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忠隆と千世姫の別れ|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(9)

だぶんやぶんこ


約 10144

豊臣政権は、不安定になり実質の天下人を巡って五大老、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の暗躍が始まる。

秀吉政権下では徳川家康と前田利家が拮抗する力を持っていたが、秀吉死後は、家康が五大老筆頭として抜け出す。

 

家康は、秀吉の遺言とは違う、自己流の政治で豊臣政権を主導していく。

忠興は、秀吉から実力を正当に評価されず、冷たい扱いを受け続けたと、心の底から思っていた。そのため、豊臣家への不満がたまっていた。

比べて、家康は、秀次謀反で秀吉から厳しい追及を受けた時、無条件で支え、助けてくれた。以来、家康への恩を持ち続け、家康の実力を高く評価した。

その秘められた家康への思いのままに、秀吉死後、すぐに積極的に家康に近づいた。

 

秀吉の遺言を尊重し政権を継承しようとする千世姫の父、前田利家と離れていく。

そして何よりも、声高々に秀吉政権の継承を訴える石田三成を嫌悪していた。

石田三成とは、軍目付として朝鮮での戦いを率いる武将を評価する役目なのに、恣意的ないい加減な報告をし、秀吉のご機嫌取りばかりする骨のない小物だった。

秀次事件では、秀次を守りつつ、豊臣政権を率いる奉行であるはずが、秀次を追い込み破滅させた張本人だと見なした。等々、三成とは全く意見が合わなかった。

豊臣政権を主導するに足る武将ではないと決めつけた。

 

翌1599年4月27日、前田利家が亡くなる。

父母に可愛がられた千世姫には衝撃的だった。

兄、利長が後継にふさわしく育っており前田家は問題なく継承されるが、家康と対峙するには若すぎた。

ここから、家康は、自由に思い通りに政権を運営する。

そして、誰はばかることなく忠興に臣従の証に三男、忠利を江戸に送るよう望む。

秀吉色のない三男、忠利14歳を名指しで望んだ。

同時に、丹後12万石に加え九州豊後杵築6万石を与えた。

忠興は、家康の期待を感じ身体が震えるほど興奮した。

その意に沿うと強く決意、すぐに準備し、忠利を江戸に送る。

 

秀吉は、忠興に「期待している。それに応える働きをすれば、見合った待遇をする」と言った。

だが、光秀死後のどさくさに紛れ増やした領地、丹後12万石を認めて以来、加増はなかった。

忠興は、秀吉に忠誠を尽くし、秀吉のために数ある戦いで戦勲を上げた自信があったのにだ。

 

家康の申し出に、同意した忠興は、豊臣家や前田家、その他の豊臣恩顧の大名を裏切ることに繫がるとよくわかっていた。

だが、家康が天下を率いるべきだとの信念を持っており、迷いはない。

玉子も禁教令を強めていた秀吉より、この時点で寛大だった家康が政権を率いることに賛成する。

それでも、忠興のためらいのまったくないあまりに早い転身に違和感を感じる。

 

1600年正月、忠利は、江戸城に向けて出発し、秀忠に仕える。

豊臣恩顧の有力大名で、家康支持を表明して江戸に人質を送るのは、忠興が最初だ。

千世姫の母、まつの江戸行きより早い。

家康が天下人になるために、大きな貢献をしたと後々までも誇る決断だった。

以後、家康支持を表明し、江戸に人質を送る豊臣恩顧の大名が相次ぐ。

 

1600年8月24日、宇喜多秀家は「家康打倒の戦いを始めます」と茶々と秀頼ににこやかに出立の挨拶をし、茶々と秀頼も「武運を祈ります」とうれしそうに応えた。秀頼は秀家を慕っていた。

茶々も家康があまりに大きな権力を持つことを懸念しており、家康を懲らしめる戦いは歓迎だ。

次いで、毛利輝元と会い戦後の仕置きを話し合い、三成とは、これからの戦いの進め方を話し合う。

 

