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沼田(ぬまた)麝香(じゃこう)の子たち|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(6)

だぶんやぶんこ


約 11267

義母、麝香(じゃこう)は、藤孝の伴侶として細川家で確固たる地位を占めるが、多くの子を生み、育てた功績も大きい。

そして嫡男、忠興が結婚すると、嫁、玉子の母ともなり、実の母娘のように仲の良い関係になる。

だが、光秀の死、幽閉と続き、母娘の絆は絶たれた。

 

 藤孝は、光秀を裏切った時、忠興に家督を譲り、田辺城に隠居し、文人として生きることに徹そうとした。

和歌・連歌・太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠(まり)等々、旺盛な探究心で、その道の大家となり、学びを乞う人、誰にでも嬉々として教える。

 

藤孝が丹後を得た時、丹後統治の細川家居城を田辺城とした。

細川家一門家臣が入城した。

まもなく、宮津城を築城し、本拠とする。

本能寺の変が起きるまで、主たる居城、宮津城で、玉子と麝香(じゃこう)は、仲良く過ごした。

二人にとって、素晴らしい時間だった。

 

 そして、隠居城を田辺城とし、麝香(じゃこう)と藤孝は移る。

家督を譲られた忠興が、宮津城を居城とした。

それでも、麝香(じゃこう)と藤孝は、宮津城・京屋敷などあちこちの屋敷を動く。

 

2年間の悪夢の後、玉子は大坂玉造屋敷に戻り、住む。

麝香(じゃこう)は、玉子と会う機会は減ってしまい、とても寂しい時を過ごした。

それでも、玉子が玉造屋敷に落ち着くと、麝香(じゃこう)は、時折、玉子を訪ねる。

文での付き合いも多かった。

こうして、16年間の月日を重ねると、玉子の心の動きが手にとるようにわかり、かっての関係には戻れないが、少し距離を起きつつも、玉子の稀有な気高さにますます魅せられ、玉子が生かされるよう祈り、配慮した。

 

予期していたが、玉子は亡くなった。

その死を重く受け止め、ガラシャ玉子を我が身に取り込み、これからを共に生きたいと、自ら洗礼を受けて細川マリアとなる。

嫁・姑を超え結ばれた絆を胸に、ガラシャ玉子の想いに沿って生きると決めたのだ。

 

田辺城の戦いで神経をすり減らし、めっきり風流を好むだけの老人となった66歳の藤孝に代わって、家政を仕切るようになる。

もともと意志の強い女傑であり、助けを求める人たちのために、働くのは、気にならず、喜びだ。

以後、時には、忠興と向き合い、前面に立って働く。

 

麝香(じゃこう)は9人の子を生み、8人の子が元気に育っており、細川家の女主として申し分なかった。

実家は、誇るほどの家柄でもなく、滅亡してしまったが、内心の葛藤を見せることなく、堂々として、穏やかに、細川家の奥を守った。

藤孝と共に、忠興を置き去りにしたことを一生悔いたが。

 

結婚後まもなく1563年、生まれた、忠興。

麝香(じゃこう)は、忠興を嫡男として生んだつもりだった。

だが、将軍、義輝は、細川一門、奥州家への養子入りを命じた。

将軍、義輝は、藤孝を信用せず、脅威に感じていからだ。

権力の集中を避けるつもりなのか、将軍の真意はわからないが、恐ろしく思う。

藤孝は、逆らうことはなく、命令に従うが、忠興を手元に置いたままで、渡さず、形式上の養子とした。

 

まもなく、1565年、義輝は殺された。

麝香(じゃこう)の姉婿や親しい者が共に亡くなった。大きな痛手を受けた事件だった。

将軍家は激動の時となり、忠興の養子入りは形だけで終わった。 

 

同時に、藤孝と麝香(じゃこう)の命も危うく、京から逃げなくてはならなくなる。

義昭を将軍にする遺命を実現するためでもある。

ここで、幼い忠興は連れてはいけないと、やむなく、乳母に預けた。

忠興は、養子入りはなかったが、1565年、2歳から1568年、5歳まで父母に見捨てられた潜伏生活を送ることになった。

義昭が将軍となった1568年、ようやく、興元を抱く父母に対面し、共に暮らす。以後、両親に見守られ、忠興は、嫡男にふさわしく育つ。

 

