忠興と玉子の苦悩|光秀を継ぎ、忠興を縛るガラシャ(1)
だぶんやぶんこ
約 6444
細川忠興と結婚。清く正しく美しく生きた理想の女人として絶賛される玉子。
「劇的死」を成し遂げ、細川家に、関ヶ原の戦いの恩賞として豊前中津藩39万9千石をもたらした。
秀吉時代は12万石、秀吉死後、家康に率先して従うと表明し6万石加増されたが、18万石でしかなかった。
有力大名だったが、大藩とは言えなかった。ところが、一挙に大藩となった。
非業の死を遂げた明智光秀の思いを、娘、ガラシャ玉子が死をもって表し、そして光秀筆頭家老の娘、春日局が受け継いだ結果だ。
ガラシャ玉子の偉大さを知る春日局は、加藤家改易の後の九州の抑えとして、細川家を推す。
こうして、細川家は、熊本藩54万石の大大名となり続く。
か細く夫、忠興に苦しめられた弱い妻。
キリシタンとして何千人もの信者の支えとなり崇拝された偉人。
などなどいくつもの顔を持ち、夫、忠興の生涯をがんじがらめにしたガラシャ玉子の生涯。
玉子は、自身のことを、たまと表した。
そして、洗礼を受けガラシャとなり、からしやと表した。
ガラシャ玉子の名で綴る。
宣教師の書き残した伝聞に迷わされずに、できうるだけ真実を。
目次
- 忠興と玉子の苦悩
- 神々しく輝く、玉子
- 玉子の決意
- 玉子の死。東軍を奮い立たせる
- 玉子を受け継ぐ沼田(ぬまた)麝香(じゃこう)
- 沼田(ぬまた)麝香(じゃこう)の子たち
- 玉子の子たち、長姫・興(おき)秋(あき)・多羅姫
- 嫡男、忠隆と妻、千世姫
- 忠隆と千世姫の別れ
- 細川家を継ぐ、忠利
- 徳川千代姫と細川忠利
- 千代姫の活躍
- 忠興をめぐる女人
- 玉子死後の忠興の子たち
1 忠興と玉子の苦悩
1589年7月、秀吉に嫡男、鶴松が生まれた。
秀吉は狂喜し、これで豊臣政権も安泰と公言した。
1591年9月、秀吉は、最愛の子、鶴松を亡くす。
あまりの悲しみに投げやりになって隠居し、関白を秀次に譲り聚楽第を明け渡した。
1592年、鶴松を失った悲しみを吹っ切るように、鶴松に与えたかった朝鮮を平定すると、朝鮮の役を始める。
鶴松とともに朝鮮を治めようと、日本からの出撃基地、名護屋城を築城していた。
城が完成し、城下に大名屋敷が立ち並び準備が整い、出撃の時が来たのだ。
忠興は、秀吉の忠臣を気取っており、秀吉の意向に沿い、名護屋城下に屋敷を建て、詰める。
名護屋城で出陣を見送り、勝利を確信した秀吉は、隠居城、伏見城築城を始める。
伏見城完成まで、大坂城を居城とした。
忠興は、細川勢を率い朝鮮に出撃することを命じられる。
その時、秀吉は、関白、秀次の弟、秀勝の後見を任せた。
秀勝は、総大将格での出陣だ。
忠興は、総大将の後見人として軍勢を仕切るのだ。責任は重い。
忠興に支えられた秀勝は、手柄を立てるようにとの秀吉の励ましの言葉に送られて朝鮮に出陣する。
秀勝の後見は、荷が重い役目だったが、乗り越えなければ細川家の未来はないと覚悟を決めた。
忠興は、預けられた、秀吉の後継になる可能性も大な、若き23歳の秀勝に手柄を立てさせようとしたが、反対に、1592年10月、朝鮮在陣中に病気にかかり死んだ。
秀勝に戦勲をもたらすこともできず、健康管理もできなかったのだ。
やむを得ない病死だと報告され、追及は免れるが秀吉の心証は悪い。
秀勝の妻は、お江。後に徳川幕府将軍、秀忠の妻になる女人だ。
お江の姉が、秀吉第一の側室であり、鶴松・秀頼の母となる茶々。
忠興は最高権力を持つ女人たちから憎まれてしまった。
汚名挽回のために、晋州(しんしゅう)城(じょう)攻防の戦いで奮戦するも、勝利できず、秀吉の評価はますます下がった。
秀吉に従い、玉造屋敷に戻った忠興は、苦悩の中にいた。
朝鮮の役でも、秀勝の後見でも、結果は散々だった。
