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神々しく輝く、玉子|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(2)

だぶんやぶんこ


約 5875

1587年、洗礼を受けた玉子は、澄み渡った空の元、まっすぐに立つ自分を感じ幸せだった。

玉子に続いて、次男、興(おき)秋(あき)4歳に洗礼を受けさせた。

光秀の身代わりのように思い、一番見つめ抱きしめ涙を流したかけがえのない子だ。

病弱だったこともあり、心を込めて教義を教え、心身ともに鍛えたいと思い、受けさせた。興(おき)秋(あき)も熱心に学ぶ。

 

興(おき)秋(あき)は、幼いながらも玉子の苦しさを感じ、笑顔を振りまくことで、玉子を癒すことができると思い込み、にこにこ玉子を見つめる。

1594年、興(おき)秋(あき)11歳で、忠興の弟、興元(おきもと)の養子となり、玉子と別れる。

この頃から、細川家への遠慮やこだわりがなくなり、子たちには、おおらかに接することができるようになっていく。

近習侍女にも、子たちに対し「見守っていれば、それだけで大丈夫」と思うようにさせるように命じる。

玉子自身で要所要所に立ち会い、干渉することなく触れ合う時間を持ち、愛情込め、自然や社会の出来事を分かりやすく教えた。

子達は皆、玉子を尊敬し慕った。

 

忠興とは相変わらず、対立し、腹立たしく、諍いになる時があった。

それでも、高山右近に紹介された加賀山隼人(洗礼名ディオゴ)を召し抱え、長姫の命を守った頃には、忠興が何を言おうとも軽く受け流すことができるようになる。

忠興の、底知れない深い愛を感じたからだ。

玉子には到底理解できない思い込みばかりの愛だが、受け入れていきたいと思う。

 

伊丹氏庶流、加賀山隼人は1566年、摂津国高槻に生まれた。

宗家、伊丹(いたみ)親(ちか)興(おき) は、300年もの間、伊丹を支配し伊丹城を居城とした国人で、将軍、足利義昭を擁した信長に仕え、摂津三守護の一人となるほどの勢力を持っていた。

だが、義昭と信長が対立すると、義昭側に付き、信長勢に攻め込まれ滅亡する。

 

一族、伊丹隼人朝明(ともあきら)と 弟、伊丹主殿盛(もり)久(ひさ)は、高槻の地 、摂津国嶋(しま)上郡(かみごおり)古曽部(こそべ) 村に隠れ住む。この時、付近の山の名前にちなんで、名字を「 加賀山 」 と変えた。

朝明(ともあきら)には、3人の男子と 1人の女子がいた。

嫡男が、加賀山隼人興(おき)長(なが) 。

母の影響で1576年、洗礼を受けた。

 

1573年に、髙山右近は、高槻城主となっていた。

そして、この地の有力国人であった加賀山氏を召し抱える。

加賀山隼人興(おき)長(なが)も成長後、髙山右近の家臣となる。

 だが、右近は、1587年、秀吉の禁教令に逆らい、全てを捨てた。

 

その時、右近は、加賀山隼人興(おき)長(なが)に、嫡男として守らなければならない一族がいると、一緒に行きたいとすがる加賀山隼人を拒否した。

そして、キリシタンの友、蒲生氏郷に推した。

氏郷は、歓迎し、家臣とした。

だが、氏郷は、1595年亡くなる。

 

加賀山隼人は、前田家にいた右近のもとに行きたいと願った。

右近は、前田家に招いても良かったが、高槻に縁のある忠興に願い、細川家家臣となる方が、活躍の場があると推した。

高槻を含む和泉国守護だった細川家は、伊丹氏をよく知っており喜んで家臣とした。

 

玉子が忠興に頼んだのでもある。

加賀山隼人興(おき)長(なが)は、玉子より3歳年下だが、多くの試練を乗り越えたくましく、右近から学んだ素晴らしい英知を持っていた。

国元で仕えることになり、玉子と会う機会は少なかったが、同じキリシタンであり、共通する価値観を持っており、心強かった。

忠興が受け入れたことに感謝する。

 