こうして、武勇に優れ武将としての器は大きく、先を見る目がある策士となる。

大大名にふさわしい智謀をあふれさせながら成長する。

同時に、好き嫌いがはっきりした激しい性格。思いを遂げるためには何でもする短気さも目立ってくる。

 

幼い頃の寂しい思い出、乳母との潜伏暮らしを忘れることはなく、捨て置かれたと思い込み、父母を恨んだからでもある。

室町幕府将軍が追われ、信長政権が京を支配し、全国に号令していく。

そんなとき、忠興は信長に仕え始める。

信長は、その性格気性を気に入り、小姓に抜擢する。

 

1566年、次男、興元(1566-1619)が生まれる。

京を逃れ義昭が落ち着いた近江矢島御所近くの住まいに、藤孝と麝香(じゃこう)が入った時だ。

まだ義昭は将軍になれず、不安定な住まいだったが、藤孝は、麝香(じゃこう)がそばにいることを望み、興元が誕生した。

藤孝は喜んだ。

 

生まれて2年、状況は大きく変わり、義昭は将軍となった。

麝香(じゃこう)も、和泉上守護家(細川刑部家)小川屋敷を取り戻し、落ち着くことが出来た。

ここで、忠興5歳と興元2歳が初めて兄弟として顔を合わせ、共に暮らす。

だが、仲が悪く、麝香(じゃこう)の心配のタネになる。

忠興は、興元をいじめることもあるほどだ。興元も兄に負けじと意地を張り、競争心が盛んだ。

 

忠興は、両親・弟、興元と再会したときの印象は、最悪でうなだれた。

自分の惨めだった暮らしに比べ、ニコニコといかにも幸せそうな2歳の興元が憎かった。あの顔を忘れられない。

「父母は、興元を好いている。自分はいらない子だ」と強烈に感じた。ここから親子の溝が生まれる。

余りに感受性が強く、鋭い一瞬の感覚を持ち続ける執念深さがあった。

 

忠興は、奥州家への養子入りを前将軍、義輝によって決められた。

だが、父母の意思だと思っていた。

まもなく1565年、義輝は殺され、命令はそのままとなり、忠興は細川家で育った。

そして、義輝の弟、義昭が将軍となる。

義昭は信長と敵対し、1573年京から追放され、備後国の鞆に移る。

 

このとき、奥州家当主、細川輝経は、義昭に従い鞆に行く。

だが、鞆で得る収入は少なく、義昭の側近として勢力も持てず、毛利家らに頼る身では、活躍の場がなかった。

義昭に仕え続けることを諦め、1576年、養子、忠興とその父、藤孝を頼るのではなく、妻の弟、細川家筆頭家老、松井康之を頼った。

松井康之は、忠興の養父、細川輝経を、客将として300石で迎えた。

 

藤孝はすべてわかっていたが、反信長と見なされる細川輝経を一門ではあるが、家臣とみなしたのだ。

忠興は、藤孝の扱いを許せない。

形式的には忠興の養父である奥州家当主に対しての扱いではないと思う。

忠興自体を軽く扱われたとのだと腹立たしい。

 

次いで、信長に仕え、1577年、忠興14歳、興元11歳で初陣し、二人揃って手柄を立てる。

興元は、3歳の年の差を跳ね返し、兄に並んで、武将として秀でた力を見せる。

二人揃って信長から褒められた。

以後も、二人揃って信長に従い戦い、将としての力を発揮する。

忠興は、面白くなかった。

信長に嫡男として認められ、細川家を率いる気概に燃えており、心は静かだったが。

興元とはもっと差があるべきだと思う。

 

1578年、忠興と玉子が結婚する。

翌1579年、藤孝は、信長から丹後半国を得る。

ここで、藤孝も麝香(じゃこう)は、嫡男、忠興の立場を考え、興元を家老とし、忠興を支える重臣とすると決めた。

 

麝香(じゃこう)は、沼田家後継、兄、清延一家を細川家に迎え入れていた。

沼田一族も順次家中に迎え、家臣団を形成していく。

そんな中で、光秀に迎えられ、光秀の側近となっていた姉婿、進士氏や弟、沼田光友ら一族も、時には訪れる。

甥、進士貞連や弟、沼田光友は、玉子の結婚で細川家と明智家がより親密な関係となったこともあり、よく出入りしていた。

 