秀吉から評価されないどころか、責任を問われる状況に陥っており、不安が高まる。
光秀を裏切り、父、幽(ゆう)斎(さい)から家督を譲られたが、期待されたほどには細川家を大きくすることも、秀吉からの信頼度を増すことも出来なかった。
そして、細川家の危機になるかもしれない事態を招いた。
玉子も父を裏切った代償がこれかと時には嘲笑する。
だが、落ち込む忠興を見ていると、心労を痛いほど感じ、労わりの言葉を優しくかける時もある。
忠興も、玉子の言葉に素直に頷くときもあれば、皮肉に聞こえ、極度の興奮状態に陥いり、激しく怒りだす時もある。
秀吉が渾身の力を込めた朝鮮の役だったが、細川家にとっては、莫大な資金を投じ、益のない虚しい戦いとなった。
忠興は、但馬5万3,000石を得ている前野(坪内)長康と領地が隣接することもあり親しくしていた。
前野(坪内)長康は、秀吉股肱の臣で、秀吉の主だった戦いには必ず従い戦勲を上げ、朝鮮の役でも武功を上げ、但馬国11万石を得た。
忠興と反対だ。
その上で、秀吉は、前野(坪内)長康を関白、秀次付きの筆頭家老とする。
前野(坪内)長康が秀次、筆頭家老となると、忠興と秀次とを取次、より親しさを増していく。
この頃は、秀吉が、秀次を後継とし、関白にしたと誰もが思っており、忠興も、どうもしっくりとはいかない秀吉より、秀次との縁を大切にするようになる。
忠興は、秀次との取次役を京都小笠原氏、秀清とする。
小笠原秀清は、細川家の大坂屋敷を統括し、玉子の付家老でもあった。
秀清の父は、将軍に近侍する室町幕府奉公衆で、藤孝の同僚だった。
だが、将軍、義輝とともに殺され、秀清は、浪人となった。
その後、義昭が将軍になると、藤孝に招かれ、客分となり、藤孝が義昭を離れると、藤孝に仕える。
そして細川家家老となった。
京都小笠原氏は、代々、将軍側近であり、有職故実の大家として高名だった。
小笠原秀清は、武家の伝統を重視する秀次に気に入られた。
そして、秀次の性格好みを知り、義妹、おさこの方が、秀次好みの美貌の女人だと自信をもって推す。
忠興から秀次が気に入る女人を見つけるよう指示されていたのだ。
秀次は、美しい才媛が好きだった。
そこで、忠興が、秀次にふさわしい女人だと、北野松梅院、禅興の娘、おさこの方を推した。長康も納得、秀次に推し、仕えることになった。
おさこの方や秀清の妻の父は、菅原道真を祀る北野天満宮の祠官(しかん)、北野松梅院、禅興。北野天満宮は、秀吉・秀次の庇護を受け、北野松梅院との関係も良好で、氏素性も申し分ない。
忠興の思惑通り、秀次はおさこの方を気に入り、側室とし、翌1593年、秀次4男、十丸を生む。
忠興は、おさこの方の後見人でもあり、秀次との縁を一層深める。
秀吉後は万全だと内心思うまでになる。
この縁は、前野(坪内)長康の働きなくしてありえなかった。
感謝の思いで、嫡男、景定と長女、長姫15歳の結婚を申し出る。
長康は喜び、秀吉も了解し、1594年、結婚する。
長康と共に、秀次を支えるのだ。
忠興の顔は自信に満ちていたが、不安の影もあった。
秀吉に1593年、秀頼が誕生したのだ。
秀吉は、秀頼の誕生を異常なほど喜んだ。
忠興は、鶴松のこともあり、無事育つか半信半疑だった。
だが、秀頼は元気に育ち、1594年、伏見城が完成すると、秀吉は、張り切って、秀頼と共に入城した。
玉子は、長姫と前野景定の結婚に反対だった。
秀吉を主君とする以上、長姫の結婚は、玉子と忠興の結婚を信長が決めたように、秀吉からの指示を待って決めるべきだと思っていたからだ。
長姫と前野景定の結婚話は前々からあったが、秀吉は、良き縁だとは推さなかった。
秀吉縁者の武将との結婚が、細川家にとって良いと考えていた。
ところが、忠興が、強引に願い出て、結婚となったのだ。
