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直虎、誕生|井伊直虎の生涯 前編(3)

だぶんやぶんこ


約 7083

氏輝が今川家を引き継いだどさくさに紛れて、井伊家に戻った直盛。

一つ年下の妻、千賀と井伊谷城での暮らしが始まり、仲よく過ごした。

七歳で井伊谷を離れ、二〇歳で戻った大好きな故郷だ。

長く待ちわびた日々だった。

長く故郷を離れ記憶が途切れていることも多かったが、懐かしく、戻れたことが正直うれしかった。

幼い頃を思い出しながら千賀に、井伊谷城のあれこれを語り掛ける。

すぐに家督を引き継ぐと思い、戻った。

だが、父、直盛は、家督を譲らない。

弟のように仲よくした氏輝が家督を継いだのだ。

今川氏との縁を大切に、従いつつ、ある程度の独立性をもって井伊家を率いるはずだった。

構想を練っていたが、当主にはなれなかった。

早く、家督を継ぎたい思いが、こみ上げるが、我慢するしかなかった。

もう一つの心配の種が、子が生まれないことだった。

家督を引き継ぐときに、嫡男が生まれていることが、今川家にも井伊家にも重要で価値あることであり、生まれないことは、たまらないほど不安になる。

父も祖父も若くして父親になっている。同じように早く嫡男の誕生を待ち焦がれた。

父、直盛と、波風立てることはなく、穏健な氏輝と有効な関係を保ちつつ、井伊家は安泰だと確信しつつ、一〇年間、井伊家のか得と嫡男の誕生を待ちつつ、平穏に過ごす。

そんな時、千賀に子が授かる。

狂喜し、生まれることを待ち望んだが、嫡男の誕生ではなかった。

一五三六年、生まれたのは姫、(なお)(とら)

