玉子を受け継ぐ麝香(じゃこう)|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(5)
だぶんやぶんこ
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玉子が亡くなると、京に在住する義母、麝香(じゃこう)が、玉子の意思を引き継ぎ、大活躍することになる。
1562年、藤孝と結婚した麝香(じゃこう)。
最初の試練は、1569年、居城を奪われ散り散りになった実家、沼田家の再興に力を発揮することだった。
兄弟姉妹は、ほとんどが独立していたが、沼田家離散の影響は大きく、招くことができる身内は招き、甥・姪を見守った。
荒川治部少輔晴宣に嫁いだ姉。荒川氏は、足利将軍家一族だ。
荒川治部少輔晴宣は、1565年、将軍義輝とともに討死。
以来、麝香(じゃこう)は、姉を引き取っている。
飯河信賢に嫁いだ姉。
飯河信賢は、藤孝の母方、清原氏の一門になる。
1565年、将軍義輝とともに討死。
麝香(じゃこう)は、姉の子、飯河宗祐を招き、細川家重臣としたが、飯河宗祐・嫡男、宗信は、1606年、忠興により誅殺される。
長兄、光長。
将軍、義輝とともに1565年亡くなる。
遺児は娘、自徳院といと。自徳院は、長じて、松井康之と結婚。
光長に代わるのが兄、清延。沼田家を引き継ぐ。
麝香(じゃこう)が招き、藤孝に仕える。
光長の娘、いとを養女とし、麝香(じゃこう)の次男、興元との結婚を実現する。
ここから沼田家は、より強く細川家一門となる。
山形刑部少輔源秀之に嫁いだ姉。
山形秀之は、若狭衆であり近隣の前川城主。共に、幕府将軍に仕えた。
生まれた子、雲岳霊圭は、藤孝の寄進を受けて南禅寺天授庵を復興し住職となった。
北畠左衛門佐教正に嫁いだ姉。北畠家は公家大名。
麝香(じゃこう)は、姪になる姉の娘を引き取り、重臣、米田求政に嫁がせた。生まれた是政(1558-1600)が生まれ、米田家は、紆余曲折があるも、細川家2番家老で続く。
明智老臣進士美作守国秀に嫁いだ姉。光秀の重臣だった。
甥、進士作左衛門貞連を本能寺の変後、召し抱え、玉子の嫡男、忠隆付きとする。
弟、直次(権之助)光友。
光秀重臣だったが光秀亡き後、呼び寄せ米田是政付きとし、後、細川家家臣とする。
築山弥十郎貞俊に嫁いだ姉。
築山家は、将軍に仕えた家柄。細川家の同僚であり、通婚も続いていた。
そこで、藤孝の母、智慶院が身ごもると、付けられた。
以後、細川家家臣となる。
このように、麝香(じゃこう)は、実家の弟妹・甥姪の行く末に大きな力を発揮し、細川家に取り込んだ。
玉子の死後、キリスト教徒の結びつきや、豊臣家との距離で、忠興との葛藤が始まる身内・家臣が多く出てくる。
ここで、麝香(じゃこう)は、玉子に成り代わり、彼らを守ることになる。
懸命に頼ってくる身近な人々を助け続けたが、藤孝亡き後、幕府は、京から引き離したいと江戸への人質となることを求め、麝香(じゃこう)は江戸に行かざるを得なくなる。
それでも、1618年、亡くなるまで、出来得る限り身内の支えとなり、沼田一族が、細川家重臣として続くよう、踏ん張った。
麝香(じゃこう)が、実家、沼田家を支えられたのは、藤孝と結婚した故だった。
麝香(じゃこう)と藤孝の関係は。
藤孝の実の父は将軍、足利義晴。
母は、義晴の結婚前、一時期愛された公家、清原宣(きよはらのぶ)賢(たか)の娘、智慶院。
清原宣(きよはらのぶ)賢(たか)は、神道の権威、吉田神社祠官神道家、吉田兼倶の三男に生まれ、清原家に養子入りし後を継いだ。
養父、清原宗賢は、明経博士として名高く、受け継いだ、清原宣(きよはらのぶ)賢(たか)も国学者・儒学者として有名。
室町幕府将軍、義晴は、存在自体も危うく、力がなかった。
そこで、権威を保つため近衛家の慶寿院との結婚を決めるが、その時、身重の智慶院をそばに置くことは出来ず、下げ渡さざるを得なかった。
義晴側近、三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)の後妻とする。
晴員(はるかず)の姉が、義晴が公私ともに頼った乳母であり、私事を打ち明けることが出来たゆえだ。
晴員(はるかず)の姉は「お任せください。心置きなくお生みになられるようにいたします」と、応えた。そして、晴員(はるかず)との再婚を取り仕切り、智慶院を預かった。
こうして1534年、藤孝が生まれる。
すると、義晴は、熊川城(福井県三方上中郡若狭町熊川)を居城に熊川を支配する側近の沼田光兼に預けると決めた。