すでに秀頼が生まれており、秀次とより強い結びつきを持とうとする、諸大名に秀吉は警戒心を持ち初めていたときだ。
忠興は、秀頼が誕生する前から結婚の話は進んでおり、秀頼が生まれたからと言って、秀次が関白を取り上げられることはないはずだと自信を持って話した。
前野氏を裏切ることはできなかった。
秀次は、このまま関白でありつづけるし、秀頼に関白を譲る時が来ても、秀頼の後見となり、秀吉政権に力を持ち続けると、玉子の意見を聞かなかった。
玉子も、前野家は長姫を迎え入れる準備を整え、秀次も賛成していることであり、止めることは出来ないと諦めた。
そこで、精一杯嫁入り支度を整え、嫁がせる。
嫁ぐ前には、二人でゆっくりとした時間を過ごすことが出来た。
1579年生まれた長姫は、3歳で母と別れ、2年ほど母のいない暮らしだった。
不憫でならなかったが、2年後の再会で、母子の絆を感じることが出来た。
2年分の埋め合わせをすると、側近くに置き、愛情を降り注いだ。
男子と違い、嫁ぐ日が早いうちに決まる姫は、玉子の思い通り育てることができた。分身であり、かけがえのない宝だった。
父母の諍いをそばで見続け、玉子の手を握り支えになったことも度々だった。
いつも変わらない優しさで、玉子を励まし続けたのが長姫だった。
父母の役に立つ結婚であることを理解し、納得しており、嬉しそうに嫁いだ。
玉子も何が起きるかわからない不安はあったが、幸せになると信じて送り出した。
秀吉は、伏見城下に屋敷地を用意し、諸大名に屋敷を建て住むように命じていた。
秀吉に忠誠を尽くす証であり、皆競って屋敷を建てる。細川屋敷も出来る。
その上で、人質として、伏見城下に、大名の妻子を置くように命じた。
許される範囲でしか動けない人質ではあるが、皆自由であり、伏見は、侍女を含め、女人たちの美を競う地となる。
朝廷・公家も洗練された美を誇り、伏見と行き来する。
瞬く間に賑やかに華やかな城下町となり、伏見城はさながら、天下人の居城の様相を示していく。
玉子は移らなかった。
秀吉の心証はよくないが、大坂城近くの玉造屋敷に居ることで、忠誠心を見せ、追及はされなかった。
秀頼は、元気に育っていき、秀吉はご機嫌だ。
だが、秀次との仲が険悪になっていく。
玉子も胸騒ぎを感じていたが、現実のこととなる。
秀次は、秀吉を父とも主君とも思い、指示の下、関白としての職務を果たすべきだった。秀次も、当初はわきまえていた。
だが、秀吉は、朝鮮の役に力を入れすぎ、内政を秀次の思うようにさせた時があり、その間に、秀次は関白職に自信を持ってしまっていた。
秀頼が生まれ、伏見城に在城するときが増えた秀吉。
ここで、分相応に秀吉の指示を仰ぎ、関白としての職務を執り、緊密に連絡をとるべきだった。
ところが、指示を仰がない独自の政策、大名・公家との深い付き合いを変えようとしなかったし、変えられなかった。
秀吉は、秀頼を関白とする一番いい方法を模索する。
秀次の秀吉・秀頼への対応の仕方をじっと見続け、秀頼への政権移譲を円滑にできる能力がないと結論づけた。
こうして、秀次謀反の発覚となる。
1595年、秀次は謀反の企みありと捕縛、謹慎、幽閉となる。
その後の粛清の嵐は凄まじく、秀次は自死。妻子、縁のある多くの家臣縁者までもが処罰された。
前野長康・景定は秀次の公私に渡って、深く結びついており切腹。
おさこの方母子も処刑された。
忠興はまたしても、功を焦り失敗した。
秀頼の誕生を予期していなかったときもあったのだ。
玉子は、忠興の先見の明のなさをなじり、長姫に害が及ばないよう万全の対策を講じるよう迫った。
忠興も秀吉の動きをずっと注視しており、いち早く察知し長姫を前野家から細川家に連れ戻した。処刑の嵐の中、なんとしても長姫を守ると決意する。
