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直虎曽祖父、直平と娘、直の方|井伊直虎の生涯 前編(2)

だぶんやぶんこ


約 8281

 井伊家は伊井谷を本拠として以来、この地を守り、遠江守護に従いつつも、独立性を保ち、綿々と続いた。

だが、南北朝の戦いでは、南朝方で戦い、北朝方の今川氏に敗れ、敗者となり、一三九二年、北朝に吸収される形で、南北朝は一つとなる。

すると、勝利者の今川家に従うことになった。

以来、今川氏への従属性が強くなり、今川勢の一角を占め危険の多い戦いに駆り出されていく。

独立心旺盛な井伊家には苦渋の時となる。

だが、転機が訪れる。

一四〇五年、斯波(しば)()が今川氏に代わり遠江守護となったのだ。

斯波(しば)()は、遠江守護としての統治体制を固める為に、まずは遠江衆を取り込む事が必要と、今川氏に比べ緩い従属関係で配下とした。井伊家は息を吹き返した。

斯波(しば)()は、室町将軍足利家の有力一門衆で、有力守護大名であり、越前・尾張守護だった。

今川氏は、室町将軍足利家、嫡流の流れになる。

将軍との血縁では今川氏が上だが、この時、斯波氏の勢力は強大だった。

だが、奪われた今川氏も黙っていない、奪回の機会を狙い、一四〇七年、将軍を取り込み、守護の座を取り戻す。

再び争奪戦が始まる。

井伊氏は、斯波(しば)()のもとで緩い主従関係を保っておりこの状態を守りたく、必死の戦いを繰り広げ、今川氏に勝利した。

一四一九年、斯波氏は守護を取り戻す。

以来、井伊氏は、斯波氏を支える有力国人として重きをなし、独立性を守る。

その後、一四六七年、室町幕府の基盤の弱さを露呈する将軍後継を巡る争い、応仁の乱が起きる。

斯波(しば)()は西軍に属す。

今川氏当主、義忠((うじ)(ちか)の父)は、斯波(しば)()追い落としの好機だと、東軍に属し戦う。

東軍勢を率いた義忠は、抜群の軍事力を見せ、強かった。

狙い通り、斯波(しば)()に勝利すると、今川氏が優勢となる。

以後、押せ押せとなり、遠江への侵攻を堂々と繰り返し、斯波勢は追い詰められていく。

斯波(しば)()は凋落し、従う井伊氏も危うくなる。

そんな時、運良く、義忠が殺された。

一四七六年、義忠は、戦いに勝利し意気揚々と、居城に戻る途中、放たれた矢により死んだのだ。

油断があった。

勇猛な投手の急死で、今川家は混乱し、幼い(うじ)(ちか)が後継となるも、家中をまとめるのに精一杯となる。

ここで、今川氏の遠江侵攻はなくなり、井伊家は平和になった。

だが、平和も一時だった。北条早雲が現れたのだ。

(うじ)(ちか)が成長した一四九四年頃から、北条早雲が兵を率い、再々遠江に攻め込む。

井伊氏は、北条早雲にとても叶わず、次第に必死で防戦するだけとなる。

そして、一五〇八年、(うじ)(ちか)は室町将軍を取り込み、遠江守護の座を奪い返した。

それでも、あきらめられない井伊氏は斯波(しば)()に従い、守護職を取り戻す戦いを続けるが、(うじ)(ちか)も並外れた武将に成長し、斯波(しば)勢が対抗できる相手ではなかった。