一族が麝香(じゃこう)の周りに集まるようになり、沼田家が散り散りになって以来、行く末に関わりようやく再興出来たとホッとして、笑顔で彼らを迎えた。

そして、細川家との縁をもっと深めたいと考える。

清延の娘、いとに、幼い中にも光る美貌と才知に目を留めていた。

 

つかの間の楽しく充実した暮らしだったが、1582年、本能寺の変が起きる。

沼田光友は、光秀が動くとき、味方をするよう頼みに再々藤孝を訪ねてきた。

光秀の秘めた思いも話していた。

麝香(じゃこう)も詳細は知らないが、雰囲気は感じていた。

こうして、光秀が大願成就すると、報告のために、喜び勇んで来た。

ところが、忠興・藤孝は味方することを拒否した。

 

光友は、驚き、懇願したが、相手にされず冷たく追い返された。

麝香(じゃこう)は、一部始終を見つめ、沈黙した。

光秀は大志を掲げたが貫くことなく殺された。

それを知った麝香(じゃこう)は、光友一家と進士貞連一家などを、匿った。

藤孝がそっと迎え入れてくれた。

 

 続いて、藤孝・忠興は、光秀に与した一色氏を滅ぼし、領地としてしまう。

既成事実とした上で、秀吉に願い、認められ、細川家は、丹後11万石藩主となる。

そこで、興元に、丹波郡、竹野郡網野庄、和田野など1万5千石を与え、吉原山城を居城とし、細川家一門家老として独立させた。

麝香(じゃこう)は、興元が16歳で、居城を持つのは早いと思う。

だが、忠興は、玉子や子と共に入る本拠、宮津城に、興元を住まわせたくなかった。

忠興の意思でもあった。

 

 その後、迎え入れた光友は、細川家家臣とはならず、米田是政付きとなる。

麝香(じゃこう)の姉の子(姪)が、細川家重臣、米田求政に嫁ぎ、生まれたのが、米田是政。

その米田是政の守役とされたのだ。

麝香(じゃこう)は、細川家家臣として重用してほしかったが、米田家家臣となった。

決して望んだ役目ではなかった。

 

秀吉の天下となると、光秀亡き後の沼田家の復権を考える。

藤孝は隠居し、忠興が藩主だ。

それでも藤孝は秀吉に高く評価され、京にも隠居料を得て、一定の力を持っている。だが、いつまで続くかわからない、藤孝・麝香(じゃこう)亡き後も考えなければならない。

 

そこで、興元にふさわしい相手として、藤孝に仕えている、兄、沼田清延の娘、いとを推す。

いとは、麝香(じゃこう)の兄であり、嫡男だった沼田光長の娘だ。

光長亡き後、清延が引き取り育てていた。

沼田家嫡流の娘であり、麝香(じゃこう)が細やかな心遣いで教育を付け、申し分のない娘に育っていた。

 

麝香(じゃこう)が、身を正して、藤孝に思いを伝える。

藤孝は、一瞬考えるが、麝香(じゃこう)の支えで、信長重臣の一角を占める道を進み、光秀亡き後、秀吉にも重用されている。

感謝の気持もあり、いとこ同士の結婚であり、問題ないと、笑顔で賛成した。

嫡男と次男、違いをはっきりさせることが、忠興の望みだった。

嫡男、忠興は、細川家を継ぎ当主だ。忠興も大賛成だった。

 

麝香(じゃこう)は、藤孝と忠興の光秀・光友への仕打ちを酷いと涙した。

麝香(じゃこう)も、玉子と同じ思いをしていた。

興元も同じだった。

興元は、麝香(じゃこう)の弟、沼田光友・妹婿、進士貞連に教えられることが多く好きだった。

光秀に対しても、尊敬の念を持っていた。

彼らを見殺しにした藤孝・忠興への精一杯の抵抗でもあり、喜んで結婚を承知した。

 

麝香(じゃこう)は、忠興・興元の結婚式を無事執り行い、沼田家も安泰だとホッとする。

兄、清延は細川家一門となり、重臣の地位を確保した。

弟、光友は、忠興の直臣、細川家家臣となる。

 