加賀山隼人興(おき)長(なが)は、玉子の死後も、忠興に仕え、1600年、領地、豊前下毛郡(大分県中津)の群奉行になり、新藩主の威光を領民に知らせるべく奮闘した。

領内の治安を安定させ、領民の忠興への忠誠心を高める、善政を行った。

忠興に褒められ、国家老2千石重臣となる。

同時に、忠興の許可を得て、キリスト教の布教にも力を入れた。

小倉教会を創り、信徒を莫大、増やしていく。

 

だが、キリスト教に寛大だった家康が、禁教に政策を転じた。

忠興も従わざるを得ず、1611年から、加賀山隼人興(おき)長(なが)に、再三棄教を命じる。

だが、棄教に応じなかった。

やむなく、忠興は、家老職を取り上げ、数年間、家族とともに、軟禁した。

それでも棄教せず、1619年10月、苦渋の決断で忠興は処刑を命じた。

静かに、加賀山隼人興(おき)長(なが)一族は受け入れ、玉子のように、殉教した。

 

玉子に続いて、洗礼を受けさせた次男、興(おき)秋(あき)(1583-1615)は、忠興の弟、興元(おきもと)(1566-1619)に子が生まれなかったことから、1594年、養子となる。

興元(おきもと)は、義母の姪、沼田清延の娘いとと結婚していた。

義母、沼田麝香が願った結婚だったが、忠興は、興元(おきもと)の後継を早く決めるべきだと、養子として送り込んだのだ。

その後、1604年、いとに嫡男、興昌が生まれると養子縁組は解消される。

 

興元(おきもと)も、兄、忠興とともに秀吉に従い戦い、兄と競い合った。

忠興に比べ、性格は穏やかで次男として分をわきまえた。

忠興以上に、高山右近らと親しくし、キリスト教にも理解を示していた。

玉子は、興(おき)秋(あき)が、興元(おきもと)の養子となると興元(おきもと)との縁を深めながら、興(おき)秋(あき)を託す思いを話す。興(おき)秋(あき)に力づけられた数々の思い出や、興(おき)秋(あき)の豊かな才能素晴らしさを、言葉少ないながらも心を込めて話した。

興元(おきもと)はうなずいた。心と心がつながった瞬間だ。

 

玉子に共感した興元(おきもと)は、興(おき)秋(あき)が養子入りしてまもなく、洗礼を受ける。

他にも興元(おきもと)付きの家臣や、忠興が養子入りしていた奥州細川家の家臣なども洗礼を受けた。

玉子の影響力は次第に広く及び、入信者も増え、玉子の話を聞きたい人たちが増えていたのだ。

翌1595年、屋敷内に小聖堂を造る

玉子の祈りの場だが、細川家中の信仰心の熱い人たちの祈りの場となり、玉子と話せる場となった。

忠興も認めた。

 

同年、末の娘、多羅姫7歳に洗礼を受けさせる。

日々の暮らしの大半を、キリシタンとして生き、布教に力を尽くす暮らしとなる。

玉子の動く範囲はわずかでも、周囲に入信者が増えていく。

子達と共に学び、遊び、歌い、踊り笑いこける時を大切にするのは変わりない。

 

そして、秀次謀反が発覚。

秀次が捕縛されるとすぐに、連座を問われだろう長姫を脱出させ、味土野に隠した。

祈りをささげる玉子だが、生きた心地のしない日が続く。

長姫の命を必ず守ると心を奮い立たせる。

傷心の長姫と文を交わし力づけ、長姫は洗礼を受けることを望み、共にこの困難に立ち向かおうと心を一つにする。

 

細川家中の必死の救命策が実り、罪を問われず許されると、義父、藤孝と義母、沼田麝香(じゃこう)から、長姫を引き取りたいとの申し出があった。

長姫の意向も聞き、感謝し預ける。

 