この物語の主人公だ。

直盛は三〇歳。千賀は二九歳だった。

難産であり、年齢の事もあり、次に子が生まれる可能性は低かった。

期待が大きすぎたため、嬉しさ半分の直虎の誕生だった。

さらに、(なお)(とら)の誕生の直前、四月七日、氏輝が亡くなるという大事件が起きていた。

直盛にも千賀にも信じられない急死だった。

二人は、今まで築き上げた今川家との良い関係が壊れていく予感に震える。

井伊家に暗雲が垂れこめると空恐ろしく感じた時、直虎が生まれたのだ。

今川家の熾烈な家督相続の戦いが始まった。

二人は、氏輝が望んだ弟、義元が後継になることを祈るが、井伊家中は違った。

直盛は新野親矩(にいのちかのり)と兄弟のように付き合い、小野氏との関係も良く、後継、義元のもと、今まで通り配下でありたいと思う。

だが、直平は、反義元の立場を貫き、玄広恵探(げんこうえたん)を擁し決起した。

だが、敗北し、義元に降伏、従うしかなかった。

義元は、直平・直宗の裏切りに激怒し、深く心に刻み、許さない。

直平・直宗も、降伏はしたが、いつ義元が攻め込んでくるかもしれないと、身構え、戦いの準備をした。

ここで義元は、まず、当主として今川家中をまとめることが先決と、怒りを抑えた。

井伊家への処分を延ばし、降伏を受け入れた。

身内で争った家督引き継ぎの後遺症は大きく、家中の内紛を抑えることがより重要だった。

井伊家は、命拾いをした。

こんな状況下での(なお)(とら)の誕生だった。

しかも、義元は氏輝と違い、野心家で軍事力にも秀で、強い統率力を持っていく。

直盛の父、直宗は、直虎の誕生を公表しない事が、井伊家にとって得策だと直盛に告げる。

直盛も、今直虎の誕生を公表すれば、駿府に連れて行かれるのは間違いなく、人質とするのは避けたいと賛成した。

こうして、今川氏はもちろん、家中にも公表されずに生まれたのが直虎だった。

後の彦根藩三五万石の礎となった直虎だが、ほんの少人数に見守れただけで、隠された出生だった。

直虎の生まれが謎に包まれる。

義元が、井伊家に厳しい処分をしなかったのは、寿(じゅ)(けい)()指示があったためだ。

寿(じゅ)(けい)()は、義元が家督を引き継ぐために、獅子奮迅の働きをし、勝利した。

義元は、母に感謝するしかなく、家督を巡って起きた内紛での敵味方にこだわるよりは、まず、当主、義元として内政に取り組むよう命じられ、受け入れた。

そんな寿(じゅ)(けい)()が、許さなかったのが、北条氏綱。

愛娘、瑞渓院(ずいけいいん)を嫁がせ、固く同盟を結んだはずの北条氏が、家督騒動に付け込み、あおり、玄広恵探(げんこうえたん)を擁した裏切りを許せなかった。

それでも、北条氏綱に嫡流の義元が後継であるべきで、氏輝の遺言でもあるとの大義をかざして、迫り、玄広恵探(げんこうえたん)から切り離すことに成功した。

その時、北条氏を頼れないと見限り、武田氏と結んだのだ。

当然の事だった。

そして、義元の家督引き継ぎが成功すると、武田信虎の娘、定恵院(1519-1550)と義元の結婚を決めた。

武田氏との縁が義元に必要と判断した。

ところが、寿(じゅ)(けい)()に迫られ、玄広恵探(げんこうえたん)から離れ、義元を支持した氏綱は、義元の結婚に怒った。

北条家の力で義元に家督を継がせたと自負し、末永く友好関係を結ぼうと、娘との結婚を考えていたからだ。

「(寿(じゅ)(けい)()・義元は)北条氏の大恩を忘れ、激しく戦っていた敵、武田氏と結び裏切った」と怒り、許せない。

今川氏との同盟は破棄され、敵となったと、今川領河東(富士川以東の地域)の占拠へと向かわせた。

北条勢が、今川領に侵攻し占拠した。一五三七年、河東(かとう)(らん)だ。

ここで、玄広恵探(げんこうえたん)に与し、敗れ、義元に従った、遠江衆が、義元から離反し、氏綱に従った。

今川一門、瀬名氏が氏綱の娘婿だったため、北条勢に与したのだ。

その時、福島(くしま)()滅亡後、遠江衆の盟主的存在となり信望を得ている直平に与するよう働きかけた。

井伊氏が動かないと、瀬名氏も動けない。

直平は、瀬名氏の頼みを断れず加わった。

直平・直宗は、かっての遠江守護につながる堀越氏との縁は深く、長く良好な関係を保っていた。

ここで、遠江衆はまとまり、義元に反旗を翻した。

直の方は、必死で、義元を支持して動かないで欲しいと願ったが、直平は兵を動かした。

瀬名氏と共に、北条氏綱勢と図り、義元勢を、挟み撃ちにする戦いに、立ち上がったのだ。

寿(じゅ)(けい)()・義元は遠江の支配権を守ることがより重要と、北条氏の河東侵略に目をつぶり、主力の軍勢を遠江鎮圧に向ける。

遠江勢、堀越氏・井伊氏らは北条勢を支援しただけで、後ろから義元を脅かそうと背後を固めただけだ。

今川氏との全面対決は考えていなかった。