沼田家が、末永く細川家一門として続くよう願う夢が実現したのだ。

今は、麝香(じゃこう)の存在があり、兄や姉婿らが重用されているが、細川家との縁は薄い。

麝香(じゃこう)亡き後の沼田家一門の将来に不安があったが、いとと次男の結婚で、細川家一門、沼田家の存在は揺るぎなくなった。感無量だ。

 

秀吉の天下となり、忠興も興元も秀吉に従い、戦い続け、重用される。

猛将として高名になる興元は、豊臣家重臣や高山右近らと親しく付き合った。

父、藤孝の資質も受け継ぎ、文人としての才もあり、交友関係は広い。

 

忠興は、潔癖症で、いつまでも、興元の武将としての才を恐れた。

そこで、1594年、次男、興(おき)秋(あき)を養子に入れる。

興元を父母の愛を独占するライバルだと、内心嫉妬し続けた。

わが子を養子入りさせることで配下に置こうとしたのだ。

興元は、28歳で、興秋11歳を養子として迎える。

興元に子がないとの理由だった。

 

麝香(じゃこう)の姪、いとと結婚し10年近くたち、なかなか子に恵まれなかったが、まだまだ、子が生まれる可能性は大きい。

興元は煮えくり返る思いだったが、細川家を思い我慢した。

玉子と麝香(じゃこう)・いと・興元は、本能寺の変以来、口には出さないが、心では強く結びついた。

そして玉子の信仰するキリスト教に理解を示し、自らも洗礼を受けるまでになった。

忠興の強引さに反発し、皆、キリシタンになったのでもある。

 

一見、忠興・興元は何事もなく時を経て、関ケ原の戦いを迎えた。

思う存分戦い、将としての力を見せつけ、東軍勝利に貢献した。

だが、興元は、忠興に忠誠を尽くしたが、報われないし、今後の改善も見込めない、と決断した。

玉子を見殺しにしたことや忠隆の廃嫡を許せなかったし、数々の思い出したくない出来事があった。

すべてを精算して新しい世界に踏み出したかった。

 

関ヶ原の戦い後の1602年初め、興元は、出奔した。

長年積み重なった忠興への不信があり、隣国のキリシタンである黒田長政の支援を受け、大坂に向かう。

玉子のようにキリシタンとして生涯を送る決意をしており、キリスト教に寛容な堺の法華宗妙国寺で出家した。

いとは、叔母であり義母でもある麝香(じゃこう)の元に行き、興元を受け入れるよう願う。

 

藤孝・麝香は、隠居屋敷として京都三条車屋町に屋敷を建て住んでいた。

そこで、京都一条戻橋近くの広大な細川家小川屋敷をいと・興元主従のために、改装し、引き渡す。

藤孝が育ち結婚し、忠興が生まれ、養父、細川元常から引き継いだ和泉半国守護細川家の屋敷だ。

藤孝は、興元を後継者と見なした。忠興の納得するところではないが。

 

藤孝は70歳近くなり、もう老人だった。

大好きな興元が側に住まうことを喜んだ。

こうして僧となった文人として興元は、父、藤孝の教えを受けたり、支えながら、静かに充実した親子の時を持つ。

藤孝は、文人としての才だけは冴えており、今まで学んだことを書物に残そうと忙しくしており、興元がそばにいると、すべてがはかどり、上機嫌だった。

 

麝香(じゃこう)は、その様子を喜び、いとと穏やかで充実した時を持つ。

いとと興元に落ち着いた時間が戻る。

すると、予期していなかった子が授かる。

麝香(じゃこう)・藤孝に見守られ、小川屋敷で、いとは、まもなく娘を産み、続いて1604年、興昌を生む。

だが、いとは産後が悪く亡くなった。

幸せでしたと、皆に感謝しながら、39歳の生涯を閉じる。

 

小川屋敷には、関ケ原の戦いで西軍に与したと見なされ、改易となり、浪人となった武将が集まっていた。

キリシタンが多かったこともあり、興元はよく面倒を見た。

玉子の人脈も引き継いだことになる。

中で、立花宗茂(1567—1643)とは年も近く、盟友とも言える仲で、是非にと呼び、たびたび、会った。

立花宗茂は、筑後国柳川13万2000石藩主だったが、西軍と見なされ改易だ。

関ヶ原の戦いには参加しておらず、すぐに謹慎しており、鍋島勢に攻め込まれやむなく防戦しただけと、伏見にいる家康に訴えた。

興元も藤孝も、武将として際立つ才を持つ宗茂を野に置くのはあまりにも惜しいと、再興を支援する。

 

