玉子の決意|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(3)
だぶんやぶんこ
約 3821
天下分け目の関ヶ原の戦いに向けて、家康に従って動く陣営、東軍と反家康陣営、西軍とに分かれていく。
豊臣恩顧の武将は、それぞれの陣営から求められ引き裂かれる。
西軍の中心が石田三成だ。
家康は秀吉への臣従を天下に示した1586年以来、常に秀吉後を見据えている。
将来に絶望するときもあったが、秀吉の老醜を感じ始めた時から、天下を取る決意を固め、具体的に地道に勢力固めを続けていた。
だが、三成は、秀吉死後も豊臣政権が続くと信じていた。
秀吉死後の混乱への準備が出来ないまま、秀吉が亡くなり自分の命・地位を守ることさえ危ない状況となってしまった。
やむなく、準備不足だとわかっていたが、秀吉の威光を信じるしかない状況で天下分け目の戦いに立ち上がった。
「(秀吉の)遺命をないがしろにする家康に鉄槌を下す」と毛利輝元・宇喜多秀家を総大将に家康打倒の兵を集める。
秀吉政権の継承を訴えるのが西軍だ。
一歩先を見る家康も、秀吉政権の継承を訴えた。
そして、秀頼に従わない上杉氏を征伐するという大義を掲げ、上杉征伐に出陣する。 茶々・秀頼の同意を得て、その命令に従って軍をまとめ戦うという盤石の大義を持って、大坂を離れる。
家康が大坂を離れた今しかないと、三成ら西軍が立ち上がる。
茶々・秀頼の同意と出陣を願うが、先に家康の出陣を許可しており、その家康を打倒する戦いに秀頼は出せないと、茶々は渋った。
三成に心情的には賛成であり、秀頼が三成に同意したとのお墨付きを出す。
三成は、大坂城を任され、秀頼を守る戦いともみなされるが、秀頼が家康に鉄槌を下すという、最も価値ある大切な大義を掲げることはできない。
また、西軍として綿密な打ち合わせ、陣営の確認があったわけではなく、家康が去った間隙を狙い急に立ち上がった西軍でしかなかった。
毛利輝元が大坂城で秀頼を守り、宇喜多秀家が戦いでの総大将となる。
こうして、用意周到に待ち構える家康東軍と秀吉の威光を掲げその名のもとに集まると思い込み過剰な期待をした三成西軍の天下分け目の戦いが始まる。
家康も秀吉の威光という影がどう動くか、おびえていたが。
秀吉は大坂城下に大名屋敷を作り大名妻子に住むよう命じた。
秀吉の居城が聚楽第・伏見城と変わると、それぞれに屋敷地を与え住むよう命じたが、大坂城が豊臣家の本拠であることに変わりはなかった。
その為、玉子が、玉造屋敷を動かなくても、許された。
秀吉の遺命により、秀頼は改めて大坂城を本拠と決め入城し、諸大名の妻子は再び城下に在するようになった。
家康が大阪を離れると、城下に住まう大名妻子は西軍、石田三成の人質となった。
ただ、大阪城総構えの中にある各屋敷は多すぎ範囲も広すぎて、三成ら主力が戦場に向かえば監視は行き届かない。
そこで、石田三成は東軍に従う有力大名の妻子を大阪城二の丸に集めて、監視下に置くと決める。
こうすることで彼らの戦意をくじけさせ、西軍に味方することにつながると、確信したからだ。
主だった大名妻子を連れてくるよう命令を出した。
最初が、二の丸近くに屋敷があり、東軍の旗色を鮮明にしている細川家のガラシャ玉子と決め、移るように求めた。
だが玉子は、屋敷から動くことを拒否。
毅然とした態度で、家臣に「東軍に属する他の大名妻子の為にも、細川家は東軍であり、三成殿には従わない覚悟を見せます」と告げた。
ここで、三成は玉子主従の大坂城二の丸入りを強行しようとする。
屋敷内は、どうすべきか紛糾した。
玉子はこの時を待っていた。
忠興との夫婦生活は玉子の思い描いた暮らしではなかった。
忠興はキリスト教を認めていたが、玉子の生き方・考え方を理解できなかった。
表面的には平穏を保つようになっていたが、忠興とけじめをつける日がいつか来ると、心構えをしていた。
子達の生きる道は創っている。もう充分生きた満足感があった。
ただ、子達の将来への責任があり、細川家が安泰で続くための一助となりたいと時が来るのを待っていた。
そして、キリシタンとして生きたことを、誇りを持って後世に伝えられる人生の終わりとしたかった。
玉子らしい最後でありたいと心ひそかに祈っていた時に起きた三成の蛮行だった。
最高の死に場所が与えられたと、神のご加護に感謝する。
玉子が死を選んだのは、イエズス会の将来はないと見定めたからでもあった。
秀吉は、1587年のバテレン追放令(禁教令)をだした。
玉子は、恐怖したが、形だけで終わり、宣教師の活動は、黙認となった。
