ごした。

 

玉子は、秀吉から家康へと主君を変えた忠興の変わり目の速さに驚いていた。

忠利の出立の時「兄、忠隆に尽くすことが第一と考えなさい。また何が起きてもいつも母が側にいると信じ自信を持って進みなさい」と悲しそうに言い、見送った。

忠利は、後光がさすほどに美しく自信にあふれていた母が、涙をためて空を見上げ話した言葉を忘れる事はない。

 

玉子は、忠隆・興秋・忠利すべて愛しい我が子であり、子達も慕っていたが、時代が激変していく中、忠興は冷徹であり兄弟の仲を踏みにじることをしかねないと心騒ぐ。

 

出立する前、兄、忠隆・興秋から秀吉死後の政治の状況これからの動きなど教えられた。家康対反家康の戦いは避けられず、細川家は家康に従うことも教えられた。

上の空で聞いたことであり、耳の中を通り過ぎた感じだった。

 

不穏な情勢の中、静かに目立たない陣容で、旅立った。

自分の目で確かめながら進む旅は、瑞らしいことばかりで面白い。

京・大坂を離れると平和でのどかで、教えられたことが本当か半信半疑になるほどだ。

次第に陣容が整い、細川家を代表するのだと胸が張り裂けそうになるほど興奮して、築城が進む江戸城に入った。

 

こうして、一番乗りだと意気揚々と秀忠に対面した。

秀忠は、緊張しつつも余裕の表情で、歓迎すると話した。

頭を下げていたので、ちらっと仰ぎ見ることしかできなかったが、主君は秀忠と雷に打たれたようながんじがらめになったような衝撃を受けた。

怖かったが、嬉しい。

 

忠興の手配は抜かりなく、案内された屋敷に落ち着く。

以後、秀忠の指示に従い仕える。

ここから、次々人質として江戸城に来る諸大名の子と知り合う。

諸大名が人質として江戸に送る子たちの中で、一番先に江戸に来た意味は大きく、誰とでも先輩のような顔をして自然に話が出来た。

同年齢か年下の人質ばかりで、気負いなく秀忠に仕えることができる。

 

続いて、上杉征伐、関ヶ原の戦いと続く。

忠利は、秀忠に従い上杉征伐に出ただけだ。

4万近い兵とともに進軍し圧倒され、その一翼を担う責任感に身体がこわばった。戦うことなく江戸城に戻り関ヶ原の戦いは知らない。

 

家康の勝利の報が入り、江戸城内は沸き返る。

そして、母、玉子の死を知る。

母、玉子の死が大きな話題となり、勇敢な行為と褒め称えられる。

忠利は、皆の羨望の的となり、複雑な思いだ。

母の死が信じられなくて、悲しくて、すぐにでも大坂に戻りたいが、秀忠の側を離れることは出来ない。

 

母は亡くなり、豊臣政権は崩壊したことを近習から教えられる。

次いで、兄が廃嫡され、兄たちと父との反目が激しくなっていくも知る。信じられない事ばかりが、次々起きた。

江戸を離れることはできず、現実感はないが、この先どうなるのか、不安は募る。

 

出立の時に見た母の緊張した面持ち、血管が浮き立ち青白く引きつるような顔が強烈に印象に残っている。

最後は笑顔だったが、どこか宙を見ている定まらない目だった。

母はすべてを見通していたのかもしれないと思う。

だが、母は亡くなった。

何度も思い返しても、あの母が、もういないことはありえない。

 

出立の時、父、忠興は付き従う近習に「忠利を秀忠様の側近くに仕えさせ、ことあれば忠利が秀忠様の前に出て盾となるように。お前たちはその一歩前に出て、死して忠利を守るように、緊張感を持って仕えるのだ」と命じた。

忠利には余裕のある笑顔で「これからは秀忠様が主君だと思い、命を懸けて戦い尽くすように」と言った。

戦いの経験のない忠利には、ぴんと来ない言葉だったが、豊臣家に仕える兄たちとは違う道を歩み、独り立ちしていくのだと、張り詰めた心地良い緊張感を感じた。

 

父にとって価値ある息子になったのだと今までとは違う扱いが嬉しくてならなかった。

それまで、忠興に可愛がられた記憶はなく「3男坊はいらない子だ」と思われていると感じていた。

 

家康が天下分け目の戦いを制して以来、細川家は大きく変わった。

秀吉から得た知行の3倍以上の豊前小倉藩39万9千石を得て大大名になったのだ。

家康は玉子の功を褒め称え大盤振る舞いした。

 