こうして、家康もその間の事情をよくわかっており、1604年、幕府に仕えることが決まり、宗茂主従は、江戸に向かうことになる。

このとき、立花宗茂は、妹、嘉也を麝香(じゃこう)に預ける。嘉也は先夫と死に別れ、出家しようとしていた。

 興昌が生まれ、いとが亡くなった時だ。

ここで、麝香(じゃこう)は、興元との再婚を願い、宗茂も嘉也も受け入れた。

こうして、嘉也は、宗茂養女として再婚する。

 

藤孝は、老いて、命はわずかと思うようになる。

忠興と興元を仲直りさせること、後継が生まれた興元を武将として独り立ちさせることが、自分の責任だと考える。

そこで、家康に仲介を頼む。

家康は、1608年春、駿府に二人を招き、仲介し、和解させる。

 

生前、藤孝は秀忠に興元の将来を頼み、了解を得ていた、

1610年、藤孝は亡くなると、関ヶ原での勇猛果敢な戦いを褒め、下野芳賀郡茂木1万石を興元に与えた。

1614年、大坂の陣でも活躍し、常陸筑波郡・河内郡6,200石を加増され、拠点を茂木から谷田部へと移し谷田部藩(茨城県つくば市谷田部)を立藩する。

 

興元は、小藩でも、藩主として領民の慕われる藩政を行い、名君となる。

文人としての才を活かし、諸大名との付き合いも欠かさず、1619年5月、嘉也や興昌に見守られながら、江戸屋敷で亡くなる。

 

忠興は、興元の死を知り、一つの時代は終わった。

小倉藩主として、弟に負けない名君になると決意を新たにする。

武将としての才知もあり父母に可愛がられている興元に嫉妬し、冷たくしたことが恥ずかしい。

兄の仕打ちに我慢できず、死ぬまで許すことはなかった、興元だが、細川家第一にを守り、波風立てることなく、静かに亡くなった。

 

麝香(じゃこう)は興元に申し訳ない思いでいっぱいだ。

忠興の親への憎しみの矛先が興元に向かい、冷たい仕打ちを受けたのだから。

それでも、藤孝との充実した時間を過ごし、妻子に恵まれ藩主としての責務を全うし、少しは罪滅ぼしができた。

 

1568年、小川屋敷で、興元に続いて、長女、伊也が生まれる。

代々続く和泉上守護家(細川刑部家)の屋敷で、落ち着いて子を生むのは幸せだ。

初めての姫であり、嬉しかった。

まだまだ戦いは続き、安心できないが、この屋敷は守り続けられる気がした。

 

その後の細川家は、光秀とともにあることもあり順調だった。

1579年、11歳で、一色義定との結婚が決まり、1580年嫁ぐ。

一色氏との和議を急ぐよう信長に命じられ、ドタバタで決められた政略結婚だ。

麝香(じゃこう)は、童顔のあどけない伊也の顔を見つめ「もう離れてしまうのですね」涙が出た。

それでも武将の家に生まれた娘だ、和議のために役立つなら喜んで嫁がせなくてはならないと、急いで嫁入り調度を整え送り出す。

 

丹後一色氏を受け継ぐ、一色義定(義有)は、足利氏の一門。

三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本拠とし、一色氏を名乗った。

若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲し、幕政を動かす力を持った。

 内紛があり、勢力を弱めたが、丹後守護として一定の力を持ち続けた。

だが、織田勢の光秀・藤孝によって滅亡することになる。

 

 一色氏を配下に置くための和議で決められた結婚だ。

信長は、伊也のために、領地の半分、丹後半国を一色氏に安堵し家名を守る、大判振る舞いの緩やかな和議とした。

伊也は、役目を果たし、一色家を守ったと大喜びだった。

麝香(じゃこう)も娘の命が保証され、大切に扱われると心から喜んだ。

 

ところが、2年後、本能寺の変が起き、一色義定は光秀に与したのだ。

伊也は、細川家も光秀に加勢すると信じていたが違った。

光秀死後、一色氏は、藤孝に降伏したが、忠興は、謀略を用い一色義定を宮津城に呼び、謀殺してしまう。

同時に、一色氏、居城、弓木城を襲い、伊也を救出し、城を奪い、一色氏を滅ぼす。

 