(なお)(とら)の曾祖父、井伊家当主、直平は早くに、斯波(しば)()に見切りをつけ、今川氏に従うべきだったが、意地を見せすぎた。

義を重んじる井伊家の血筋が出た結果、全面降伏せざるを得なくなる。

一五一三年、詰めの城、三岳(みたけ)(じょう)を落とされ直平は力尽きた。

遠江守護奪還を目指した斯波(しば)義達は、尾張に逃げ去り、尾張でも追い詰められ消えていく。

今川(うじ)(ちか)は、激しく刃向い降伏した井伊直平に、高圧的な内容での和議を結ぶ。

従属的和議の条件は、

直平が隠居する事。

嫡男、直宗が家督を引き継ぐ事。

直宗の嫡男、直盛などを、人質に出す事。などなどだ。

今川方の目付として三岳(みたけ)(じょう)に三河の国人、奥平貞昌が軍勢を率い入る。

奥平貞昌勢の維持費として遠江国浜松荘が与えられ、井伊家の領地が削られた。

奥平氏の本拠はあくまで三河であり、井伊谷城や居館、井伊城の占拠ではなく監視を命じられただけだが、井伊氏の上に位置する。

後に、奥平貞昌のひ孫が、家康の孫姫、亀姫の婿になる、知勇を備えた三河の有力国人だ。

加えて、(うじ)(ちか)は、井伊家に今川氏重臣、小野重正(政直の父)を家老として送り込んだ。

小野政直の父、重正は、遠江支配の為に、(うじ)(ちか)から呼ばれ来ており、時を待っていた。

遠江赤狭(ごう)小野村(静岡県浜松市浜北区尾野)を与えられ、遠江小野氏が始まった。

小野氏は、古代日本、ヤマト王権の中央氏族として始まった。

遣隋使となった小野妹子など高級官僚や地方官僚を多数生み出し続いていた。

その一族が、平安の昔にこの地に遣わされ治め、田地を開発した。小野町と名付けられた。

この先祖に縁ある地を与えられ戻り、重正は、張り切って、今川氏の意向に沿って治めていく。

 井伊家は、軍事でも、内政でも(うじ)(ちか)の監視体制の中に置かれてしまった。

駿府での人質生活となった直盛は、元服すると今川一門、新野家の千賀((ゆう)椿(しゅん)())との結婚が決められた。

そして、結婚の詳細を決める今川家取次役に千賀の兄、新野親矩(にいのちかのり)がなる。

井伊家の取次ぎ役は、奥山(とも)(よし)