藤孝が、母から受け継いだ京都吉田(京都市左京区南部)の屋敷で、長姫は、宗教に生きる暮らしに入る。

藤孝の母の実家は、清原家だが、父は吉田家から養子入りし継いでおり、生家の神道の大家、吉田家は、広大な土地をこの地に持っていた。

その土地を、藤孝の母が受け継いだ。

長姫は広大な屋敷で何不自由なく、義母、沼田麝香(じゃこう)に見守られて過ごす。

祖父母に慈しまれ、心豊かに信仰に生きる。

玉子は、涙を流し、神の御加護に感謝した。

 

麝香(じゃこう)の実家、沼田家は、上野国利根郡沼田(群馬県沼田市)を領した国人から始まる。その一族が、鎌倉時代初期、若狭国に移り、若狭沼田氏を起こす。

室町時代、足利尊氏に従い功あり、幕府奉公衆となる。

代々続き、将軍、義晴に近侍したのが、沼田光兼。

将軍側近として才を発揮し、若狭国熊川城(福井県三方上中郡若狭町)を築城し居城とした。

京都から江州(滋賀県)を経て若狭の小浜に至る玄関口が、熊川だ。

交通の要地で商業が盛んで若狭を目指す人達が、楽しく過ごせる憩いの宿があった。

 

沼田氏は一門、若宮氏に仕え、若宮氏は守護、若狭武田氏に仕える関係だった。

だが、主君、若狭武田氏内で、内紛が起こり、自らの勢力を強めたいと考えた若宮氏は、沼田氏の領地、交通の要地、熊川が欲しくなり、攻め込んだ。

織田氏に通じる沼田氏だったが、敗北し、1569年、熊川城を奪われ追い出された。

 

沼田氏は散り散りになる。

足利義昭の側近となっていた光兼の嫡男、沼田清延は、妹、麝香(じゃこう)を頼り、細川藤孝のもとに行き客将となり、一門衆として共に戦う。

後に、義母、麝香(じゃこう)が、弟の娘と我が子を結びつけ、沼田清延(詰衆)の娘、いとが、細川興元(おきもと)と結婚することになる。

以後も、朝鮮出兵や関ケ原の戦いでの岐阜城(岐阜県岐阜市)攻防戦で、活躍し、5千石を有し、家老家として続く。

 

玉子は、細川家中で存在感を発揮する麝香(じゃこう)の知力・たくましさに感心し、少しでも近づきたいと思う。

沼田氏は細川氏とは同等とは言えない家柄であり、しかも、結婚後7年目には、離散してしまった。軍事力でも、大したことはなかった。

側室とされても良いような立場なのだ。

だが、藤孝正室の座を盤石にし、10歳年上の藤孝の伴侶として細川家を仕切った。

次男と姪との結婚までも実現させ、細川家にしっかりと根を張った。

 

 母、煕子(ひろこ)との共通性を感じ、興味深い。

煕子(ひろこ)の実家、妻木家も明智一門ではあるが、当時は明らかに格下だった。

光秀の出世に応じて、側室が増えてもおかしくない関係だ。

だが、家政を仕切り、明智家を盤石にする力があった。

光秀は側室を持たなかったとの評を得ることに繋がる。

家臣の結束の根本に婚姻をおき、積極的に重臣らと身内との結婚を取り仕切った光秀だが、側室を置くことはなかった。

 

 実母と義母、自らの弱い立場を知りながらも、家中に重きをなし、尊厳を得る素晴らしい母がいたことは自慢だ。

比べて、玉子の家政を仕切る力、家名の復興になる力の無さを、詫びるしか無い。

忠興の不誠実・自己中心主義を攻めても、事態が改善するわけではないと欲しっている。細川家の女主として与えられた役目を果たしたいと思うが、実母と義母に叶うわけがない。

