玉子の死。東軍を奮い立たせる|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(4)
だぶんやぶんこ
約 7164
三成は、有力大名の妻子を監視下に置こうとしただけだった。
ところが、予期しない反撃を受け、玉子の潔い死、細川家の炎上という誰もが驚く結果を引き起こしてしまった。
この事態に恐れをなした三成は、大名の妻子を二の丸に集めることをあきらめ、それぞれの大名屋敷の監視を厳しくすることを命じて終わりとした。
だが、出陣した残りの兵では、大坂城を鉄壁の守りで固めるのは不可能だった。
玉子の死と屋敷の炎上で、大坂城内は騒然となり、他の大名屋敷から、決死の脱出が相次ぐ。
三成も出陣し、残った兵の士気は弱く、監視の目を潜り抜ける方法はいろいろだ。
玉子に勇気づけられた東軍に属する大名屋敷のそれぞれが、お家のために、主君が思う存分戦えるよう、知恵を絞り、策を練り、藩主妻子らを逃亡させた。
変装したり、荷に隠れたりなどなど、逃亡の成功を高らかに物語る武勇伝が、次々生まれた。
この結果、東軍の士気は弱まるどころかますます上がる。
西軍に属する大名の妻子は、大坂城下の混乱で西軍への信頼が揺れ動く。
迷っていた豊臣恩顧の西軍大名は、ガラシャ玉子の覚悟を知り東軍への信頼度を増した。東軍支持に急激に傾いていく。
玉子は炎の中で死ぬことで、三成に打撃を与え、東軍の士気を高めたのだ。
関ヶ原の戦いでの勝利に繫がる大きな功労となる。
玉子の死を知った宣教師、オルガンティノは、玉子の遺骨を集めるよう手配し、受け取った遺骨を自ら大切に守る。
グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、布教は禁じられたが、京都在住を許され、玉子の死の間際まで、文をやり取りし、門徒と宣教師の枠を超えた温かく強い関係を築いていた。
関ヶ原の戦いで、大勝利となった家康も、ガラシャ玉子を大きく評価した。
戦後の論功行賞で、忠興の忠誠心に対しては、通り一遍に褒めただけだが、細川家の忠誠心を褒めたたえた。
そして、玉子の東軍を鼓舞する見事な働きに応える恩賞を与えた。
細川家は、恩賞を得て、家康から与えられていた豊後(ぶんご)杵築(きつき)6万石はそのまま安堵され、丹後藩12万石と合わせて、大幅加増の豊前中津藩30万石となる。すぐに、検地し計39万9千石へ高直しし、大大名となった。
玉子への恩賞が含まれているのは明らかであり、忠興も玉子の功に頭を下げ、感謝せざるを得ない。
国替えが終わり、忠興ら細川家も中津城に移ることになった。
その前、1601年、忠興は、オルガンティノにガラシャ玉子の教会葬を頼み、自らも参列し、弔った。
玉子の功に報い、教会葬を行うことで、惜しみない愛を示したのだ。
葬儀は、想像以上に多くの参列者で埋め尽くされた。
玉子は、多くの人に影響を与え、惜しむ人々は数限りなく続き盛大な葬儀となった。
忠興もその影響力に驚く。
細川家中興の祖だと、改めて心に刻む。
忠興が、まず入った中津城。
加賀山隼人が忠興より一足先に国入りし、治安を確かめ迎え入れの準備をした。
中津城に入った忠興は、この地の教会で、玉子の追悼式を行うと決める。
玉子の力で、新藩主に反発する領民を抑えようとしたのだ。
玉子を信奉する加賀山隼人は張り切って準備する。
キリシタンが多い土地柄をうまく活用し、子達や家中に望まれたこともあり、宣教師を招いてミサを行った。
玉子に憧れ慕う2千人のキリスト教信者が集まった。
玉子の影響力は絶大だった。
ここでも、玉子の力を見せつけられる。
細川家居城を小倉城と決め、築城を始める。
ここから、忠興は、小倉藩(中津藩から名が変わる)主となる。
そして、中津での経験もあり、新藩主として領民をまとめるために有効だと、小倉城下に司祭と修道士のための住まいを許す。
この時はまだ、家康はキリスト教に寛大で、忠興のすることに反対はしなかった。
それでも忠興は、玉子を細川家の人として葬り、キリシタンと表すことはない。
玉子の墓所を細川家菩提寺、曹洞宗崇(そう)禅寺(ぜんじ)(大阪市東淀川区)とし、菩提寺とする。
続いて、藤孝のための建立したとする、京都大徳寺塔中、臨済宗大徳寺派、高桐院を玉子の墓所とする。
玉子を丁重に葬ったが、キリシタンとして亡くなった玉子の思いとは違う墓所だ。
また、玉子の名を冠した菩提寺は作らなかった。
主君筋や功のあった妻は、その名を冠した菩提寺が作られることが多いが、避けた。
禁教に傾いている家康に忠実でありたいと考えたのだ。