家康打倒の戦いだ。

豊臣恩顧の大名がすべて従うはずであり、勝ち戦を信じていた。

大坂城を守る総大将が毛利輝元。副将が前線での大将、宇喜多秀家だ。

すべきことを終え、宇喜多家玉造屋敷に戻り、ゆっくり妻、豪姫と酒を酌み交わし最後の夜を楽しんだ。

 

翌朝25日、豪姫は、子達と共に家康が占領している伏見城を取り戻すべく出立する秀家を見送った。

秀家は家康打倒を目指すだけで、京・大坂の治安に関心はなく、現状でいいとの考えだった。

 ところが石田三成は、東軍に属する大名の妻子を大坂城二の丸に集めると決めた。

監視体制の効率化の為だ。

人質作戦で、嫌々ながら上杉征伐に出陣した東軍とみなされる豊臣恩顧の大名を、西軍に引き戻すのだ。

妻子のためにも、家康の東軍から離れ、西軍に味方するはずだった。

 

最初に向かったのが細川屋敷。

忠興は、大坂城下の不穏な状況を感じており、危急のことがあれば、東軍、細川家として、恥じることがない対応を取るよう言い残し出陣していた。

玉子も家康にかける思いがよくわかっており、万が一の覚悟はしていた。

二の丸への同行を願う奉行配下の武将に対し、玉子は決意した。

まず、人質を拒否し、三成への反旗を高らかに宣言し死ぬと家中に話した。

皆覆すことは出来ないと、知っており、同意した。

そして、屋敷に火を放ち、亡骸を奪われないよう、きつく命じた。

 

千世姫を巻き添えにするつもりは全くなかった。

千世姫は、忠興とゆっくり話すことはなく、忠隆も慌ただしく忠興に従い出立しており、病弱な熊千代を元気にするために必死だった。

父の死による豊臣政権のゆらぎ、家康の台頭はよくわかっており、兄たちと連絡を取り合い、今後を注目していたが。

忠隆は、前田家と徳川家の間にいる自分の立場は微妙だと知っており、千世姫に細川家の内部事情を詳しく話すことはしなかった。

心配かけたくないし、自身も不安だったからだ。

 

千世姫は、玉子の決断を予期していなかった。

上杉征伐はよく承知していたが、その戦いが死に直結するとまでは、わからず、驚く。それでも、豊臣政権の状況は、理解しており「これも定め」と同調し、死を決意した。

 

玉子は、本能寺の変以来、細川家・夫を素直に受け入れられない。

父、明智光秀を裏切って、権力に擦り寄る忠興の姿を見るのは悲しい。

秀吉死後の家康への極端な傾倒ぶりに尋常ではないものを感じ、忠興の政治的野心を嫌った。

姪(姉の娘)、小ややを忠興に仕えさせ代わりとし、妻としての役目を小ややに引き継がせた。

国元では、藤の方の存在が揺るぎない。家政を担う能力があり奥のまとめを完璧にこなしている。

忠興が女人に不自由することはなく、玉子はいなくても良い存在となった。

 

子達は、権力志向ではなく高度な文化を継承する細川家に相応しく育て、望みどおりに成長した。家康にも認められる働きをしている。

それで十分だ。

忠興は、忠利を江戸に送り家康色を鮮明にし、秀頼や宇喜多秀家などと親しい付き合いを続ける忠隆、興秋を冷ややかに見たが、この頃、細川家は一枚岩だった。

 