キリシタンとして信仰に生き、信仰を通じて縁ある人に神の福音を伝え、心の安寧と生きる喜びをもたらす一助となりたい。

それしか自分の生きる道はないと自らを慰め、にこやかに表情を緩め、うなずく。

 

沼田氏が散り散りになると、麝香(じゃこう)の弟、光友は、細川家ではなく、光秀に仕えた。

光秀が朝倉家に仕えていた時、沼田氏と顔見知りとなり、信長に従うよう調略したのも光秀だ。

また、沼田光友は、幕府奉公衆であり、同僚でもある進士国秀とも親しい。

進士国秀は、麝香(じゃこう)の妹と結婚している。

二人の間に生まれた貞連は、光秀の叔父、進士山岸光信の娘婿養子となり、進士家を継ぎ、光秀の側近となった。

進士家と明智家・沼田家の縁は深かった。

 

そんなこともあり、玉子は、麝香(じゃこう)と特別な縁で繋がっていると思っていた。

沼田光友は、光秀の味方になるように嘆願書を持って、何度も細川家を訪ねた。だが藤孝はもちろん、麝香(じゃこう)さえも、明確に拒否する。

 以来、一時期、玉子は、許すことが出来なかった。

だが、麝香(じゃこう)が、弟や光秀を裏切った苦悩を、ずっと引きずっていることを知る。

玉子に許しを請うように玉子の意思を重んじ、玉子のために動いてくれた。

その心情に、頭を下げ、細川家の冷たい対応を受け入れるしかないと思い始める。

 

 玉造屋敷家老であり玉子付家老でもある小笠原秀清も、玉子を兄のような温かい目で見つめ、感化されたかのようにキリスト教を理解した。

小笠原一族に洗礼を受けた者は多く、後には殉教者も出るほどだ。

 

玉子の家老には河北一成もいる。そして金津正直は側近だ。

2人と話すと明智家にいるような温かい気持ちになる。

父、光秀が玉子のために遣わしたのだと、父を思い感謝する。

 

玉子は、義母・義弟や近習など、多くの人に受け入れられているのを感じる。

日々充実した暮らしだ。

それぞれの人が、それぞれの生きる希望を見出していくのが、何よりもうれしく、

その一助に信仰があり、玉子の存在があると思うとたまらない。

 

同時に、この世に生まれた意味を問い続ける。

忠興は思うようにならないことばかりだと文句を言っているが、秀次死後、秀吉とも家康とも良い関係に戻り、細川家はゆるぎないと思う。

今の細川家には、どのような試練が待ち受けていても乗り越える経験と知恵と人望がある。

 

忠興が、父、光秀と共に生きようとしたならば、別の歴史が始まっていたとの思いは消せないが、父の行動は、根回しが足りず、時の勢いに乗れなかった。

やはり父には限界があった。

経験を積み、すべてにある程度達観できる年齢となり、細川家の奥の要として確固たる立場を築いた。

すると、細川家でなすべきことは終わったと、穏やかな心持ちとなる。

 

忠興とも、表面的ではあるが諍いなしに過ごすことができる。

秀吉死後を見越し戦略家として多忙であり、邪魔したくない。思いのままに生きればよいと思える。

加賀山隼人を受け入れ、長姫を守り、玉子の信仰を許さないまでも思うようにさせてくれる忠興だ。

今でも許せない部分もあるが、より大きな目で見つめられる。

 

そんな日々の中、1598年9月18日、豊臣秀吉が亡くなる。

秀吉死後の京・大坂は、不穏な空気が漂い、人々に不安が増し、心の平穏を求め宗教心が強くなっていく。

 

それから2年、玉子は、屋敷内の小聖堂を動くことはなく、祈り続ける。

玉子の一筋に信仰する姿が聖母マリアと重なり、影響力は驚異的に広がり、人生最大のイベントに向け、準備が整っていく。

子達のため、細川家を守るためでもある。