高圧的に遠江を支配しようとする義元との関係を、ある程度の独立性を保ちながら優遇される事を目指す戦いだった。

遠江勢は、思いの外の展開に慌てる。

その上、義元は、三河衆を味方にし、遠江衆の背後から三河勢に攻撃を命じることができた。

かって三河に侵攻していた今川氏だが、松平清康の勢力に押され三河から手を引かざるを得ない状況に陥っていた。

だが、一五三五年一二月、清康が暗殺された。

ここから、松平家中が混乱し内紛を起こし弱体化していく。

今川勢は息を吹き返し三河衆に対し反転攻勢に出た。

まだ若い清康嫡男、広忠への影響力を強めながら松平氏を配下にし、三河衆を従わせたのだ。

その為、遠江衆は背後から三河衆の攻勢を受けることになった。

今川勢の主力を前にして、背後の脅威もあり、戦意をなくし、再び義元へ臣従する。

義元は、意気揚々と胸を張り、再び臣従した遠江衆を、粛清や冷遇しつつ受け入れる。

だが、ここでも、寿(じゅ)(けい)()は、義元に内政に取り組むよう命じた。

関口義広と直の方は、堀越氏・井伊氏らの離反を食い止める為に必死になって働き、井伊氏を躊躇させた。

戦いを止めることはできなかったが、井伊勢が総力を上げて戦うことはなかった。

瀬名一族でもある関口義広だったが、瀬名氏と全面的に対決し、義元に尽くし戦い抜いた。

直の方を愛する故でもあるが、義元に高く評価される。

全面対決を回避できた直の方は、井伊氏への穏便な制裁を願う。

義元は、堀越氏の所領の多くを取り上げたが、井伊氏はただ同調しただけだと制裁を抑えた。

この間、小野氏・新野親矩(にいのちかのり)も、懸命に直平・直宗に義元に従うよう説き続けた。

目的を達するまでには至らなかったが、井伊勢総力を挙げての全面的対決を避けることはできた。

ここで義元は、今川家重臣、小野・松井・松下氏。加えて今川氏に従う近藤・鈴木・菅沼氏、そして井伊氏一門、中野氏を、改めて今川氏からの陪臣、七人衆に任じ、井伊家中を仕切らせる。

皆、遠江近辺の国人衆であり井伊家と長く縁があったが、改めて今川家家臣として、井伊家に送り込み、政務に関わらせ、義元の意向に沿い家中を仕切らせる。

その中で、義元が筆頭家老としたのが、小野政直だ。

先祖には遣隋使として有名な小野妹子や遣唐使がいる。

長く続いた最高級の官僚であり、教養に秀でた文人の家系だ。

時を経て、井伊家に家老として送り込まれ、才を発揮した。

その後、井伊家が義元と敵対した時も留まり、戦いを未然に収めたいと努力を続けた。

井伊氏のもとで、行政官僚として優れた実績を上げており、功を認め、抜擢した。

直盛は井伊家の独立性を重んじる気概を持っていたが、直の方と協力し今川勢の一翼を担い、義元に重んじられる良好な関係が、井伊氏にとって必要であり、井伊氏を守ることに通じると考えた。

妻やその兄、新野親矩(にいのちかのり)を信頼し、七人衆の能力を認め、合議制で、治めることを受け入れた。

だが、直平は違った。直の方を奪われたとの思いが強い。

直宗も、直盛から無理やり引き離されたとの思いが強い。二人共、今川氏憎しの思いを持っている。

今川勢の先兵となり戦い、義元の意を代弁する重臣が送り込まれ、思うように家中を操られていると、義元憎しの思いが増すばかりだった。

この思いを共有しない直盛には家督を譲れなかった。

それでも、義元に一矢報いた後で、家督を譲るつもりだったが、実現できなかった。

義元は、北条氏の更なる侵攻を防ぎつつ、武田氏との同盟を生かし内政を固める。

同時に、広忠(家康の父)の庇護を名目に、松平家内紛を終結させ三河を配下にした。

一五四一年、義元に幸運が巡り来たかのように、北条氏綱が亡くなる。

この日を待っていた義元は、河東を占領した憎き北条氏への反攻を始めると決意。

まずは、配下の国人衆の掌握に乗り出し、軍事力を行使し、従う国人衆を増やすことにも成果を上げていく。

快進撃し「海道一の弓取り」と称賛されるまでになる。

直盛は、義元が家督を引き継ぐ前から、臣従の姿勢を貫いていた。

家督引継ぎ前後の義元は、内紛と混乱の収拾に手一杯だった。

そのため、井伊家を臣従させることに強権を発動したが、直盛の子までは関心がなく、(なお)(とら)には幸運だった。

家中一同の祝福を受けたわけではなく、密やかに誕生を祝福されただけの(なお)(とら)だが、大きな産声を上げ健やかに生まれた。両親はにこやかに、成長を見守り、直虎は自由に元気に育った。

それでも、義元が秀でた統治能力を発揮し、今川氏の力が増してくると、伏せていた(なお)(とら)の誕生を義元へどのように伝えるべきか悩む。

今川一門から迎えた妻であり、他に直盛の子が生まれたとしても、義元が了解するはずはなく、後継とすることは出来ない。直盛も、主君、今川氏を重んじ、側室を置くこともなかった。