西軍副将の妻、豪姫は、夫を送り出しゆっくりしていた。

その時、出立を見送ってわずか数時間後、玉子から「千世姫を引き取って欲しい」との連絡を受ける。

切羽詰まった様子の使者に驚き、すぐに迎えに行くよう側近、難波秀経に命じる。

細川屋敷に入った宇喜多家家臣は、屋敷内の異常な雰囲気に身の毛がよだつ。

玉子と千世姫は言い争いをしていた。千世姫は動きたくないと言い張ったが、玉子の強い指示で侍女らと共に無理やり宇喜多家屋敷内に引き取る。

まもなく、細川屋敷から火の手が上がった。

豪姫は千世姫と共に、炎上を見続ける。

千世姫は「(義母と)共に死にたい。屋敷に戻りたい」と言い続ける。

豪姫は、西軍の勝利に確信が持てなくなり不安が募っていく。

それでも、しっかりと千世姫の手を握り、大丈夫だと諭した。

 

こうして玉子は、聖母マリアとしての宗教心と華やかな美しさ、揺るぎない知性を保ったままで亡くなる。

三成は、意図が完全に逆効果になり東軍に傾いた諸将の結束を固める事になったと落胆し「人質作戦は失敗だった」とすぐに止めた。

大名屋敷を囲み逃亡を防ぐように命じただけで、出陣する。

 細川屋敷の炎上を見て各大名屋敷は騒然とし、必死の脱出作戦が起きる。三成が出陣すると、ますます大坂城下は騒然としていく。

 

 玉子は、細川家の将来を担う大切な嫁、千世姫に「逃げて生き抜きなさい」と厳命した。ところが千世姫は「義母様の側を離れません」と聞かなかったため、熊千代を守る役目があると「細川家のために生き抜くのです」と無理やり逃がそうとしたが、動かず、やむなく、豪姫に引き取りを頼んだのだ。

 

玉子は、信長を殺した明智光秀を父に持った苦悩、夫、忠興の生き方との違いに疲れ、諍いのない心の平穏を望んだ。

すでに現世に未練はなく、子達のために価値ある最後を迎えられたと満足の死だ。

 

関ヶ原の戦いは、家康の大勝利で終わった。

玉子の死で傷心の千世姫は細川家に戻るが、予期しない非難の嵐に見舞われる。

忠興は、家康から忠利の江戸行きと加増を申し出られたとき、細川家の忠誠心を試されている、細川家後継を忠利にすべきとの考えだと、見抜く。

玉子は、忠興の家康への忠誠心を見せたい思いを見抜き、情けない夫だと思う。

「細川家を継ぐのは、忠隆」と育てており、ふさわしく育っていた。

忠隆が引き継ぐべきだし、引き継がせたい。

そんな思いを胸に秘めていた時の三成の暴挙であり、自らの死で細川家の忠誠心を見せれば忠隆を守れると考え、喜んで死を選んだのだ。

 

だが、忠興は、玉子の死の功により、細川家が18万石から40万石近くまで加増されたことに感謝した。

それでも、恩賞は、藤孝・忠興ら細川勢の戦功であり、人質、忠利の存在の大きさでもあるとの考えを変えなかった。

 

忠興には、冷徹な先見の明と独断があり、玉子の思いを理解できない。

千世姫に「(玉子と)共に、自害すべきだった。逃亡したのは細川家への裏切りだ」と厳しく非難した。

そして、忠隆に裏切り者との離縁を命じた。

母、玉子の思いを踏みにじる父の横暴に忠隆は怒る。

 

すると、待っていたかのように「父に逆らう不忠者に細川家を継がせることは出来ない」と忠隆に勘当を告げる。

忠隆は20歳。この間の家康と父の繋がりをよく見ており、父の思いはよくわかっていた。そこで、廃嫡は了承するが離縁は拒否する。

細川家を思っての苦渋の決断だったが、忠興は納得しない。

 

叔父、興元が、忠興との間に立ち、忠隆を守ろうとしたが、忠興は受け付けず、1602年、興元は出奔し、祖父、細川幽斎・祖母、沼田麝香(じゃこう)の元に行った。

藤孝は、秀吉から隠居料6千石を得ていた。

家康は安堵し、細川家などから引き継いだ屋敷もあり、豊かだった。

 