新野親矩(にいのちかのり)は井伊城に出向き、直宗・奥山(とも)(よし)と度々対面し話し合う。

(とも)(よし)新野親矩(にいのちかのり)と意気投合し、(とも)(よし)の妹と新野親矩(にいのちかのり)の結婚に繋がる。

結婚の交渉を通じても、今川(うじ)(ちか)は、井伊領に強力な支配体制を築こうとしたのだ。

今川氏の資金源として遠江(静岡県大井川以西)の重要性が増していたからだ。

一四九八年、発生した明応大地震と同時に起きた大津波によって、外海と繋がっていなかった浜名湖の一部が決壊し、外海と繋がった。

すると、水運がはるかに便利になり、陸海を繋ぐ交通の要所となり、遠江は富を生み出す地となった。

今川氏がどうしても支配下に置きたい地となったのだ。

(うじ)(ちか)は、小野氏に命じて井伊領を検地し収入を把握、税を決め強力な支配体制を築く。

井伊氏は、厳しく税を徴収され武田勢・三河勢との戦いに出陣させられる事になる。

だが、また幸運がやってくる。

一五二六年、今川(うじ)(ちか)が亡くなったのだ。

一三歳の嫡男、氏輝(1513-1536)が引き継ぐ。

代替わりの不安定さに加え、幼き当主、氏輝では強権支配は出来なかった。

やむなく、後見する寿(じゅ)(けい)()は内政重視の治世とした。

すると、今まで強権支配に苦しめられていた配下の国人衆は、独自の力を強めていく。

井伊氏も、再び、一息つくことができた。

時期到来と喜んだ直宗が、直盛と千賀の国元への帰還を、寿(じゅ)(けい)()に、願い、了解された。

直宗が、結婚した直盛に家督を譲りたいと申し出て、認められたのだ。

代わりに直宗の妻(直盛の母)浄心院と直平の一人娘、直の方が人質として駿府に入る。

直宗は、代替わりを実行する気はなかった。

今川家の状況を冷静に見て、急ぐことはないと判断していた。

ただ、次期当主、直盛を取り戻し、井伊領や家臣団との縁を深め、将来に備えようと考えただけだ。

直平の娘、直の方は、直平の孫、直盛より年下だ。

不思議だが、直平・直宗は一〇代前半に子を儲けていたからだ。

一四七九年生まれの直平。

一四九二年生まれの直宗。直平一三歳のときに生まれた。

一五〇六年生まれの直盛。直宗一四歳のときに生まれた。

一五一〇年生まれの直の方。直平三一歳のときに生まれた。

あまりに早い出来すぎた誕生だが、井伊家ではよくあること。

直盛・千賀の国元入りに伴って、奥山氏の娘と結婚した新野親矩(にいのちかのり)も、目付となり井伊谷城下に屋敷を構える。

妹を通じ直宗と、妻を通じ奥山氏との連携を築きつつ、井伊家中に発言力を強めていく。

あくまで、今川氏の意向に沿って働く。

今川一門、新野氏は、新野新城(舟ケ谷城)(御前崎市新野)を居城とし遠江城東郡(きとうぐん)新野郷を治めていた。

今川家が、氏輝率いる穏健な治世になると、圧迫されていた三河国が蘇る。

一五二三年、三河の盟主、松平宗家(徳川家)を継いだ清康(家康の祖父)が、すい星のごとく現れ、抜群の力を見せる。

まだ一二歳の若さだったが、破竹の進撃で、今川領だった三河を平定していく。

次第に、清康は、三河を統一し、遠江に迫る勢いで攻め込んでくる。

三岳(みたけ)城将、奥平氏も清康に従い戦い、今川配下から離れた。

だが、一五三五年一二月、清康は志半ばで殺され、反転、松平氏は今川氏の配下となる。

一五二六年、人質となり駿府城入りした直の方は、一六歳だった。

若さに溢れたみずみずしい美しさを持っていた。

寿(じゅ)(けい)()は、気に入り、側近くに置く。

今川家一門となった直盛の叔母であり、賢く、人質としての分別もわきまえており、氏輝の側近くで仕えさせる。

病弱な氏輝は、繊細な神経の持ち主で偉大な父を継ぐ自信がなく情緒不安に陥っていたからだ。

直の方は、三歳年下の氏輝を支え優しく見守った。

氏輝は、姉のように慕い結ばれる。

氏輝は寿(じゅ)(けい)()が何を言おうと、結婚しなかった。

直の方を愛したゆえであり、優しい性格で野望はなく、今ある領地を守り、直の方が側にいれば十分だった。

現状の今川家を率い、内政を重視することを続けた。

直の方は、実質、今川家当主、氏輝の妻となった。

それは、井伊家にとって、素晴らしい幸運だった。

氏輝は、直の方を愛したゆえに、井伊氏を強権的に扱うことはなく、尊重した。

直平・直宗は、直の方に支えられ、井伊家の存在価値を取り戻し、独立性を持つ、遠江衆の盟主に蘇った。

松平清康の動きを注視し、今川氏配下として、軍備を増強、軍事力を高めていく。

そんな中で、遠江を統括する福島(くしま)正成(まさなり)も力をつけていく。

(うじ)(ちか)から遠江を任せられ、氏輝も引き続き任せたため、遠江衆すべてを統括していた。

福島(くしま)正成(まさなり)は、代々今川氏重臣として、今川氏を支えた。

そして、娘を(うじ)(ちか)に仕えさせ、愛され、側室となり玄広恵探(げんこうえたん)(1517-1536)が生まれた。

寿(じゅ)(けい)()の認める子ではなく、玄広恵探(げんこうえたん)は生まれてまもなく、出家させられる。

だが、成長するに連れ、今川氏後継となるにふさわしい才知が現れ、称賛されていく、

福島(くしま)正成(まさなり)は、怒涛のごとく押し寄せる清康と対峙した。

一歩もひるまない覚悟で、遠江衆をまとめ率い戦う。

そんな緊張の中、孫の成長を喜び、弱腰の氏輝では、清康に負ける。

玄広恵探(げんこうえたん)こそ、今川氏後継になるべきだと野望を抱く。

「清康に勝つために孫、玄広恵探(げんこうえたん)が今川氏当主となり、遠江衆を率いる福島(くしま)正成(まさなり)が、先頭に立って戦うしかない」と見極めた。

そこで、今川一門筆頭、瀬名氏(遠江今川氏)以下遠江国人衆を味方にし、関東を支配する北条氏を後ろ盾にし、着々と玄広恵探(げんこうえたん)を擁する勢力をまとめていく。