光兼の娘、麝香(じゃこう)の姉が、義晴が智慶院につけた築山貞俊の妻だったからだ。
姉は、嫡男、築山兵庫を出産直後であり、藤孝の乳母となった。
沼田家は、将軍より500石を得て、藤孝の面倒をよく見た。
次いで、義晴は、三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)の兄、和泉半国守護家、細川元常の娘婿養子とし後継となるよう命じた。
足利一門細川家分家を継ぐのが、藤孝にふさわしいと判断したのだ。
三(みつ)淵(ぶち)晴員(はるかず)には、すでに嫡男がいたからだ。
幕府は、管領、細川家が実権を握り主導していたが、内紛が起き、激しい政争を繰り返し、管領、細川家は弱体化していく。
ここで、義晴は、将軍としての権威を取り戻そうと立ちあがった。
だが、思うほどの支援者を集められず、将軍の力を取り戻せない。
やむなく、1546年、藤孝12歳の時、嫡男、義輝に将軍を譲る。
対立していた管領、細川晴元を取り込み、協力体制を築き、義輝により、幕府を守るしかないと決めたのだ。
同時に、和泉上守護、細川家も新将軍を支えるよう命じ、藤孝も義輝に仕え始める。
ところが、1549年、晴元は、家臣三好氏の台頭、内紛で力をなくし、三好氏に敗れ、義輝を支え切れなかった。
義晴・義輝や藤孝らは京を追われ、配下の近江朽木氏の領地に逃げ、匿われるという将軍として恥ずべき逃避行となる。
京奪回を目指す中、翌年、義晴は亡くなり、1554年、元常が亡くなり、藤孝20歳が娘婿養子となり和泉半国守護家の家督を継ぎ、弟でもある義輝の側近となる。
以後、義輝は、三好氏との和解・戦いを繰り返し、京を追い出され逃げたり戻ったりの繰り返しだ。
1558年、義輝は、傀儡であっても京に居なければ将軍としての権威は保てないと判断し、三好氏と和議を結び京に戻る。
力はなくとも、将軍としての権威を持って治める。
藤孝も、京都一条戻橋近くの上守護家細川氏の居館、小川屋敷に落ち着く。
屋敷は取り戻したが、領地の多くは三好氏に奪われたままだ。
少しづつ取り戻していくしかない。
経済的に安定して義輝を支えるためには、困難なことばかりだった。
それでも、藤孝は、上守護家細川氏の当主として、生家、三(みつ)淵(ぶち)氏・養家、沼田氏・乳母、築山氏一族に支えられ、義輝に仕える。
まもなく、1560年、沼田光兼が亡くなり、麝香(じゃこう)の兄、光長が受け継ぐ。
次第に、若き将軍、義輝は傀儡であることに満足せず、将軍としての力を持ちたいといろいろ画策するようになる。
藤孝もその思いを実現するべく働く。
この頃、細川屋敷の奥は、細川元常の養女である藤孝の妻が亡くなり、乳母、築山貞俊の妻が仕切っていたが、藤孝に女人の必要性を感じる。
そこで、才媛の妹、沼田麝香を呼びよせる。
藤孝の妻となって欲しいと願いを込めて、細川家の家政を教えていく。
藤孝との出会いを演出し、二人の間に愛が芽生えるのを見守る。
1561年、義輝と呼応し、晴元は六角氏・畠山氏と共に三好氏打倒を目指すも敗れ細川宗家、細川京兆家は力をなくす。
それでも義輝は、全国に檄を飛ばし、政権の基盤固めを図り勢力の奪回を試みるが難しい。
藤孝も将来不安に陥る。
何が起きても、和泉上守護家(細川刑部家)を守らなくてはならないし、後継も必要と判断し、沼田光兼の娘、沼田(ぬまた)麝香(じゃこう)との結婚の意思を固める。
義輝に願うと、義輝も将軍側近の沼田家と細川家であり、賛成、祝福した。
こうして、1534年生まれの藤孝28歳と1544年生まれの沼田麝香18歳は、1562年、結婚。10歳の年の差があった。
恋愛結婚で結ばれ、生涯仲睦まじく暮らす。
翌年、嫡男、忠興が生まれた。
ところが、将軍親政を目指す義輝は、三好長慶亡き後を継いだ三好3人衆らと激しく対立、1565年、襲われ殺された。
遺命が、弟、義昭を将軍とすることだった。
藤孝ら近習は、奔走することになる。
主君を失った藤孝は、和泉上守護家(細川刑部家)の小川屋敷を追われ、京を離れざるを得なくなる。
麝香(じゃこう)は、藤孝と共に行くと決めるが、幼い忠興を連れていくことはできなかった。
やむなく京で乳母に託した。
清原家・吉田家に預けることもできたが、不穏な世情の中、忠興を託すのは危険で、頼めない。
藤孝は優れた風流人であり、どのような事態となっても文人として修養する。
歌を詠み、武芸の鍛錬を怠らず、料理も得意で、能楽・刀剣鑑定・文芸評論を書き・有識故実に通じていた。
義昭の側近中の側近として働きながらも、文人であり続けた。