ここから、70歳近くになった老いた藤孝に変わり、麝香(じゃこう)は、忙しくなる。

藤孝と麝香(じゃこう)は、東軍勝利の後、隠居し、吉田(京都市左京区南部)屋敷に住まうようになった。

共に住むのは、長姫母子。

娘、伊也の吉田家が近くにあり、落ち着いた暮らしだった。

 

また、藤孝の文人としてのすべてを受け継ぎたいと修養に励んだ幸隆は小川屋敷に住んでいた。

そこに、興元一族が入った。

幸隆は、忠興から、強く来るように命じられ、中津城に移るため、引き渡したのだ。

小川屋敷で生涯を過ごしたかったが、忠隆の命令には逆らえない。

 

続いて、忠興と忠隆の険悪な雰囲気を気に病んだ麝香(じゃこう)は、廃嫡に応じた忠隆・千世姫と子を預かりたいと申し出る。

忠興は、離縁しなければ制裁を加えるとまで言い、断固拒否した。

麝香(じゃこう)も、玉子の遺志を受け継ぐ覚悟であり引くことはない。

 

毘沙門町にある聚楽第旧利休邸(京都市上京区)を実家、沼田氏名義で買い取る。そして、忠隆一家の住まいとしてふさわしく改修し、北野屋敷と呼ばれる瀟洒な屋敷を築き、準備する。

まだ、20歳過ぎでの隠居は気の毒で仕方がないが、家康の天下となりつつあり、秀吉の影を引きずる忠隆に勝ち目はないと分かっていた。

いつでも待っていると伝える。

 

しばらく、忠興と忠隆の攻防戦は続く。

待てなくなった忠興は、1604年、忠利を後継とし、忠隆の廃嫡と千世姫との離婚を家康に申し出て、家中に宣言する。

忠興と戦う以外、忠隆の細川家での居場所はなくなった。

内紛は家康の望むところであり、玉子が最も恐れていたことだ。

玉子の願いを破ることはできない。ここで、覚悟を決め、屋敷を出る。

祖母の用意した北野屋敷に妻子とともに入る。

 

忠隆が、屋敷に入って、間もなく、熊千代が亡くなる。

忠隆と千世姫の嘆きは大きかったが、絆も強くなりどんな困難も力を合わせて切り抜こうと身体を寄せ合う。離縁はしないと約束した。

1605年、長女、徳姫が生まれた。

 

この年、興秋が、出奔し、忠隆のもとに来た。

弟、忠利が後継になることや、その身代わりの人質になることなど、尊厳を踏みにじられ耐えることはできなかった。

養父、興元が、歓迎し迎え入れ、興秋は、小川屋敷に住まう。

麝香(じゃこう)が、細川家の内紛とならないよう、皆、受け入れた。

 

翌1606年、忠隆と千世姫に次女、吉姫が生まれ一家に笑顔が戻る。

この年、忠隆は、母、玉子の七回忌法会(ほうえ)を祖父、藤孝の弟、玉甫和尚が住職を務める大徳寺高桐院で営む。

大徳寺高桐院は、忠興が、隠居した父、藤孝のために1602年、建立した。

実は、玉子の三回忌に合わせ、建立した寺だ。

 

七回忌の節目に、玉子の嫡男としての責任を果たした。

忠隆・千世姫の玉子を慕う気持は篤く、忘れることはない。

玉子にふさわしい法要であったかどうかはわからないが、祖父母によって暮らしている身では精いっぱいだった。

 

 藤孝・麝香(じゃこう)は、後継だと思っていた幸隆が中津城に去り、長姫が亡くなり、寂しくなっていた。

それでも、興元一族と、忠隆・千世姫一家と興秋一家と近くに住み、落ち着いた暮らしだった。

 

だが、忠興も細川家を守るため、厳しく干渉し、命令を出す。

興秋が江戸入りを拒否し出奔した仔細を報告した興秋側近、飯河宗祐、長岡宗信を、自害させた。

飯河宗祐、長岡宗信は、麝香(じゃこう)が細川家に招き重臣となった姉の子でありその嫡男だ。

 