秀吉は、忠興に長姫を伴い出頭を命じる。連座を疑われた。
長姫を引き渡せば、死罪が待っている。
忠興への処罰も避けられない。ひたすら謹慎し、嵐が通り過ぎるのを待つ。
忠興に策はなく、玉子の恐ろしい形相に応えることもできず、筆頭家老、松井康之(1550-1612)に任せる。
康之は、藤孝とともに将軍、義輝の側近だった。
その死後、義昭の将軍擁立に活躍し、その後、信長家臣となった。
京都奉行となった秀吉から見込まれ、直臣を望まれるほどだった。
康之は、藤孝の家臣となる道を選んだ。
誠心誠意、細川家・長姫と秀次の行状には一切の関係はないと事細かに証拠を挙げて弁明した。
朝鮮の役に多額の費用がかかり、秀次から多額の借り入れもあったが、家康の資金援助を得て素早く清算した。
見事に秀次とのすべての繋がりを消し去り、難を逃れ、長姫を守り切る。
伏見屋敷には、子ややがいた。
玉子は、子ややから状況が詳しく知らされる。
忠興が玉子に伏見屋敷に移るよう言った時、移るのを拒否し、代わりとなる女人として子ややを送った。
手塩にかけて育てた姪であり、忠興の好みを熟知している玉子が、忠興の好みや難しい性格について事細かく教え「(忠興の)身の回りの世話をするように」と厳しく命じ行かせたのだ。
そして伏見城の動きを知らせることも命じていた。
その知らせで長姫の危急を感じ、いち早く匿うことができた。
小ややは、玉子の言葉を忠実に守り、忠興に愛された。
忠興の側室となり
1598年、四女、万姫と四男、千丸の双子を生む。千丸はすぐに亡くなった。
1600年、5女、お市が生まれるが、夭折。
育ったのは万姫だけだが、3人の子を生み、伏見屋敷の奥を仕切り守る。
細川家中が一位団結して長姫を守りきった。
玉子35歳は、気が抜けたようになる。
長姫が生き長らえたことを契機に、藤の方と小ややに細川家の奥を任せ、妻としての役割を終えたいと思う。
細川家の女主として、なすべきことを終え、肩の荷を下ろし、良い気持ちだった。
藤の方を玉造屋敷に呼ぶことや文のやり取りも、余裕をもってできるようになる。
知れば知るほど玉子との縁の深さに驚き可愛く思う。
藤の方は、姉、倫子が荒木村次に嫁いだ時から仕え、亡くなるまで側を離れなかった。玉子よりずっと長く倫子の側にいたのだ。
村次と別れた後、秀満と再婚し子が生まれた倫子に呼ばれて以来、再び仕え、光秀に最後まで従った。玉子より明智家に詳しいほどだ。
玉子に仕えるようになると、倫子の苦悩を共通の思いとし、慎み深い姉妹のような仲となる。
違いは、忠興を、自分を認め救ってくれた恩人だと心から尊敬し慕っていることだ。倫子の影響を強く受け、倫子のように生きたいと思う心は、玉子に深く届いた。
子ややは、玉子そのものだ。
忠興は2人を受け入れた。
玉子の意思を尊重し、玉子とどこか共通する女人が好きなのだ。それでいいと思う。
すっきりした気分で、細川家・子達の行く末に目を配りつつ、心置きなく宗教を深めるべく突き進む。
玉子には、忠興は明智家と玉子を裏切り権力に擦り寄ったとの思いが深層心理にあり、忠興の一言で瞬時に、笑顔が怒りの顔に変わる。
しかも、裏切りの代償としての利益は、幽(ゆう)斎(さい)の隠居領や、秀吉に従い戦った九州征伐での恩賞として得た薩摩大隅の領地など1万石足らず、どさくさに紛れて奪った丹後国以外、信長時代からさほど増えたとは思えない。
細川家嫡流としての権威は吉兆家が持ち続け、忠興はあくまで細川家分家の当主でしかない。
玉子は、秀吉に重用されないと気がめいっている忠興に、手厳しく長姫の想い、甥達の想いも合わせ、非難し続けた。
不毛な言い争いに玉子もやるせなくなる。
諍いを繰り返す夫と過ごすよりは、キリスト教を学び祈る時間、来客との会話を大切にしたい。
長姫の救出は、大きな節目だった。