伊也は14歳。麝香(じゃこう)のもとに戻ってきた。

細川家への憎しみが溢れていた。

麝香(じゃこう)も、藤孝・忠興の光秀への裏切りに心痛めていた。

玉子の憎しみは、抑えようがないほどだ。

 

こうして3人の思いは同じとなるが、麝香(じゃこう)は細川家の女主だ、細川家を守ることを第一に、伊也の思いを受け止めるしか出来ない。

光秀亡き後のゴタゴタの中で、一色氏の領地を得て、細川家は飛躍する。

そして、忠興が家督を継ぎ、麝香(じゃこう)は細川家の女主の座を玉子に譲った。

玉子が幽閉先から戻るまでは、中継ぎだと、役目を果たしたが。

必ず、玉子は戻って来るし、戻さなければならないと決意していた。

 

伊也の怒りが収まらないうち、吉田兼治17歳との再婚が決まる。

藤孝の母、智慶院の甥、吉田兼見の嫡男だ。

吉田兼見は、光秀に賛同し、動いており、伊也も納得する結婚だ。

吉田神道の継承者で秀吉の信頼が厚く、光秀との親交も厚かったが、類は及ばない。

 

 再婚で、伊也は幸せになると、麝香(じゃこう)は、戦国の世の不条理を諭した。

伊也は「こんなにも早く、追い出したいのですか」と母、麝香(じゃこう)に嫁ぎたくないと訴えたが、光秀との痕跡を消したい藤孝は、1583年、嫁がせた。

吉田兼見は、玉子が親しくし、味土野に呼んだ清原マリアのまたいとこ(祖父同士が兄弟)になる。

 

伊也は、実家に戻ったとき、妊娠しており、実家で、幸能(五郎)を生む。

一色義有(義定)との間に生まれた幸能(五郎)を、再婚先には連れて行かない。

麝香(じゃこう)が、責任もって育てると約束した。

藤孝は、細川家の子として、幸能(五郎)を福寿院に入れ、僧とすると決めた。

隠居城、田辺城で、福寿院から戻った幸隆と共に、育てる。

 

伊也は、再婚のとき、15歳。

兼治との仲は睦まじく、次々子が生まれる。

長男、萩原兼(はぎわらかね)従(より)(1588-1660)。

秀吉の妻、ねねが高く評価し、姪婿とし、豊国神社を任す。

 

長女、たま。

玉子に殉死した小笠原秀清の嫡男、小笠原長元に嫁ぐ。

 

吉田家を引き継ぐ嫡男、吉田兼英(1595-1671)。

 

次女、が生まれ、公家、阿野(あの)実(さね)顕(あき)(1581-1645)に嫁ぐ。

藤孝に教えを受けた歌人でもある。

 

3女が生まれ、公家、船橋秀相(1600-1647)に嫁ぐ。

藤孝の母方のいとこの子、清原国賢の孫になるのが舟橋秀相。

 

4女、徳雲院。長束助信に嫁ぐ。

長束助信(1589-)は、豊臣政権5奉行の一人、長束正家(1562-1600)の長男。

長束正家は豊臣政権の財政を差配しており、潤沢な資金を持っていた。

だが、西軍と見なされ殺される。助信は、細川家に助けられる。

 

3男、幸賢。福寿院住職となる。

伊也の連れ子、幸能(五郎)が、福寿院住職となると、幸賢を、福寿院に入れた。

幸能が、異父弟、幸賢の面倒を見て、25歳の若さで亡くなると、幸賢が、住職となり引き継ぐ。

 

麝香(じゃこう)の3男、幸隆(1571-1607)は、1571年、生まれる。

すでに二人の兄がおり、僧となることが決まる。

京の愛宕山(京都市右京区)愛宕神社下坊、福寿院で得度し妙庵と名乗る。

1582年4月のことだ。

本能寺の変の直前であり、藤孝はよく訪れており、光秀との密会の場となったと疑われても仕方がない時だ。

それぞれの使者が行き来した。

幸隆の得度は、光秀との関係を隠すために使われた。

そのため、本能寺の変の後処理が終わった1583年、還俗させた。

藤孝は、光秀との縁を疑われないよう、愛宕神社と距離をおいたのだ。

それでも、篤く庇護し、その後、幸能(五郎)から幸賢と入寺させ、福寿院住職を受け継いでいく。

 

