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玉子の子たち、長姫・興(おき)秋(あき)・多羅姫|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(7)

だぶんやぶんこ


約 7132

玉子が亡くなると、麝香(じゃこう)(1544-1618)は、玉子の子たちの世話もする。

忠隆の勘当・興元の出奔・次いで興(おき)秋(あき)の逃亡と続き、その間、多羅姫が嫁ぎ、長姫が亡くなる。

麝香(じゃこう)は亡くなるまで、とても忙しい。

 

玉子初めての子、長女、長姫は、1579年、生まれる。

玉子16歳。ようやく結婚したと思える嬉しい出来事だった。

忠興の妻として、細川家に根を張った自信が生まれた。

麝香(じゃこう)も、同じ頃、子を生んでおり、お互いの子を抱き合って喜びを分かち合った。

すでに多くの子を生んでいる麝香(じゃこう)は、初産の玉子をいたわり、長姫を我が子のように可愛がった。

 

1594年、15歳で秀次の筆頭家老、前野長康の嫡男、景定に嫁いだ。

前野長康は、但馬国出石に11万石を得ており、忠興の領する丹後(京都府北部)12万石と隣接し、縁を結べば双方に価値があった。

それだけではなく、忠興は、秀次を秀吉後継だと念頭に置いており、前野景定との結婚を決めたのだ。

 

秀次が目指したのは、武家の棟梁でもあるが文人として政治を執る関白だった。

文化の保護・発展に力を尽くすことを好んだのだ。

細川家は、文人の家系としても名高く、秀次が好む家系だった。

秀次は千利休との茶会を度々催し、利休の高弟、忠興とも付き合った。その娘と筆頭家老の嫡男との結婚に大賛成だった。

 

以後、秀次と忠興は、より一層親しさを増す。

朝鮮の役が始まると、忠興は秀吉から12万石藩主には荷が重すぎる大役を命じられ次第に、資金が不足していく。

そんな時、秀次から資金を借り入れるようになっていく。

以後も、秀次は不足がちな細川家に資金を貸し出し、忠興は秀次を頼った。

 

だが、蜜月は短く、1595年、秀次謀反が発覚する。

前野景定は切腹。

長姫は、まだ16歳だったが、連座を問われ捕まえられようとした。

重臣、松井康之の働きで、危機一髪、長姫を保護した。

この時、玉子は、長姫とのつかの間の仲睦まじい母子の時間を持った。

だが、追っ手が来る危険があり味土野に匿うしかないと決め、密やかに出立する。

 

長姫を逃したことを確認すると、玉子は「長姫を秀吉様に絶対に渡すことがないように。渡すならその前に私を殺して」と忠興に激しく訴えた。

忠興も同じ思いだ。

秀吉への弁明を任された松井康之は、悪戦苦闘しながら秀次との無縁を証明し、連座はないと許される。

 

長姫は、夫の死、主君、秀次を巡る人々への粛清の嵐を知った。

玉子の励ましが支えだが、あまりの恐怖、無念、残酷さに我を失うほどだった。

味土野に落ち着くと、玉子から学んでいたキリスト教を信仰することで心の平穏を見出す。こうして、キリシタンとなり、出家する。

 

戻ってきた長姫をわが分身と抱きしめ「(忠興の)野望の犠牲になったのです。私の罪です」と謝る。

長姫は「運命だったのです。恨むことも悔やむこともありません」と素直に生き永らえたことに感謝し、静かに穏やかだった。

長姫は、玉子を尊敬しており、同じように生きたいと、洗礼を受けたのだ。

 

 ここで麝香(じゃこう)が共に暮らしたいと申し出る。「隠居の身ゆえ、秀吉様に気兼ねはありません。任せてください」と。

 忠興は、秀吉に近侍し、忠興の屋敷に長姫が住まうことを躊躇しており、助け舟を出したのだ。

 