興秋・忠隆は、その仕打ちに怒りが煮えたぎった。

決して忠興を許すことはできないと気勢を上げる。

麝香(じゃこう)は、豊臣恩顧と見なされる細川家を守る苦悩、玉子は細川家を守るために亡くなったことなど、忠興と玉子の葛藤を含め話し、慎重に時期を待つよう諭す。

 

興秋・忠隆は祖父母の側におり、興元が彼らをまとめ、幸隆とも連絡を取り合っている。

忠興は、彼らの共謀を恐れ、厳しく監視する。

すると、1607年、幸隆が亡くなる。

1608年、家康は、興元に駿府に来るように命じる。

藤孝の要請を受けて、忠興と興元の仲を取り持ったのだ。

家康は、忠興と和解すれば、大名としての独立を認めると興元に持ち掛けた。

 

興元は、病いで伏せることが多くなった藤孝から忠興から離れ独立した大名にするので受け入れるようにと言われ、了解した。

我が子、興(おき)昌(まさ)が生まれており、興(おき)昌(まさ)のために大名となるべきだと受け入れた。

そして、家康に呼ばれ、忠興と気持ちが通じ合わないまま和解する。

 

家康は、興元を豊臣家と引き離したかった。

そこで藤孝の意を重んじ、家康が和解の使者となった。

それでも、領地の選定に手間取り、藤孝の容態が悪くなったこともあり延び、藤孝死後の1610年、秀忠が下野国芳賀郡茂木(栃木県芳賀郡茂木町)に1万石を与え、大名とした。

興元を豊臣家と引き離したと満足だ。

 

幕府の命令を受け入れた興元は、続く大坂の役で、幕府方として、戦った。

武勲を重ね、加増され、谷田部藩1万6千石藩主となる。

忠興の細川宗家に比べ僅かだが、独立した大名として面子を保て、満足だった。

1619年、江戸で亡くなるが、密やかに信仰を続け、玉子との縁は結ばれていた。

 

忠興は、指示に素直に従わない幸隆が亡くなり・興元を豊臣家から引き離し、ホッとする。

次に、興秋に国元に戻るようにと熱心に呼びかけ、時には高圧的にも命じた。だが興秋は無視した。

興元が小川屋敷を去って以来、築山兵庫ら家臣と共に住み続ける。

許されないことだとわかっていても興秋にとって主君は秀頼だった。落ち目の豊臣家を見捨てることはできない。

 

麝香はいつも味方であり、麝香の縁に繋がる家臣が側近くにおり、兄一家との仲もよく、暮らしに不自由はない。

米田是季ら慕ってくる細川家家臣とも緊密な関係を築き、豊臣家を守りたい思いを強くしていく。

妻の実家、氏家行広一族も同じ思いであり、連絡を欠かさない。

 

そして、忠隆も健在だ。

1609年、三女、福姫・1610年、四女、万姫が生まれる。万姫はすぐに亡くなるが。

この年、祖父、藤孝も亡くなった。

晩年は、風流の世界で嬉々として過ごした76歳での大往生だ。

日常のことすべてを麝香(じゃこう)に任せ、世俗とかけ離れた世界で生きた幸せな最後だった。

藤孝亡き後、京・大坂の細川家を代表するのは忠隆だ。

 

藤孝は、遺言で遺領6千石のうち3千石を忠隆に与えた。

だが、忠興は、忠隆の影響力を恐れ、許さず、千世姫との離縁を改めて命じ「離縁後に3千石を認める」と告げた。

忠隆は、忠興の執念深い性格は治らないとため息をつく。

経済封鎖は、千世姫と子たちがいる身では辛い。

いよいよ覚悟を決めなければならない時が来たと悟る。

 