それが細川家を守る道だと。
家康は、天下人となった時、秀吉の禁教令を取り消すことはなかった。
秀吉の禁教令は、キリスト教を信仰したり布教したりすることを禁ずる命令。
だが、信徒に対する強制改宗などの罰則はなく、京都のフランシスコ会以外は弾圧していない。
建前は禁止だが、布教を黙認した禁教令だった。
海外貿易で得る利益を確保したいがためだ。
家康も交易での利益が欲しかった。
そこで、ポルトガルやスペインとの貿易を続けるために、キリスト教の布教活動を許可・黙認した。
以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師の来日も認めた。
結局、秀吉より緩い禁教政策となった。
こうして、布教は進み、キリシタンが続々増えていく。
開港以前の長崎は、大村領の小さな村で、キリシタンの家臣、長崎甚左衛門が治めた。 1569年、トードス・オス・サントス教会という長崎で最初の教会が建てた。
以来、キリシタンも増え、新しいまちづくりが始まる。
ここで、1570年、キリシタン大名大村純忠(1533-1587)が、長崎を整備し、イエズス会と協定を結び開港した。
長崎は、ポルトガルとの交易のために創られた湊だった。
翌年、初めてポルトガル船が入港した。
それまで、ポルトガル船は、平戸に入り、交易していた。
松浦氏が支配し、交易を歓迎した。
1550年、鹿児島での布教を拒否されたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを迎え入れ、布教を許可し、ポルトガル船の来校が始まり、莫大な利益を得た。
だが、信者の拡大は、キリシタンとはならない松浦氏と亀裂を生じた。
そこで、新天地を求め、いくつか交易地をめぐり、最終的に決めたのが長崎だった。キリシタン大名大村純忠の庇護があったからだ。
長崎は、交易が飛躍し、キリシタンの町として繁栄したが、1587年、秀吉が伴天連追放令を発布して長崎を直轄地とし、教会を破壊した。
南蛮貿易は歓迎しており、禁教は不徹底なままだった。
秀吉を引き継ぐ家康の世が来た、1601年、イエズス会の教会の再建が許された。
以後、教会や福祉施設、病院が建ち並び、貧しい人、困っている人に経済的、精神的援助を与えるなどの活動を実践し、信徒を急激に増やしていく。
玉子の死は、このようなイエズス会の活動の先駆けであり、中津でも小倉でも、大歓迎で受け入れられたのだ。
だが、幕府は、1614年、禁教令を発布した。
以後厳しいキリシタン取り締まりが行われ、教会は破壊され、関連施設も次々破壊。1620年には、長崎の町からキリシタンの色は消えた。
教会や関連施設の跡地には、奉行所や代官屋敷、仏教寺院などが建ち、様変わりとなり、痕跡もなくなった。
肥前の戦国大名、有馬義貞は、軍事力を必要とし、海外貿易での利益は必要不可欠であり、交易と布教は一つとの考えを受け入れ、洗礼を受けた。
後継となった有馬晴信は、最初キリスト教を拒否していた。
だが、隣国、龍造寺氏の勢いは強く、イエズス会の支援を受けなければ、侵攻を防げなくなる。
やむなく、自らも洗礼を受け、キリシタン大名、有馬晴信となる。
こうして、イエズス会の支援と島津氏との連合によって、龍造寺勢に勝利。
晴信は、肥前日野江藩を守り抜いた。
恩賞としてイエズス会に浦上の地を与えた。
イエズス会は、藩主の庇護もあり、信徒をみるみる増やしていく。
居城、日野江城近くの有馬(南島原市)に日本で初めてのキリスト教教育機関、セミナリヨが創られた。
加津佐に、キリスト教の聖職者を育成する教育機関コレジヨが創られた。
病院、慈善院も出来、キリシタン文化・海外文化が花開く。
秀吉の禁教政策にも動じることはなかった。
晴信は、国を守り、交易は順調で余裕が出た。
原城を改修拡大し、堅牢で美しい城とし、領民の希望の城とした。
関ヶ原の戦いでも、家康に従い、領地を守った。
有馬晴信は、家康から許された朱印船貿易を率先して行い、幕府にも大きな利益を齎し、家康との関係も順調だった。
1608年12月、ポルトガル領マカオに有信の朱印船が寄港した。
ここで、乗員とポルトガル人との喧嘩が始まる。
日本人40名以上、ポルトガル人、数名が死んだ。
マードレ・デ・デウス号事件の始まりだった。
マカオの司令官がアンドレ・ペッソア。
晴信は、事件の詳細を長崎奉行に報告した。
翌1609年6月、アンドレ・ペッソアが、事件の謝罪と交易のために長崎に寄港。