玉子にはありがたい申し出だった。

長姫も、景定との間に男子が生まれており「この子を育てることが生きる喜びです。この子を育てるためにも、おばあさまの元に行かせてください」と母、玉子に元気よく別れを告げ、麝香(じゃこう)のもとに行く。

 

藤孝・麝香(じゃこう)は、京都吉田(京都市左京区南部)の細川屋敷を長姫のためにしつらえ提供する。

叔母(麝香(じゃこう)の子)伊也の吉田家屋敷の近くであり、縁者に囲まれ心強い。

関ケ原の戦いが始まっても長姫は、ずっと屋敷を動かなかった。

 

藤孝・麝香(じゃこう)は、国元におり、田辺城の戦いを始めた。

麝香(じゃこう)は、具足をつけて皆を叱咤激励し、西軍を引き留め時間稼ぎする大手柄だった。

武芸に習熟していた藤孝だが、66歳の高齢となり体力は落ちており、幸隆に支えられ戦った。藤孝の衰えを目の当たりにした麝香(じゃこう)が、勇気を奮い起こしたのだ。

 

長姫は、表に出ることを嫌い、屋敷を動かなかったが、母、玉子の壮絶な死を知り、玉子を母に持った幸せをかみしめ、冥福を祈る。

同時に、祖母の力強さを見て、勇気を得た。

長姫の子、半之助を細川家に仕えさせたいと、麝香(じゃこう)と藤孝に推してほしいと願う。

 

長姫は、忠興の出世に利用され見捨てられたと忠興を憎んでいた。

父とは思えない仕打ちで、慰めも謝罪もなかったと思ったが、わが子のためにできることはすべきだと決めたのだ。

秀吉の死で家康に従い、大藩を得て家臣を抱える余裕がでた忠興は、長姫の願いに快く応じた。

 

こうして、半之助は、前野家分家、小坂氏の名を名乗り1000石を得て細川家重臣として続く。縁者も召し抱えられ、細川家家臣となる。

忠興を許すことはできなかったが、家名の再興・夫の遺志も果たしたと、心安らかに、1603年、亡くなる。

 

母、玉子の宗教心を亡くなるまで受け継ぎ、秀次謀反の影を引きずったまま24歳の短い生涯を終えた。

玉子の分身であること、同じキリシタンであることを、生涯、忘れず誇った。

 

1583年、生まれた次男、興(おき)秋(あき)。

味土野での幽閉生活を支えてくれた宝だった。

玉子が苦しい時、笑顔で見つめた一番愛着のある子だ。

忠興は、味土野で生まれたこともあり、玉子が思うほどには喜ばなかった。

藤孝を引き継ぎ当主となり、すべきことが山積みで、可愛がるときがないまま、成長していく。

 

こうして、忠興は、後継ぎは一人で十分だと、簡単に興元(忠興の弟)の養子に出した。

玉子は絶句したが、忠興は言い出したら聞かない。

興(おき)秋(あき)を弟、興元の養子とし後を継がせると決めたのだ。

興(おき)秋(あき)は玉子のように、真面目で一途だった。兄のように思えた17歳年上の興元の子となったのを不思議に感じ、母から離れるのを渋った。

それでも、素直に、興元を養父とし受け入れ、子として尽くす。

 

興(おき)秋(あき)は、秀吉に仕え、気に入られ、秀頼の近習となる。

秀吉は、興(おき)秋(あき)と斉藤氏・明智氏に繫がる西美濃三人衆として高名な氏家直元(卜全)の孫姫との結婚を決めた。

父、氏家行継は秀吉の腹心であり、近江・伊勢国などに1万5千石を得ていた。

玉子も心安く付き合える良縁だと祝った。興(おき)秋(あき)も妻を慈しんだ。

 