隠居し田辺城に入った藤孝は、幸隆を側に置き、文人としての資質を一番受け継いでいると喜び、教えていく。

最も、藤孝に気に入られた子だった。

忠興、興元も大切な子だったが、武将としての資質がより秀でており、文人として過ごす時が、一番心地よい藤孝とは少し違った。

 

そこで、藤孝は、受け継いだ、和泉上守護家の家督を幸隆に譲り渡す。

小川屋敷を引き渡した。

だが、忠興は、興元が出奔すると、すぐに、中津城に移るよう命じる。

藤孝は、文人として生かしたいと頼むが、忠興は応じない。

幸隆は、藤孝と引き離され、中津城に入る。

次いで、1603年、竜王城(大分県宇佐市安心院町)1万石を得る。

やむなく、藩主として在城して治める。

この地に馴染めないまま、4年後、1607年、亡くなる。

忠興の5男、興孝が後継となる。

 

麝香(じゃこう)の次女、栗姫(-1596)。藤孝の弟、長岡好重(1561-1617)と結婚。

長岡好重は、藤孝の実家、三淵氏を受け継いだ。

生まれた嫡男、重政が松井康之の孫娘と結婚し、引き継ぎ、3千石重臣として続く。

 

麝香(じゃこう)の3女、加賀姫(-1615)。

秀吉の妻、ねねが取り持ち、可愛がった甥、木下延俊(1577-1642)と結婚。

忠興には、気の合う兄弟が少なかった。

その中で、加賀姫とは気が合い、可愛がり、夫、延俊を実の弟のように面倒を見た。

 

関ヶ原の戦いが始まると、姫路城にいた延俊に、細やかな指示を出した。

延俊も、以前から聞かされていたことであり、すぐに従い、家康に使者を送り、家康に従うことを表明し、姫路城を献上する旨伝える。

こうして忠興とともに戦い、戦後恩賞として豊後日出藩3万石、初代藩主となる。

 

麝香(じゃこう)の4女、千姫(1579-1627)は、1579年生まれ。

一門家臣、長岡孝以に嫁ぐ。

長岡孝以は、丹後に配流となった、藤孝の和歌・和学の高弟、公家、中院通(なかのいんみち)勝(かつ)と藤孝養女との間に生まれた。

孝以は、一男、孝方を残して20歳の若さで亡くなる。

 

まもなく、小笠原長良と再婚する。

再婚だったこともあり、玉子とともに死んだ小笠原秀清の次男だ。

嫡男、長元が6000石家老家として続いた。

長良は600石。キリシタンだったが忠興の命令に従い、棄教した。

3男、長定は、棄教せず、妻子とともに処刑。

 

1585年生まれの4男、細川孝之(1585-1647)。

1601年、忠興から豊前(ぶぜん)香春(かわら)(福岡県田川郡香春(かわら)町)2万5千石を得る。

香春(かわら)岳のふもと鬼ヶ城に入る。

忠興後継、忠利より、1歳年上だけのほぼ同じ生まれで、競い合った。

忠利とは意見が合わないことが多かった。

 

曲直瀬道三の孫にあたる半井光直(半井通仙)の娘と結婚。医家の最高峰だ。

娘、小万(1606-1636)は小笠原民部長之に嫁ぐ。

小笠原秀清の嫡男、長元の嫡男だ。

 

キリスト教を棄教せず、忠利との軋轢は続き、忠興が仲裁するもうまく行かず、1623年、出奔剃髪、休斎と名乗る。

大徳寺、塔頭、高桐院内に、泰勝庵を建立し、藤孝を弔い、忠興の死後、まもなく亡くなる。

 

麝香(じゃこう)は、子たちの行く末にも気を配ったが、それぞれ波乱万丈の生き方をせざるを得なかった。

忠興の弟、興元、幸隆、孝之、3人共、忠興・忠利を嫌った。

玉子と同じ信仰心を持ち続けたことが大きい。

皆、藤孝・麝香(じゃこう)を慕った。 

 

加賀姫を除いて、伊也、栗姫、千姫も忠興と相容れないところがあった。

麝香(じゃこう)の教えを守り、細川家結束に尽くしたが、満足の行く待遇ではなかった。