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嫡男、忠隆と妻、千世姫|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(8)

だぶんやぶんこ


約 4804

嫡男、忠隆は、1580年、生まれた。

玉子は舅や夫、一族から「立派に役目を果たされ、おめでとうございます」と称賛の声が降り注ぐのを快く聞いた。

信長からも「これで細川家は安泰だ」と褒められ、幸せをかみしめた。

 

玉子は「明智家と細川家の懸け橋となるのです」と父母から教えられ嫁いでいる。

父や継母からの祝福の便りを読むと、父母の思いを実現し子としての役目を果たした喜びが心の底から湧き出る。うれしかった。

忠興との愛の結晶を授かり、将来細川家を担う子だと抱きしめる。赤子ながらずっしりとした重さがあった。

「もうこれで細川家に望まれるすべてを果たした、完璧な妻だ」と有頂天だ。

 

だが、父、光秀は、悩んでいた。

信長の重臣としての地位は確立したが、信長家中で一派をなすほどにはならない。

それどころか、文武両道に秀でていると自信があったが、信長の思いに臨機応変の速攻で応え、成果を上げるのが不得手だった。

真面目に策を考え、準備を積み重ねて行動するのは得意だが、せっかちな信長に思いが届かない。

「(信長)殿が高笑いしながら、さすが光秀と言われたことは何度もあるが、最近は減ってしまった」と寂しそうに話す。

 

玉子は、父の様子から、父が織田家中で重きをなす為に、頼りとするのが細川家であり、夫、忠興だと痛いほどわかる。

信長も、忠興の性格戦いぶりに自分との共通点を感じ、お気に入りだった。

「忠隆を大切に育て細川家後継とし、父上を支えさせます」と父に胸を張り話した。「それまで元気でなければならないな」とにっこり応えてくれた。

この頃の玉子は、忠興を好きだったが細川家を理解するまでにはなれず、明智家を第一に考えていた。

だが、忠隆2歳の時に明智家は滅んだ。

 

 玉子は格上の明智家の姫から、謀反人の娘に格下げになった。

その上、幽閉隔離され、側室も出来、天から地へ突き落とされた虚しさに沈んだ。

そして、父、光秀を見殺しにした細川家への憎しみを募らせた。

2年が過ぎ、秀吉の許しを受けて、一見、かっての暮らしに戻った。

秀吉は、光秀に与しなかった細川家を、疑いつつも厚遇した。

 

忠隆は、秀吉の意向に沿い、10歳になる前から秀吉に仕える。

秀吉は忠隆を側近くに置き、次いで、次男、興秋を秀頼の近習にした。

才知に長けすぎている父、忠興より、幼少時より見知っている忠隆の才を高く評価し可愛がった。

 

そして、忠興後継の忠隆を重用しようと、盟友、前田利家とまつの娘、千世姫との結婚を決めた。

「忠興は信長様が主君だとの思いが見て取れ、忠誠心を疑うが、忠隆には主君は儂(秀吉)しかいない。素直で忠実だ」と見定めていた。

前田家と細川家では格が違うが、秀吉は期待の高さを目に見えた形で表した。

 

玉子は、息苦しくなる。

父、光秀と秀吉の仲が良いとは言えなかった。

秀吉は、父の反逆を見越していたように動き、父を殺し、父のなりたかった信長後継になった人物だ。

運に見放された父であり、やむを得ない結末だったと自分に言い聞かすが、秀吉が忠隆・興秋を気に入っているのがわかり、思いは複雑だ。

 

天下人、秀吉が側近くに置こうとするのは優秀だからであり、父の血を受け継ぐ子たちが認められれば、いつか明智家の復権に通じると、解釈し受け入れるしかない。

中堅大名に過ぎない細川家が、秀吉の最も信頼する前田利家の姫を嫁に迎えることになった。忠隆の大手柄だ。

この頃から、玉子は、秀吉・ねねに真面目に仕えようと、自ら出向くことはないが、折々のあいさつは欠かさなくなる。

 

忠隆が、将来、秀吉政権の中枢を占める力ありとのお墨付きを得たのだと、素直に喜ぼうと思う。

秀吉の世となった以上、秀吉政権の下で、細川家の安泰と、明智家の復権を目指すしかない。その二つを結びつけるのは忠隆だと育て、成功したのだと。

忠隆に「立派になりましたね。誇りに思います」と祝福した。

 