幕府から見ると、家中の支持を得ている忠隆は、まだまだ細川家の後継になりうる人物だった。

しかも豊臣家に近い武将として、公家・武将と付き合いを深めている。

幕府にとって、要注意人物だ。

幕府は忠興に「忠利との二頭政治にもなりうる」と暗に不満を伝えている。

豊臣家と徳川家の仲は緊迫しつつあり、細川家の不穏な空気を恐れた。

 

 忠興の悲壮な脅しを受け、忠隆・千世姫は結論を出す。

「藩主、忠利の元、家康の臣として細川家の強い結束を示さなければ、細川家の安泰はない。離縁に応じるしかない」と。

千世姫には母、まつから「(千世姫の)再婚が決まっています。早く戻るように」と再々文が届いていた。

それでも、忠隆は優柔不断で先に進まない。

 

ここで、千世姫は兄、利長に迎えを頼む。

翌1611年、加賀藩主の兄、利長が、細川家と忠隆に、千世姫の引き取りを申し出て、千世姫は金沢に戻る。

離縁の後、ようやく、忠隆は経済的安定を得た。

続いて忠興は、国元に戻り、忠利を支えるようにと命じる。

それは、受け入れることはできない事であり拒否した。

玉子が望んだ「細川家を継ぐべき人です。それでも何があるかわからない。その時は、政争にはできるだけ関わらず生きて欲しい。そして、文人としての血脈を受け継ぐように」との願いを叶えたかった。

「武将としての望みはない。祖父の風雅の道を引き継ぐ決意だ」とはっきり告げる。

 

ここから堂々と秀吉が生きている頃から培った公家や武将と付き合いを始める。

北野屋敷は、さながらサロンと化した。

祖母、麝香(じゃこう)が全面支援し興秋らも参加した。

 幕府は嫌悪したが、忠隆は、サロンとしての集まりに特化し、豊臣家との縁をなくしており、恥じることはなにもないと、続けた。

 

千世姫は「義母(玉子)様の思いは果たせませんでしたが、細川家は安泰です。忠隆殿の家系も守られます。ご安心下さい」と玉子の墓前に報告した。

幼い娘たちと別れるのはつらかったが、すっきりした気分で、金沢に戻る。すぐに、待ち続けていた加賀藩家老1万7千石、村井長次と再婚する。

 

再婚後、千世姫に子が出来ず1613年、夫が亡くなる前に養子を決めた。

兄嫁、永姫(信長の娘)と共に、凋落していく織田家・豊臣家の役に立ちたいと、織田家から養子を迎える。

永姫は、織田宗家となった織田信雄の家系から養子を取って育てた。

そこで千世姫は、大坂城で茶々・秀頼に仕え茶道を通じて親しかった織田(おだ)長(なが)益(ます)(信長の弟)の家系から養子を取る。

長益の長男、長孝の四男、長光9歳だ。北野屋敷で出会い、気に入っていた。

長光を側に置き養母として前田家に仕える心得・村井家を率いる覚悟を教えていく。

 

村井長次の死を知った忠隆は「戻って欲しい」と千世姫に望む。

千世姫は、村井家に残り京に戻る意思のないことをはっきりと伝える。

ようやく忠隆は、千世姫を諦めるしかないと心した。

姫たちへの責任を果たすために細川家との縁を強くするしかない。

忠興を許せないが、細川家が続かないと、姫たちの将来が心もとない。

 

藤孝の死後、豊臣家の動向が気になる忠興の使者が頻繁に忠隆の元を訪れている。求められる情報を伝えていたが、この頃から、積極的に、京の公家衆から得る情報を細川家に知らせていく。

家康は豊臣家滅亡のシナリオを完成しつつあった。

 

まもなく大坂の陣が起きる。

忠隆は豊臣家が滅亡するのを見続け、弟、興秋の悲しい死を見守る。

その後の幕府の理不尽なすさまじい浪人狩りに怒り、豊臣方に属した旧知の武将を密かに支援する。

 