忠利は、兄が廃嫡され周囲の態度が変わり、後継者としての視線が向けられていくのを感じる。

浮足立つ自分を感じ、恥ずかしく情けない。

今は秀忠に誠心誠意仕え細川家の忠誠心を見せるだけだと、言い聞かす。

 

幼い頃、母は学問と武芸の修練を厳しく命じ、母の決めたぎっしりと詰まった課題をこなすことに忙しかった。

母から直接学ぶことも話すことも少なかったが、母はいつもじっと忠利を見つめていた。

修験道の修行も学問も嫌いではなかったが、決められた課題をこなすのが精いっぱいだった。

江戸城では母に匹敵する守役も近習もなく自由であり、大人になったと感じた。

思い通りにできる時間が十分あり、交流範囲を広げた。人と話すのが好きで、人脈が培われる。

母の教えが役に立ったと母を想う。母から学んだ一端を話すだけで、面白い会話が始まるのだ。

 

忠興は、関が原の戦い後、家康に忠利を後継にしたいと申し出ていた。

その時、忠利にも「後継に決めた」と話があった。

信じられず、兄二人を差し置いて後継になるはずがないと思っていた。

戦後処理、国替えと続き、家康は様子見の状態を続け、望むとおりと納得した。

 

ようやく、1604年、伏見で家康の了解を得て、江戸城に入り秀忠に申し出る。

秀忠も機嫌良く、了解した。

こうして、忠利が後継と決まった。

忠利は兄に代わり忠興後継、次期小倉藩主となるのだ。

秀忠から「細川家を継ぐのだ。しっかり励むように」と申し渡され、現実のこととなったと身が震える。

母の涙をたたえた顔が浮かび複雑な思いだが、認められたのだと嬉しい。

 

忠興は、小倉藩を得て間もなく「嫡男、忠隆を廃嫡し忠利を後継にします。そして忠利に良き縁を」と家康に願った。

だが、忠隆は細川家におり家中からも信頼されていると知る家康は廃嫡を信用できず返事をしなかった。

やむなく、家康への忠誠心を試されているのだと手伝い普請に力を入れた。太平の世の藩主としての力を見せることで、小倉藩を守り抜き、忠利に繋ぐしかないと。

 

同時に、細川家居城を小倉城とし1602年から拡張改修普請を始める。

九州の地で、豊臣家包囲網の一角を占める近世城郭を築くと意気込んだ。

南蛮造りに破風の全くないシンプルな当時、最新の層塔式の天守。石垣は軟弱地盤ゆえ、低く抑え、ゆるやかで切り石を使わない野面積み。などなど。

知恵を巡らし、素朴ながらも豪快・堅固な名城に仕上げる。

 

この間、忠興の頭には、家康の表情がいつも浮かんでいた。

秀次謀反の時助けられて以来、家康との関係を深め、家康の思いを読み取るように細心の注意を払っている。

だが、まだまだ信頼を得るまでにはならないのだと肝に銘じる。

 

この頃、家康の大きな関心事が、大坂城以上の江戸城を築くことだった。信長の安土城、秀吉の大阪城より質量ともまさる天下人家康の居城、江戸城を築くのだ。

忠興は、伏見城の普請を共に担った時、江戸城の築城にかける思いを聞き、動かしがたい意気込みを強く感じていた。

そこで準備を始めた。

小倉城普請のためだと石・木などの材料の手配から、人夫・石工・職人・技術者などなど、思い切りよく集めたのだ。

 

翌1603年、思惑どおり、家康は築城経験が豊富で技術力のある西国大名に江戸城の手伝い普請を命じた。

この時を待っていた。

小倉城築城は後にし、江戸城普請に率先して加わり、集めた人・モノを惜しみなくつぎ込み、力を見せる。

 

こうしてやっと翌1604年、忠利が家康の認めた後継になったのだ。

忠利の4年間の秀忠への忠誠と、次期小倉藩主としての器を認められた証だが、同時に願った結婚相手は決まらなかった。

 

忠利は、自然体で秀忠に仕えていた。

忠興の子に生まれた以上、幼いときから父を継ぎたい思いを持っていたが、二人の兄がおり、あきらめていた。

そんなとき、幸運が降ってきたのだ。

父、忠興の後継になり、父に匹敵する藩主になりたいと、舞い上がる。

ずっと会っていない兄たちの怒りや家中の不安を思い、気を静める。

慎重に流れに沿って進むしかないとわきまえる。