文人として麝香(じゃこう)の側でつかの間の休養をすることは不可欠だった。
義昭は、支援者を求め藤孝ら側近と共に妹婿、武田氏を頼り若狭に行くと決めた。
麝香(じゃこう)は、実家も若狭武田氏に従っており、実家に縁ある地で藤孝を待つと共に行く。
この後、藤孝は、光秀と巡り合い、信長を知ることになる。
1568年、信長に擁立され義昭が将軍になる。
ここで、藤孝は、屋敷を取り戻し、忠興を引き取り一族が揃い、落ち着いた暮らしが始まった。
だが、忠興と離れ離れになる犠牲を払って、ようやく実現した義昭将軍だが、経済力はなく、細川家の領地も取り戻せない。
まだまだ生活に追われる苦しい暮らしが続く。
それでも麝香(じゃこう)は、ようやく、忠興とともに暮らせるようになると胸を熱くする。
万感の思いで、忠興を迎えた。
だが忠興の目は冷たかった。
その冷たい刺すような視線を見て、つらい思いをさせたと悔やみ涙する。
5歳で人を見抜く目を備えていることに驚く。我が子でありながら只者ではない雰囲気を漂わせていた。
元通りの親子になれないまま、興元・伊也ら次々生まれる子の世話に追われる。
翌、1569年、麝香(じゃこう)の実家、沼田氏は、勢力の伸張を図る主筋になる松宮氏に攻め込まれ、居城、熊川城を奪われる。
下剋上の戦国時代、沼田氏は、立ち向かったが力なく、敗け、ちりじりになった。
麝香(じゃこう)は、実家の滅亡に落ち込む。
比べて、和泉上守護家を再興させようと力強く進む藤孝を尊敬の目で見る。
藤孝の力は増しているが、沼田家は滅んだ。
細川家は、往年の栄華とは程遠い状況であり、将軍家は抗争を続けている。
いつ屋敷が奪われてもおかしくない状況であり、安定した結婚生活ではなかった。
それでも、何があっても藤孝と共に生き抜くと覚悟を決め、義昭を将軍とし、一つの目標を達し、ここまで来た。
今は、劇的な状況の変化に、振り回され、ただ、ひたすら藤孝についていきながら、実家の力になりたいと思うのが、精一杯だった。
藤孝は、義昭を将軍にすることが出来、成し遂げた思いだった。
そして、麝香(じゃこう)の実家を思い悩める顔を見て、力になろうとした。
これからも、将軍を守り、細川家を守り、沼田家一門の兄弟姉妹の強い庇護者となると、自信を持って突き進む。
ところが将軍、義昭は信長の傀儡に我慢できず、勢力奪回に向けて画策するようになる。
藤孝は、もはや将軍家に力はなく、傀儡であっても、最低限の権威を保てれば我慢すべきだと進言する。
また、京を追われることになれば、細川家の一族郎党に責任が持てないからだ。
だが、義昭は変わらない。
義昭と信長の対立が激化すると、藤孝は、進退を迫られる。
そこで、麝香(じゃこう)と話し合い、家中の意見も聞き、1573年、信長に従うと決める。
以後、信長に仕え、山城国中西部に位置する乙訓郡と、葛野郡の桂・川島付近桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(長岡京市、向日市付近)の知行を許され、奪われていた地を取り戻した。
ここで、細川の名を捨て長岡姓を名乗り、信長への忠誠心を見せた。
1574年、義昭は追放され、室町幕府は実質終焉した。
藤孝の実家、三(みつ)淵(ぶち)氏は最後まで義昭に従ったが、信長勢に囲まれ降伏した。
だが、信長は忠誠心を疑い、三淵藤英(藤孝の兄)・嫡男、秋(あき)豪(ひで)に自害を命じた。
藤孝・麝香(じゃこう)は、兄弟が戦う辛さ、結果の酷さを思い知る。
それでも、乗り越えるしかないと、力を合わせて、残された一門の面倒を見る。
藤孝は、細川家を守る意味を重く受け止める。
頼ってくる縁者を受け入れ、細川家(長岡家)を守る役目を果たすと、改めて決意する。やりがいがあることであり、二人の生きがいとなる。
こうして、公家、清原氏・吉田氏との縁を通じて、中院(なかのいん)氏(し)・三条西家とも繋がり、新たに確固とした公家・朝廷との人脈を培っていく。
人脈の深さ・広さが、いざというときにとても役に立つことを知ったからでもある。
それが細川家にはあるのだ、活用すべきだ。
和泉半国守護家、細川氏を引き継ぎ、三(みつ)淵(ぶち)氏・沼田氏・築山氏を配下に置き、家臣団の層も厚くした。
利害関係もあり体面を重んじる家系ばかりだが、バランス感覚に優れ皆をまとめる力があった藤孝は、集まった縁者を細川家の繁栄に貢献する同志であり家臣とした。
信長家臣、藤孝としても戦い忠勤する。
こうして、麝香(じゃこう)とともに、細川刑部家(和泉半国守護家)を再興し、丹後11万石を得て、忠興・玉子に受け継がせることになる。