ついに、蜂起すべく条件が整う。

一五三六年四月七日、氏輝は二三歳で亡くなる。

北条氏居城、小田原城で歌会を楽しんだ帰途、熱海で宿泊していた時の不可解な急死だった。

病弱だった氏輝だが、当主としての治世は安定していた、急死の様相はなかった。

わずか一〇年、今川氏当主として働いただけで、亡くなった。

待っていたかのように福島(くしま)正成(まさなり)は「今こそ時が来た」と勝利を確信して孫、玄広恵探(げんこうえたん)を後継にすべく挙兵する。

玄広恵探(げんこうえたん)は、一九歳の優秀な僧に育っており、還俗して今川家当主になりたいと、奮い立った。

直の方は、氏輝の死を聞き震えた。

父、直平に氏輝の健康状態や弟、義元を呼び寄せたことを知らせていたからだ。

小田原行の日程も知らせていた。

父、直平から玄広恵探(げんこうえたん)を推す勢力に伝わり、氏輝の急死に繋がったに違いないと。

氏輝は、病弱であり、子は生まれず、いつまで今川家当主としての務めを果たせるか自信がなかった。

そこで、同母弟、義元を呼び戻し、後継にしようと考えた。

強固に反対し、後継に玄広恵探(げんこうえたん)を推すのが、遠江衆を率いる福島(くしま)正成(まさなり)だった。

氏輝のすべてを知る直の方は、氏輝が亡くなり家督騒動が起きると、寿(じゅ)(けい)()にひれ伏する。

知りうる限りのことを、すべて打ち明け、父が関係したかもしれない暴挙を謝る。

直平も、直の方が今川家後継となる男子を産み、今川家当主となることを密かに願っていた。

福島(くしま)正成(まさなり)のようになりたいと夢見ていたが、子は生まれなかった。

それどころか、軍事力で今川氏の重要な一角を占め、戦うことを強要されるのみで、今川家中の重臣となり、動かす力を持つことはありえない状況だ。

今川氏配下で従うしかない状況を打開し、福島氏のように力を持ちたかった。

そんな時、福島(くしま)正成(まさなり)から助力してくれれば、井伊氏の領地を返し、さらに優遇すると持ちかけられた。

井伊家の力で、福島(くしま)正成(まさなり)が勝利すれば、井伊氏の領土は増え、権限は増し、繁栄の道が開くかもしれないのだ。

良い条件の提示に賛同した。

こうして、氏輝のすぐ下の弟、庶子の玄広恵探(げんこうえたん)と、その下になる弟、正室、寿(じゅ)(けい)()の子、義元との家督をめぐる熾烈な争い花倉(はなくら)の乱が勃発する。

寿(じゅ)(けい)()は直の方に「よくわかりました」と余裕で答え立ち上がる。

凄みのある顔をそれ以上にきりっとさせ、今川家を率い前面に立ち、嫡流の血筋を受け継ぐのが義元だとの大義を訴える。

正当性を高々と掲げ、北条氏・武田氏に味方になるよう訴え、納得させ、味方に付けた。

親戚網が張り巡らされており、それぞれが動き、寿(じゅ)(けい)()を支援した。

こうして、寿(じゅ)(けい)()の掲げる大義に賛同するものが増え、家中の大勢をまとめた寿(じゅ)(けい)()は強かった。

福島(くしま)正成(まさなり)は、一度は味方すると確認した北条氏に裏切られ、遠江はまとめたが今川家中はまとめることができなかった。

玄広恵探(げんこうえたん)福島(くしま)正成(まさなり)は敗北し、死んだ。

直の方は、寿(じゅ)(けい)()の意向に沿い動き、直平に義元・寿(じゅ)(けい)()に従うよう何度も願った。

その姿を見ていた寿(じゅ)(けい)()は、無事、義元に家督を継がせると、直の方を許し、義元に仕えるように命じる。

寿(じゅ)(けい)()は、直の方を信頼できる女人と認めたのだ。

遠江衆は玄広恵探(げんこうえたん)の死後、新当主、義元に従ったが、義元は謀反人を許さなかった。

寿(じゅ)(けい)()は、義元に「今は、今川家をまとめ率いるのが第一。遠江衆筆頭、瀬名氏(遠江今川氏)を抑える為にも影響力の大きい井伊氏を取り込むように」と諭した。