明智家と豊臣家の落差は大きすぎ、明智家の復権がどこまでできるか自信はない。それでも、姉、倫子の子、甥、三宅重利(母の姓を名乗る)。

妹の子、津田昌澄・元信には望む人生を進ませたい。

 

 光秀は良き父であったが、一派を成すことが出来ず、立ち上がった時に同調する織田家中は少なかった。

そんなこともあり、玉子は、将来のためキリスト教を通じて幅広い交際に心がけた。

外出はほとんどなく、小侍従・清原マリアを通じての付き合いが多かったが。

それでも、家中・来客を通じ慈愛に満ちた笑顔・言葉で次第に敬愛される存在となり、多くの身内・侍女・家臣がキリシタンとなる。

 

秀吉に敵対することを避け、積極的に布教に携わることはなく、自らの宗教心を高めるために学び祈ったが、仲間が増えるのはうれしい。

忠興も秀吉に不満があるが「前田家との縁は、認められた証であり、将来の飛躍が保障された」と忠隆の結婚を喜ぶ。

前田利家・まつは、高い文化教養を積み重ねている名門、細川家の御曹司、忠隆を良き相手だと喜んでいた。忠隆の能力が高く評価されていることを再確認した。

1597年、17歳同士で結婚。

 

玉子は、忠隆の結婚を通じて、かってよく細川屋敷を訪れ、親しい付き合いをしていた高山右近との再会が実現すると胸が高鳴った。

高山右近は、秀吉の禁教令に従わず領国、播磨6万石を秀吉に返上し、浪人となった後、前田利家に招かれ客人となり、利家の参謀格で側に居た。

前田家はキリスト教に理解があることも嬉しい。

 

千世姫は1580年、まつ33歳の時、難産の末に生まれた末っ子だ。

父、利家がようやく信長重臣として力を発揮し始めた時で、翌年には、能登一国23万石を信長から得ている。

将来の展望が開かれ張り切っていた時生まれた千世姫は、祝福され、恵まれた環境ですくすく育っている。

 

玉子の育った状況とよく似ており、共通する価値観も感じる。

玉子より安定した恵まれた育ちの千世姫は、玉子の生きざまを波乱万丈で想像を絶する苦労をしたと思っていた。

その苦労を微塵も見せず、控えめな毅然とした美しさを失わない玉子を畏敬の眼差しで見る。

 

 前田家は織田家筆頭家老、柴田勝家の与力だった。光秀与力の細川家と同じ形だ。

信長が一時期司令官とした最重要武将が五人。

近畿方面軍、明智光秀。

北陸方面軍、柴田勝家。

関東方面軍、滝川一益。

中国方面軍、秀吉。

四国方面軍、織田信孝。

この中で光秀は、率いた畿内方面軍の戦いが終わり、立場が不安定となった。

次は、畿内の治世を任されるか、他の方面軍の司令官になるか支援に回るしかない。

 

四国方面軍、織田信孝・中国方面軍、秀吉の支援には回りたくなかった。

どちらも光秀自らが司令官となるべきだと考えた。

光秀は、平定のための侵攻策を考えており、自ら兵を率いて侵攻したかった。

だが、最も恐れ、拒否したい秀吉支援を命じられる。

意思疎通がうまくできない主君、信長との関係に絶望した。

ここから、義昭や朝廷など反信長勢力の熱心な働きかけに応えたいと考える。

その他いくつもの条件が重なり、信長を乗り越える決意をし、本能寺の変に続く。

 

だが、光秀は敗れ殺された。

細川家は主君筋だった明智家を裏切った。

前田家も同じく主君筋だった柴田勝家を裏切った。

そして秀吉に従うが、長年秀吉の同僚として信長に仕えた前田家と新参の細川家では、秀吉政権下での立場が大きく違った。

 

千世姫2歳の時、本能寺の変が起き、利家は忠誠を誓った主君、信長が殺される悲劇を目の当たりにし悲嘆にくれた。

その時、秀吉・ねねに望まれ養女に出した娘、豪姫を介して、秀吉から暖かい法外な申し出があり、心が動いた。

信長筆頭家老、柴田勝家の支配領を差し出すという申し出だ。

利家が勝家に成り代わるべきだという進言だった。

 