関ヶ原の戦いでは、17歳の若さをぶつけ思い切り戦い功を上げる。

だが、母、玉子が死んでしまった。

妻の実家、氏家家は、西軍に属し改易だ。

兄、忠隆は廃嫡。

秀頼が、天下人から、一大名に成り下がった。

などなど、あまりに大きな出来事が起き、頭が混乱しどうにかなりそうだった。

 

受け入れられないほどの大きな事件が次々続いた。

まずはできることからと、興(おき)秋(あき)は、妻の実家を守りたいと父、忠興に頼む。

忠興は、氏家氏を3000石重臣として迎える。

忠興が快く応じたゆえ実現できたが、あまりに待遇は悪いと不満だった。

玉子の功で細川家が大藩になったことで実現できたのだと、父、忠興に恩は感じない。母、玉子の力を感じるだけだ。

 

そして、苦境に陥った秀頼に深く同情した。

幼い秀頼に仕え、弟のように成長を見守ってきた。

父に命じられ、石田三成を排除すると戦ったが、天下人、豊臣家が、なぜ一大名に成り下がったのか理解できない。

父、忠興に秀頼のもとに行きたいと願うが、一喝された。

 

まもなくの養父、興元の出奔。

母、玉子を死に追いやった父、忠興を許していなかったのだ。

そして、忠興から受けた数々の酷い仕打ちを許さず、時が来たと決別したのだ。

母、玉子と養父、興元そして、興(おき)秋(あき)は、キリシタンであり、同じ価値観を共有する連帯感があり、全てが理解できたわけではないが、納得できた。

 

興元は、興(おき)秋(あき)を後継として残し、細川家を去ってしまった。

養父、興元と父、忠興の緊張関係を幼い時から心配し、仲を取り持ちたいと、父、忠興に忠誠を尽くしたが、報われなかったのが、悔しく情けない。

父、忠興の命令で、興元を引き継ぎ小倉城代となり役目を果たす。

 母は、親しい者たちのために、細川家の安泰を願っていた。

玉子の願いは、守らなければならない。

 

兄、忠隆(長岡休無)が関ケ原の戦い後、忠興と衝突し勘当されたことも許せなかった。忠隆は申し分ない嫡男だった。

尊敬していた。

玉子が後継として育てた兄であり、死をかけて細川家を守った母を裏切ることになると忠興に何度も兄を許すよう求めた。

 

だが、1604年、忠興は弟、忠利を後継と決める。忠隆は、公に廃嫡された。

さらに、翌年、興(おき)秋(あき)18歳は忠利の代わりに江戸に行くよう命じられた。

幕府への人質となるのだ。

兄の廃嫡は認めたくないが、それでも廃嫡されるなら自分が代わりに後継になるべきだと考えていた。

 

3歳年下のまだ結婚していない弟、忠利の代わりに、結婚し将として戦っている興(おき)秋(あき)が人質に出されるのは、不名誉なことであり、この扱いは耐えられない。

次男として、忠興の次に位置する後継として、大切に見守り育ててくれた母、玉子や養父、興元に申し訳がない。

受け入れられない命令だと、江戸に行く途中、出奔する。

 

一足早く出奔した養父、興(おき)秋(あき)の家臣を、興元が引き継いだ。

そのため、側近には、麝香(じゃこう)との縁が深い。

守役は、麝香(じゃこう)の姉の子(甥)の子、築山兵庫・飯河宗祐。

近習は、宗祐の嫡男、長岡宗信だった。

彼らを通じて、麝香(じゃこう)・藤孝と、連絡を取り合っての出奔だ。

 

築山兵庫が側に従い、飯河宗祐・長岡宗信が国元に戻り忠興に事の仔細を報告した

激怒した忠興は、すぐに興(おき)秋(あき)を連れてくるよう命じる。

だが、興(おき)秋(あき)は動かない。

怒りの収まらない忠興は、1606年、興(おき)秋(あき)が命令に反したのは飯河宗祐・長岡宗信の責任だと自害させてしまう。

その時、宗信の妻も共に自害して果てた。

宗信の妻は、麝香(じゃこう)の姉の子(姪)が米田求政に嫁ぎ、生まれた米田是政の娘だ。

ここで、宗信の妻の弟、米田(こめだ)是(あき)季(すえ)も、忠興から離れ、興(おき)秋(あき)の元に行く。

 