ホッとし、表面的には自ら信仰するだけを装うが、残り少ない時間となるかもしれないと、キリスト教の教えを広めていくことに努める。
続いて、1596年、スペイン船、サンフェリペ号漂着以後の秀吉の対応を見て、将来的なキリシタンの迫害を悟った。
漂流船に寛大な対応をしてきた秀吉だったが、四国土佐沖に漂着したサンフェリペ号に対しては、救助ではなく積み荷の没収と船員の拘束という厳しい対応をしたのだ。
フランシスコ会に属するキリスト教徒が乗船していたからだ。
秀吉はイエズス会の信仰を許していたが、そのイエズス会が誹謗したのがフランシスコ会。
イエズス会とフランシスコ会は、カトリック(キリスト教最大の教派)内で作られた修道会だ。
イエズス会は、フランシスコ・ザビエルや、イグナチオ・デ・ロヨラら6人の同士によって設立された。
1549年、来日したフランシスコ・ザビエルが布教を開始。
その後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちが来日し、熱心に布教し大きく発展した。
高等教育の普及、新技術・知的発見をいち早く容認する開明的な考えで、信仰の普及と共に交易により諸外国との友好関係を築くことを重視した。
貿易重視の考えで、交易による利益を資金源とし、安定した収入を得ていた。
海外の情報・文化をもたらし、玉子ら知識人有力者に受け入れられ信徒を増やした。
反対にフランシスコ会は一途に布教活動に励み、収入も信徒から得ようとしたため日本では無理があった。
秀吉は、フランシスコ会、宣教師を毛嫌いした。
船長らは「スペインは文武に優れ世界に領地を広げている大国だ。日本の占領などすぐにでもできる。宣教師は先兵でもあるが、保護されれば戦いを避ける平和の徒となる。占領されたくなければ大切に保護すべきだ」と強気の抗弁を繰り返した。
そして、積み荷を戻し船の改修をするように求めた。
秀吉は激怒し、再び、バテレン追放令を出し、翌1597年初め、スぺイン系フランシスコ会宣教師ら26名を処刑した。
それでも、布教活動をせず、国外退去に従う条件で、船の修復を許し、サンフェリペ号はスペイン領、マニラに戻った。
ところが、戻った船長らが、秀吉の対応を本国、スペインに訴えたことで大問題となった。
スペイン本国は、積み荷の返還と遺体の引き渡しを求め、使者が来たが、秀吉は取るに足らないと無視した。
玉子は震えるほど恐怖した。
イエズス会の歴史と日本での活躍を熟知している。
平和の使徒なのだ。
ところが、秀吉は、かって戦った一向宗門徒のようになると恐れているのだ。
この時点では、自ら信仰することは認めたが、大名など力を持つものが信仰することは領民へ影響が大きく布教活動だとみなした。
そして、信仰さえもやめるようにと強く命じた。
今は、イエズス会とフランシスコ会の対立で、貿易を重視しないフランシスコ会が迫害を受けているが、これからイエズス会は、秀吉への忠誠心をより強く求められ、秀吉の望む形での対応をするとは思えない。
キリスト教に対する迫害は強くなるはずだ。
細川家の女主がキリシタンでは、細川家は難しい立場となることは間違いない。
この時から、死を望む覚悟を決めた。
いつかこの日が来ると待ち、ついに来たのだ。
頭の中で何度も思い続けた状況だった。
思い通りの時が来たことに震えは止まらないが、自然と微笑みが生まれた。
死後のこまごましたことさえ冷静に玉造屋敷留守居、玉子付き家老でもある小笠原秀清に命じることができた。
最高の死に場所を見つけ晴れ晴れとした想いで聖母、マリアの輝きで死を迎えた。
玉子は「三成殿に細川家の覚悟を見せつけるのです」と屋敷に火を放つようはっきりと強く命じる。
そして、家老、小笠原秀清(少斎)に亡骸を三成に与えないように厳しく命じて介錯を頼む。
側には、玉子の家老、河北一成。そして金津正直もいた。
ようやく父の元に行けると晴れやかだった。
その思いをよく知る二人も、覚悟を決めていた。
2人に連れられて父の元に逝くのだ。
1600年8月25日、37歳だった。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(辞世の句)
最高の死に場所が与えられたと、神のご加護に感謝し、微笑んで生涯を終える。
小笠原秀清は、玉子に心酔し忠興の反対でキリシタンとはならなかったが忠臣だ。
玉子の死を見届けると、指示通り、屋敷に火を放ち自害した。
玉子の影響は、後々までも、小笠原一族に及び洗礼を受けた者も多く、後には殉教者も出る。