このままでは、(なお)(とら)に義元の推す婿養子を迎えるしかなく、井伊家は乗っ取られてしまうと直平や直宗は恐れた。

長く続いた井伊氏に今川家縁の当主を迎えることは、井伊家の独自性をなくすことになると、義元へ忠誠を誓う直盛であっても、耐えられない。

また、(なお)(とら)は、駿府への人質となることを命じられるはずだ。

それは、直の方のような運命を辿ることになる可能性も大で、これも避けたい。

悩む直盛と千賀は、義元の怒りが解ける日まで時間稼ぎするしかないと、姫ではなく男子が生まれた事とする。

直の方の二の舞はさせないと、姫に井伊家の惣領の幼名「次郎」をつけた。

井伊家に後継ありと義元に知らせたのだ。

こうして、(なお)(とら)は少数の腹心だけにしか姫であることを知らされず男子として育つことになる。

将来、(なお)(とら)を名乗り井伊家当主となる姫の幼名は、井伊家の嫡男に付けられる「次郎」であり、嫡男として育てられる。

この時代、姫を男として育てるのは難しいはずだが、一族の結束は強く、難なくこなした。

井伊家には不可思議ばかりで、面白い。

義元(よしもと)も、直平・直宗の忠誠心を疑い、直盛に家督を引き渡さないことも不満だった。

そこで一五四二年八月、当主、直宗に三河田原城攻めを命じる。

三河国人、戸田氏は、義元に従っているが、織田家に通じている疑いもあり、威嚇するためだ。

井伊勢には、利のない気乗りのしない戦いであり、当主が出陣するまでもないと考えたが、義元は厳しく直宗に命じた。

やむなく、義父、井平直郷と義弟を従え、井伊勢を率い出陣する。

義元に従う田原城主、戸田康光に戦う意思はなかった。

そこで、直宗は、戸田康光の義元への忠誠心を確認し、国元へ戻ると決めた。

余裕の撤退を進め、大方の陣を引いた中で、親しい井平直郷と義弟と団らんしていた。

そんな時、直宗めがけて野武士が襲う。

直宗は、身代わりになろうとした直郷親子と共に殺された。

その報を知らされた井伊家中は、義元(よしもと)が命じ殺したと、悲しみに震えた。

義元は満足そうに、直盛に「井伊家当主とする。今川一門として一層の忠誠を尽くすよう」と命じる。

信頼する直盛を早く当主とし、井伊家の実権を握ろうとしたのだ。

直宗五〇歳の無残な死により、直盛は三六歳で後継となる。

直盛は、駿府で暮らした時が長く、今川家中に囲まれて育ち、氏輝が主君であり後継、義元を主君だと忠誠を誓っていた。

そのため、義元と対立する直平・直宗の動きに心を痛め、早く後を継ぎ良好な関係を築きたかった。

家督を譲らない父に怒りさえ持っていたが、このような最後を迎えるとは予期していなかった。

自分の甘さ、義元の邪悪さも感じ将来への不安があるが「(直宗が討ち死にしたのは)父上の油断でもある。自分は用心深く対処し名君になる」と複雑な思いを秘めて、井伊家当主となる。

義元は、問題も多いが優れた主君だ。

共に進めば井伊家に益をもたらすと確信していた。

直盛は、井伊谷城に戻って以来、隠居し時間の余裕のあった直平の教えを直接受け、焦らず、じっくりと情勢を見て、決断し、決めたなら迷うことなく一直線に進む当主としてのあるべき姿を学んだ。

直平の教えは的確であり、目を見張ることばかりだった。

ただ、義元憎しの思いがあちこちに出るのは、受け入れられない。

博識であり、戦いの経験も数多く、学ぶことが多かったが、意見を聞かれることは少なかった。

自分の思いを正直に言えない辛さがあった。

直盛自らの考えを述べる事は控え黙った。

直平は井伊家では絶対的な存在だ。

直虎を男子として育てることに賛成したため、嫡男、直虎の存在を誰も疑わなかったのだ。

直平が病弱で公表できなかったが、男子が元気に育っていることを祝うと、家中は疑うことなく信じた。

有難いことだった。

だが、直盛が当主となり、義元との関係は今まで以上に密になる。

直虎に関して義元の関心も高まるはずだ。

慎重に動かねばと自身を戒める。

一五四五年、義元は、一五四一年、北条氏綱亡き後準備を進めてきた占領されたままの河東奪還に出陣する。

堀越氏・瀬名氏・井伊氏ら遠江衆を完全に配下としたうえで武田勢と共に北条勢を挟み討ちにし、侵攻された地を取り戻す。

ここで、武田信玄が仲介を申し出て、停戦し、和議を結ぶ。

今川氏・北条氏・武田氏が、敵ではなく味方同士となった。

この延長で三氏がより強く結ばれる「甲相駿三国同盟」が成立することになる。