興(おき)秋(あき)は、忠興の仕打ちを許せない。

守役も近習も同じ思いだった。

藤孝も麝香(じゃこう)も、忠利が後継になるのはやむを得ないと思いつつも、興(おき)秋(あき)にもっと配慮すべきだと考える。

麝香(じゃこう)は、興(おき)秋(あき)主従を小川屋敷に迎え入れ、興元と共に暮らせるようにした。

そして、忠興に興(おき)秋(あき)を渡さないとはっきり告げた。

忠興は、興(おき)秋(あき)への追及を諦めるしかなかった。

 

興元はまもなく、将軍家から独立させるとの申し出があり、江戸に向かう。

興(おき)秋(あき)は、父、忠興の惨い仕打ちを胸に秘め生きてきた。

養父、興元が去ると、小川屋敷に集まる豊臣恩顧の武将の面倒を引き継ぐ。

1610年、祖父、藤孝が亡くなると、思うままに、秀頼と連絡を取るようになる。そして、祖母、麝香(じゃこう)に、心の丈をすべて打ち明けた。

 玉子から得た信仰心が共通であり、麝香(じゃこう)は話がわかる祖母だった。

大きくうなづいた。

 

1614年、秀頼からの誘いに乗り、家臣を引き連れ、大坂城に入る。

義に生きるための戦いであり、勝てるとは思わず、妻と娘、鍋に別れを告げ麝香(じゃこう)に託した。こうして、大坂の陣で戦う。

 

大坂城が炎上すると、近習に守られ、細川家家老、松井氏の菩提寺、伏見の稲荷山東林院に匿われる。

近習は助命されると信じていたが、忠興は助命を許さず、切腹させた。

「これで良い。思い残すことはない」と興元は旅立った。

玉子と同じ宗教心を持ち続け、秀頼の来てくれたかとの心からの笑顔を見て戦えたことを誇りとし、悔いのない32歳の生涯を終えた。

 

忠興は、近習を許し、殉死を固く禁じた。

しばらく後、細川家に戻るよう命じた。

だが、側近、米田(こめだ)是(あき)季(すえ)は、蟄居先、近江(坂本西教寺)を動かなかった。

1623年、忠興の哀願で、細川家に戻る。

 

祖母、麝香(じゃこう)は、残された興元の妻と娘、鍋が細川家で相応に遇されるようするように忠興に頼んだ。

麝香(じゃこう)も年老い、側で見守りたかったが、命は長くないと、忠興に頼んだのだ。

その意を受け、忠興は、母子を引き取る。

 

忠利の代となった1626年、鍋と3000石重臣、南条元信の結婚を執り行う。

南条元信は、伯耆の有力国人、南条氏の生まれで、秀頼に仕え、加藤忠広に仕え、次いで忠興・忠利に仕えた。

豊臣家に縁があり、良い縁だと結婚となった。

 

鍋に伊千姫しか子は生まれなかった。

だが、伊千姫が生まれた頃は、続いて嫡男が生まれると確信し、望まれるままに伊千姫と米田是長の結婚を決め、嫁がせた。

米田家は、是季が、戻り、細川家2番家老となっており、その嫡男が是長だ。

二人の間に吟姫が生まれた。

そこで、吟姫を伊千姫の養女とし、忠利の4男、元知を娘婿養子として迎え、家名を受け継ぐことになる。

元知は、5千石で引き継ぐが、藩主に対し諫言、南條家は絶家となる。

興(おき)秋(あき)の家系に対し、藩主家は厳しく接した。

 