その中に、豊臣家に仕え大坂の陣を戦い逃げ浪人となっていた長谷川氏がいた。

その娘、喜久と出会う。

千世姫に似た面立ち、価値観も共通で、新たな恋が芽生える。

1620年、喜久を妻に迎え、1621年、忠恒、翌年には忠春が生まれる。

姫たちは、京文化を学び一流の教養人に育った。

 

忠隆のサロンに集まる公家から、次々、姫たちへの結婚の申し入れがある。

忠利とも相談し、結婚相手を決めていく。

徳姫は公家、西園寺(さいおんじ)実(さね)晴(はる)(1601-1673)に嫁ぐ。

西園寺(さいおんじ)家は、天皇と近く文化の担い手として高名であり納得の結婚だ。

結婚後、夫婦仲良く子達に恵まれる。

 

忠隆は亡くなるとき、5百石を徳姫にと遺言する。

この5百石は西園寺(さいおんじ)家の財政を潤した。

徳姫は、死期が近づくと、死後も引き続き西園寺(さいおんじ)家に支給されるよう遺言し、細川家も承諾し後々までも西園寺(さいおんじ)家の財政を支えた。

西園寺(さいおんじ)家の家禄は597石だった。

その恩に応えて江戸時代を通じて、細川家に京の情報を送り続ける。

 

次女、吉姫は、忠隆の家老、奥山三郎兵衛の嫡男、秀宗に嫁ぐ。

忠隆を支え続け、忠興と取次ぎ、なくてはならない大切な老臣だった。

忠隆40歳で喜久との間に嫡男、忠恒が生まれた。

残り少ない人生を考え始めた頃であり、成長を見届けられるか不安になる。

秀宗と吉姫で、忠恒を見守るようにとの願いから決めた。

 

三女、福姫は、公家、久世(くぜ)通式(みちのり)(1593-1628)に嫁ぐ。

久世(くぜ)通式(みちのり)は、朝廷と秀吉を結ぶ武家伝送の役目を担った有力公家、久我家の生まれ。

将軍の姫、和子姫の入内に力を尽くし、将軍家に認められ、久我氏から分かれ久世(くぜ)家を創設した。

家禄は2百石。

 

結婚後、細川家は久世(くぜ)家に経済的支援を続けた。

だが、福姫は、嫡男、通俊(1626-1669)を残して、26歳で亡くなる。

福姫に通俊の将来を託された忠隆は、通俊に百石を与える。

この助成で久世(くぜ)家創始者、久世(くぜ)通式(みちのり)は体面を保つことができた。

 

 姫たちがそれぞれの道を歩み始め、二人の男子が元気に育ち始めた1626年、忠興が北野屋敷を訪れる。

今までのことを水に流そうと、真の和解を求めてきたのだ。

忠隆は、自分の考えは変わらないが、二人の男子は託したいと応じた。

時が過ぎ、1638年、玉子の甥、三宅重利が亡くなる。

そこで、母、玉子の願いだと、三宅重利の子たちを高禄で、細川藩で召し抱えて欲しいと願う。

 

玉子は甥(姉、倫子の子)三宅重利を引き取り、忠興に仕えさせた。

だが、玉子の死に納得できず、細川家を離れ、父、明智秀満の旧臣を頼り、唐津藩(寺沢家)初代藩主、寺沢広高に仕えた。

重利は唐津藩で1万石を与えられるまで力を発揮したが、島原の乱で戦死した。

忠興・忠利も喜んで受け入れた。

嫡男、三宅重元(藤右衛門)は1500石取りの細川家重臣となる。

その弟、重信(吉田庄之助)、重豊(加右衛門)、重行(新兵衛)も忠利に仕える。

 

こうして忠隆は、玉子の教えを実現できたか不安もあるが、教えに沿って生きた自負心は持てた。

キリシタンであることは死を意味し、無念だったが信仰心を秘めたまま、棄教した。

忠興が頭を下げても京を動かず、1646年1月、忠興の死を確認し、ようやく安堵し、同年9月亡くなる。