直の方には、義元に忠誠を尽くし、井伊氏を義元に忠誠を誓わせるよう、重要な役目を与えた。

義元は、一目で直の方に惹かれていた。

九歳も年上だったが、氏輝に愛された円熟した美しさに心奪われ、寿(じゅ)(けい)()の意に沿い直の方を側室にした。

直の方は、井伊家の為、精一杯、義元に尽くす。

義元は、敵に回った井伊氏への恨みすべてを消し去る事はできなかったが、直平の娘への愛ゆえに追及しなかった。

直の方は義元に尽くし仲睦まじかったが、翌一五三七年、武田信虎の娘(信玄の姉)定恵院と義元の婚儀が決まる。

今川氏と武田氏は戦い続けていたが、寿(じゅ)(けい)()は義元支持を頼み信虎と和解した。

義元が家督を継ぐと、和議の条件を煮詰め結婚が決まったのだ。

武田氏の恩に報い、義元の治世を軌道に乗せる為に、寿(じゅ)(けい)()は、結婚を決めた。

ここで、武田氏と今川氏の同盟が正式に成立した。

武田氏との同盟で今川家の平穏を保とうと考えたのは、北条氏を信頼できなくなったことも大きい。

北条氏綱は今川氏の内紛を喜び、影響力を強めようと福島(くしま)()を支援したからだ。

寿(じゅ)(けい)()は、同盟を結んでいる北条氏の裏切りに怒りながらも、氏綱に理路整然と義元支持を訴え了解させた。

氏綱の嫡男、氏康に嫁ぎ仲睦まじい愛娘、瑞渓院(ずいけいいん)の口添えも大きかった。

だが、状況次第でどちらにも動くのが、北条氏であり信用できない。

逃げた福島(くしま)氏の子は氏綱に庇護され娘、大頂院(だいちょういん)の婿養子、北条綱成となり、北条家一門となっている。

福島(くしま)氏との強い結びつきがあった証だ。

どうしても許せないのが、福島(くしま)氏に与した分家、遠江今川氏を受け継ぐ、堀越氏だ。

当主、貞基の妻が、北条氏綱の娘、埼姫であったため、裏切ったのだが、力を削ぐ。

代わりに、義元を支持した堀越氏の一門、瀬名氏嫡男、氏俊に、今川氏親の娘を嫁がせ、結びつきを強め、遠江今川氏を受け継がせる。

瀬名氏を堀越氏に代わり遠江今川氏を率いる嫡流と見なし、義元への忠誠を誓わせたのだ。

こうして、今川家中を義元の元、まとめた。

一安心する。

だが、寿(じゅ)(けい)()の頭の中に、直の方の悲しげな顔が浮かび、悩ますことになる。

それでも、なんでもないことのように毅然として、義元に身辺をきれいにするよう命じた。

武田氏への誠意を示す為に、義元の周辺の女人は遠ざけられた。

義元は、直の方の行く末をどうすべきか悩む。

側室とし側に置きたい思いはあったが、許されず、やむなく、信頼する側近、関口義広に下げ渡す。

寿(じゅ)(けい)()も大賛成であり、直の方の忠節を誉め、養女(義元の姉)とし精一杯の支度をして嫁がせた。

こうして、直の方は、関口義広に嫁ぐ。

直の方に野心はなく、氏輝との楽しい思い出を胸に秘めて、井伊氏の為、今川氏の為に当然の事と、結婚する。

直の方にとって八歳も年下の夫だった。

義広は、主君の愛妾を預かるとの考えで迎え、あまりに美しい直の方を、まぶしそうに見つめる。

義元に忠誠を尽くすのと同じように、直の方を大切にすると誓う。