1588年生まれた次女、多羅姫。

玉子最後の子で、難産だったこともあり、生まれてきたことに感謝し大切に育てた。

多羅姫は、12歳で母を亡くした。

すると、まもなく、稲葉典通(のりみち)(1566-1626)が、忠興に嫡男、稲葉一通(1587-1641)と多羅姫の結婚を申し出た。

稲葉典通(のりみち)は、忠興に従い、東軍として、果敢に戦い、関ケ原の戦いの恩賞として、豊後臼杵5万石藩主となる。

小倉藩近くへの国替えであり、忠興と縁続きになりたいと願ったのだ。

 

一通は、斉藤氏・明智氏に繫がる西美濃三人衆として高名な稲葉家の嫡流、美濃八幡4万石藩主だった稲葉(いなば)貞通の嫡男、典通(のりみち)の嫡男だ。

信長に「文武兼備の将」と称えられた稲葉一鉄のひ孫になる。徳川家光の乳母、春日の局は一鉄の孫だ。

 

稲葉(いなば)典通(のりみち)は、秀吉に命じられ豊臣秀勝に属し朝鮮の役に参陣した。

総大将格の秀勝だったが、実質率いたのは忠興であり、共に戦った。

それ以来、親交を深める。

秀勝死後は、秀次に仕え、ここでも忠興と会う機会があった。

忠興の武将としての才に感動しており、共に行動することを喜んだ。

まもなく起きた秀次事件に連座し処罰を受けるが、忠興が家康に願い、家康のとりなしで許される。

 

関ヶ原の戦いでは、秀吉側近であったため西軍に属さざるを得なかったが、忠興と連絡を取りあい、途中で裏切り、東軍として果敢に戦い功を認められた。

そして、戦後、忠興と共に、嫡男、一通と多羅姫の結婚を家康に願ったのだ。

家康も稲葉(いなば)貞通・典通(のりみち)を豊臣家から引き離し、細川一門とすることは益があると結婚を認めた。

 

忠興は、玉子と縁がある稲葉家との縁組を、玉子はきっと喜ぶと、大賛成した。

玉子を追い込んだと自責の念がある忠興は、玉子が喜ぶことを何でもしたかった。

こうして、1602年、結婚する。

 

多羅姫は、取次の使者に母、玉子を尊敬しキリシタンであることを告げる。

布教することはないが自ら信仰することは認めて欲しいと。

稲葉氏は了解し多羅姫のために祈りの場、法音寺(大分県臼杵市)を建立し迎えた。

自分の思いに応えてくれた稲葉氏に感謝し、細川家と稲葉家をつなぐ役目を担うと、張り切って、結婚する。

夫婦仲良く、稲葉氏の安泰のために貢献する。

そして、キリスト教禁止令が厳しくなると稲葉家のために棄教し、法音寺を法華宗寺とし帰依する。

 

稲葉氏も細川氏も菩提寺は臨済宗。

多羅姫を迎えた喜びと重んじる思いから法音寺を建立したが、キリスト教に特別な関心はない。

多羅姫も、玉子の宗教心を受け継ぎ、静かに祈るだけだった。

それでも、玉子を見殺しにした忠興を許すことはできなかった。

そのため、戻る家はないとの覚悟で嫁いだ。

 

一通も、大きく飛躍する細川家のそして高名な玉子の姫を迎え、興奮し、これ以上の妻はいないと、とても慈しんだ。

棄教した多羅姫は、1615年、亡くなる。

嫡男、信通を残し、細川家との縁を固く結び、稲葉家に多くの福をもたらし、短い27歳の命を終える。

 

稲葉(いなば)典通(のりみち)は、稲葉家嫡流になる。

春日局の実家は、稲葉家の分家で、典通(のりみち)は、春日局のいとこになる。

この縁でも、多羅姫との結婚を望んだ。玉子と春日局の縁は強い。

 

 長姫・興秋・多羅姫は、忠興を嫌い、玉子の子として生きた。