この頃、ポルトガル船がもたらす品々を家康は喜んであり、多くの特権を与え、貿易を奨励していた。
アンドレ・ペッソアは、通り一遍の謝罪を終え、いつもどおり交易をしようとする。
だが、晴信と親しい長崎奉行は、アンドレ・ペッソアの暴挙で日本人が殺されたと決めつけた。
そこで、特権を与える必要はないと、船内に監視人を配置し、商品の陸揚げ、乗員の上陸には監視人の登録と許可が必要であると命令した。
アンドレ・ペッソアは抵抗したが、受け入れられず、耐えた。
以後、長崎奉行は、ポルトガルとの交易を厳しく管理し、オランダとの交易に比重を置いていく。
ポルトガル商人は、家康に便宜を図ってくれるよう嘆願するが、長崎奉行から晴信の意向を踏まえた報告書が届いており、日本船のマカオ寄港を禁じる朱印状を7月、与えただけで終わる。
この頃家康は、まだポルトガルとの交易で得る利益が欲しく、積極的には介入しなかった。
幕府に益をもたらす朱印船貿易を九州で最も多く行っている晴信を褒めたが、ポルトガル船への処罰を認めることはなかった。
ポルトガル船への冷遇は続き、晴信の復讐は続いていた。
だがそれだけでは許すことはず、制裁を課したくて、家康に追討の願いを続ける。
1609年末、家康は、晴信に許可を出した。
マニラ船のスペイン商人がポルトガル船積載生糸などを補完することを保証。
オランダ船の継続的な来航が実現。とポルトガル船排除の準備ができたからだ。
1610年1月、有馬晴信は、長崎奉行、長谷川氏とともにデウス号を包囲攻撃し、4日目にペッソアとともにデウス号を沈没させた。
その功もあり、晴信嫡男、直純と家康養女、国姫の結婚が、決まり年末に結婚した。
全てが順調だった。
次に、龍造寺氏に奪われた領地の回復を宿願としており、恩賞として豊臣時代に失った領地を、取り戻すはずだった。
だが、国姫との結婚は実現したが、以後、領地に対して何ら沙汰はなかった。
そんな時、1612年3月、家康の側近 本多正純の与力 、岡本大八が、有馬氏旧領を家康が デウス号事件の恩賞として晴信に与える意向があると、晴信に持ちかけた。
大八はキリシタンであり、デウス号事件の時には奉行、長谷川氏の配下で、共に戦った仲であり、晴信は信用した。
領地の返還は間違いないことだが、家康側近は賄賂を望んでいると知らされる。
沙汰がなかったのは、そのせいだったのだと合点した晴信は、円滑に返還が進むと信じ、大八の望むままに、多額の賄賂を贈った。
なのにその後、沙汰はなく、不審に思った晴信が直接、本多正純に問い合わせた。
ここで、大八の虚偽が発覚し、贈収賄事件が明るみに出た。
1612年、岡本大八は処刑され、有馬晴信は甲斐国に流され、後に処刑された。
この事件を契機に、家康は以前から考えていた、海外貿易の再編を決めた。
キリシタンを黙認した家康だったが、キリシタンと貿易とを切り離すことができると確信したのだ。
ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに、キリスト教布教に協力することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。
この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負った。
以来、ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師が乗り、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみで交易を開始した。
日本でも、交易の条件として、キリスト教の布教許可を求めた。
諸大名は、南蛮船と交易をするために、布教を認めた。
南蛮貿易は、西洋からの品々だけではなく、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきており、魅力的だった。
鉄砲の製造は日本でできるが、弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、海外からの輸入に頼った。
南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らない。
天下人、家康は、諸大名の軍事力を削減させようとしていくが、豊臣包囲網としての築城や城の改築が必要であり、それまでは、軍備の増強も認めた。
築城が続いたが次第に終わり、特別な理由がないと築城許可を出さなくなる。
1609年には、500石積以上の大船建造を禁止し、大船は没収していく。