まもなく、秀吉対柴田勝家の戦いが始まる。

利家は、勝家を裏切り、秀吉に与し勝利に大貢献した。

次いで、秀吉が天下人の城、大坂城を築くと、直ぐに大坂城下に屋敷を築き移り住み、忠誠心を率先して表した。

信長の期待の大きかった利家の豹変ぶりが秀吉の価値を高め、他の織田家旧臣が次々秀吉に従い、忠誠を誓うようになる。

こうして、利家は秀吉の信頼を得て、出世の階段を昇っていく。

 

まつは、豪姫の生母として大坂城本丸によく遊びに出かけ、ねねと親しい関係だ。

ねねのそばに豪姫がおり、天下人夫妻の愛情を一身に受け、贅沢に育っていた。

天下人の娘だと自信を持つにふさわしい強さ・賢さ・美しさがあり、大坂城の華だった。前田家と豊臣家を取り持つ。

まつは、豊臣家の家族同然の扱いを受け、利家は秀吉の為に臣下として惜しみなく戦った。

 

千世姫は、秀吉が居城を移すのに合わせて、まつと共に大坂城下・聚楽第下・伏見城下の屋敷に移る。

まつには、難産の末に生まれた千世姫が一番愛おしい子だった。

常に側に置き、何くれとなく可愛がり自分の経験すべてを話し伝えた。

まつの生き様を理解できる賢い姫だった。

 

母に連れられて、秀吉・ねねの元を訪ねる時もあった。

6歳年上の姉、豪姫がねねの側でいつも待っていてくれて、大歓迎され楽しい時を過ごした。

こうして、人見知りすることなく、豪姫に似て、天真爛漫で、洗練された教養を備えた姫として秀吉の目に留まる。

秀吉は、好感を持ち、良き婿を探すと、楽しそうに話した。

 

 豪姫は、1588年、秀吉に目をかけられ養子となった岡山藩57万石藩主、宇喜多秀家と結婚した。

秀吉・ねねの実の娘のように盛大な結婚式を挙げた。

千世姫は、豪姫の暮らしぶりをうらやましく思っていたし、その華やかさ賢さが自慢だった。

ときには、呼ばれて訪ねることもあった。

 

大坂城下の宇喜多家屋敷は、細川家屋敷の隣だった。

堂々とした豪姫は、宇喜多家の女主として、細川家とも近しい付き合いをした。

千世姫も豪姫から、細川家のアレコレを聞くことがあった。

 その時は想像できなかったが、9年後、1597年、その細川屋敷に千世姫は嫁ぐ。

千世姫は、100万石に近い大大名前田家の正室の愛娘として嫁いだ。

 

千世姫は、細川家と前田家の力の差を教えられており、前田家の姫として誇りを持って嫁いだ。

豪姫ほどではないが、まつの心を込めた嫁入調度とともに、自尊心を高く持った。

細川家への遠慮はない。

前田家屋敷も宇喜多家屋敷も近くにあり、結婚により実家から離れる寂しさはなく、いつでも実家を訪ねられると心丈夫だった。

 

玉子は、無邪気で遠慮のない千世姫の態度に、嫁としてのつつましさ控えめな態度を望むところもあった。

それでも、自分もかってはこのようだったとほほえましく受け入れた。

月日は、玉子の燃える想いを温かく包み込んでいた。

細川家を受け継ぐ嫡男の嫁であり、娘のように接した。

 

時間と共に、心が通じ合うことも増え、自分の生きた道を語り、キリスト教への思いを話すようになる。

千世姫は賢く、玉子の一言一言を必死で理解しようとし、理解できた時の晴れやかな笑顔に玉子もにっこりと応える。

母を尊敬し嫡男としての研鑽を積んでいる忠隆と千世姫の仲が良いことは、細川家の将来にとって、とても大切なことだ。

自分のことは棚において、玉子は、夫婦円満の秘訣を話し、かけがえのない嫁だと愛おしく思う。

玉子と忠興は、激しい喧嘩することはなくなり、一見、よく出来た仲の良い関係だったが、緊張感はなくならない。

 

1598年には、嫡男、熊千代が生まれ、両家は共に祝福した。

玉子も、忠隆・千世姫の手を取り合って喜ぶ姿に涙した。

同じ年9月18日、天下人、秀吉が亡くなる。