軍備の増強を認めなければ貿易統制を強めても問題ない。
また、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は益も大きいが、日本への武力侵攻という軍事的な脅威も感じるようになる。
長崎はイエズス会の領地のようになり、キリスト教徒が、各地の寺社を破壊することも起きていた。
それらを踏まえて、岡本大八事件の後、キリスト教禁止に転じたのだ。
1612年、幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を命じた。
1614年、全国に「キリシタン禁令」と、「宣教師の国外追放令」を発布した。
幕末さらに明治政府にまで、引き継がれる長く厳しい迫害の歴史が始まる。
旗本のジョアン原主水・大奥のジュリアおたあなどが改易・追放処分となる。
この頃、キリスト教信徒は、20万から50万人いた。
日本の人口は1200万人。そのうち2〜4%がキリスト教徒だった。
長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に200人余り、教会は200か所あった。
1615年には、外国人宣教師・高山右近などの有力なキリシタン、日本修道女たちが長崎へ送られた。
総勢400人あまりが、数隻の船に分乗して、マニラ・マカオに追放された。
幕府の統制が強まり、キリシタンとしての活動が不可能になり、キリシタン大名はいなくなる。すると、信者も急激に減る。
家康は、ホッとし、気にいっていたオランダとの交易を決め、しかも、幕府が独占的にオランダと交易し、日本を鎖国にしていく。
オランダと奇妙な縁は、1600年、大分臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着したことから始まった。
臼杵藩の藩主、太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航される。
ここで、本来、石田三成が裁定する役目だったが、三成は国元に戻っており、家康自ら、リーフデ号の検査、尋問をする。
日本にいたスペインのイエズス会の宣教師は、リーフデ号乗組員の処刑を望んだ。
イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、プロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。
オランダは、プロテスタントの国である。
イエズス会は、プロテスタント勢力が日本に及ぶこと恐れ、排除を望んだのだ。
家康は、乗組員の話をじっくり聞き、イエズス会を無視した。
リーフデ号を浦賀に回航させ、乗組員を江戸に招いた。
家康は、江戸で、思うままにリーフデ号の乗組員から海外情報を聞いた。
そして、彼らの知識に感心した。
そこで、乗組員のオランダ人、ヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の知識は、幕政にも役に立つと、召し抱える。
当時、キリスト教は、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を伸ばしていた。
プロテスタントは、教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派だった。
プロテスタントに押されたカトリックは、信者獲得のために、積極的に世界布教に乗り出した。戦国時代に日本にきたポルトガル、スペインの宣教師は、この流れに沿っていた。
一方、オランダはプロテスタントの国で、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに遅れて、世界への進出を始め、貿易や侵攻をおこなった。
オランダも、キリスト教布教に積極的だったが、メインは交易による利益だった。商取引を行いたいと、貿易だけを求め、キリスト教の布教を強く求めることはない。
家康は、オランダの意向を気に入り、オランダとだけ貿易をすると決めたのだ。
今までなかった、新興国、オランダとの交易は、幕府が独占的に行うことができる。そして、幕府が貿易を規制する仕組みを作ることができると張り切った。
こうして、江戸時代、オランダが唯一の西洋文明の窓口となり、その言葉「蘭学」は、日本の最先端の学問となった。
玉子の願い、キリスト教の布教は、禁止された。
忠興も家康の意向に沿って、厳しく禁教を命じた。