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直虎と直親|井伊直虎の生涯 前編(5)

だぶんやぶんこ


約 6090

父、直盛の命令で、(なお)(とら)七歳は、同い年の(なお)(ちか)と婚約した。

いくつもの儀式をこなさざるを得ず、窮屈で嫌だったが、父母に見つめられ、やむなくこなした。

(なお)(ちか)とは幼馴染であり、よく知っていたが、それ以上の想いはなく、近習が一人増えた程度のことだった。

ただ、両親の思い、(なお)(とら)を駿府への人質にしたくなく直の方のようになることを拒否した、結果での婚約。

と教えられ、父母とともに井伊城に暮らすためにやむを得ない決定だと受け入れた。

(なお)(ちか)は「次期、井伊家当主」と決まったが、きょとんとして我が事とは思えない。

それどころか一族の歓喜ぶりを見て、責任の重さが苦しくてその任はふさわしくないと、井伊家当主などなりたくないと思うほどだ。

静かな暮らしが一変し、周囲の状況は目まぐるしく変わっていく。

井伊谷城山麓の井伊城本丸内に、(なお)(ちか)の屋敷もあり(なお)(とら)の屋敷と近いが、当主の屋敷とは格が違い煩雑に行き来することはなかった。

その為、今まで、(なお)(とら)と親しく顔を合わせる機会は少なかった。

婚約の儀式を済ませると、直盛は再々、(なお)(ちか)を呼び、(なお)(とら)と会わせた。

(なお)(とら)の印象は「なんておとなしい人なのだろう」。

(なお)(ちか)は、直盛・直虎の前ではひたすら頭を下げるばかりだ。

直虎の存在感に圧倒されていた。

直虎には、井伊家を引き継ぐ自信とオーラがあふれていた。

主君の姫としか思えず気安く話すことさえ出来ず、うつむくしかなかった。

(なお)(とら)は、父を継ぐのは自分だと思っており、(なお)(ちか)との結婚はまだしも婿養子として当主に迎える事には納得できない。

しかも、(なお)(ちか)はぎこちなく(なお)(とら)を見上げることが多く、物足りない。

その為、(なお)(ちか)との対面は面白くなかった。

婚約以後、直盛と弟、(なお)(みつ)と直義とは、ぎくしゃくとした関係となっていく。

直平の薫陶を受けた直盛は、井伊家御曹司として大切に扱われ、弟、(なお)(みつ)と直義とは、育ちも待遇も一線を引いていた。

その様子を見ていた(なお)(とら)も、(なお)(みつ)と直義をただの一門衆に過ぎないと思う。

直盛は、(なお)(ちか)を婿とすると決めた時、引き取り(なお)(とら)と共に育て、婿入りで始まった井伊家初代と同じ道を歩もうと決めた。

(なお)(みつ)から引き離すつもりだった。

(なお)(みつ)に、井伊宗家屋敷のある本丸内「井伊城」に(なお)(ちか)を引き取ると話す。

だが、(なお)(みつ)は色々言い訳しつつ、(なお)(ちか)を引き渡さない。

(なお)(ちか)は、直盛の呼び出しに応じて出向くだけだ。

直盛は、腹立たしく思うが、義元から再々呼び出され、井伊谷を離れることが増えていた。

義元の戦力の重要な一角を占め、出陣せざるを得ない。

義元の野望は尾張・相模へと広がり、戦いが続いた。

残念だったが「忙しすぎる」と(なお)(ちか)を引き取ることを延ばす。

そこで井伊谷城山麓の本丸北側に、二宮屋敷を建て、(なお)(ちか)のための居館とする。

南東麓に位置する本丸井伊城の直虎の屋敷の近くだ。

直虎と親しく会い、将来に備えるためだ。

この地には、かって宗良親王のために築かれた二宮御所があった。

その旧二宮御所を整備し(なお)(ちか)に与えたのだ。

(なお)(ちか)が、養子となる体面を保つに十分な屋敷だ。

父、(なお)(みつ)や一族と共に、移り住んだ。

直平も、(なお)(みつ)と直義を家臣と見なしており、直盛の決断に賛成できず、迷っていた。

義元は力を付け、直宗を戦死に追い込むなど井伊家を翻弄する動きが続いていた。

その力を目の当たりにして、義元と敵対するのではなく、(なお)(とら)が義元の子もしくは養子を婿に迎え、井伊家は今川家一門衆として力を奮うべきかもしれないと思うのだ。

関口義広に嫁いだ直の方に、子が生まれ仲睦まじく、義広は義元側近の実力者となっている。

井伊家が、義元に従い勢力を伸ばしつつ、末永く安泰であればそれも良しと思うようになった。

六四歳の高齢となり、直盛ほど井伊家の独立性にこだわる気はない。

だが、直盛は、直の方が幸せだったかどうか疑問に思っていた。

井伊家を直虎に託したく、直盛に忠実な婿を迎えるとの決意は揺るがない。

直元は素直に今川家に入り、人質の役目を果たしている。

直元が駿府に常駐するようになると、それまで、常駐していた直義は、井伊谷と行き来する取次役となった。

井伊家を代表する顔となったのだ。

(なお)(みつ)は、次期当主の父として、思いのままの振る舞いが目立ってくる。

勇猛で優秀だと自任する二人は家臣ではなく筆頭家老を目指し、井伊家中を主導する力を持ちたいと考えた。

直盛は、素直には従わない二人が許せない。

直平も、二人の勝手な振る舞いを許すことができない。

そんな内外の思惑が高まる中で、(なお)(とら)(なお)(ちか)が、度々対面を繰り返しながら、二年が過ぎた。

(なお)(とら)は、ますます、結婚が現実のこととは思えなくなっていた。

父を継ぐのは自分だと思っており(なお)(ちか)を婿養子として当主に迎え、直虎は一歩も二歩も引く立場となることを理解できない。

直虎の地位を(なお)(ちか)が奪うのだと思え、腹が立ち、対面も面白くなくなる。

(なお)(ちか)も訳が分からないまま、次期当主にされ戸惑うばかりで、会うのも気が重かった。

そして、一五四五年二月、義元により(なお)(ちか)の父は殺され、(なお)(ちか)の命が狙われることになった。

直盛は、(なお)(ちか)まで義元の標的になるとは予期していなかった。

予想外の進展に驚きながらも、一〇歳の(なお)(ちか)を守ろうとする。

直宗・(なお)(みつ)の粛清は予期したが、予想以上の仕打ちに義元の井伊家へ根強い不信感があることに血の気が引く思いだった。

心して、義元に忠誠を誓わなくてはならないと、自らを戒める。

叔父(父の弟)南渓瑞聞(なんけいたんぶん)(なお)(ちか)を匿うよう頼み、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)が、弟子、東光院住職の(のう)(ちゅう)和尚(おしょう)に頼んだ。

(なお)(ちか)は、守役の(なお)(みつ)家老、今村正実や近習に守られて危機一髪で、屋敷を脱出し逃げ、渋川にある東光院(浜松市北区引佐町渋川)に行く。

(のう)(ちゅう)和尚(おしょう)は、新野親矩(にいのちかのり)のいとこになる。

新野親矩(にいのちかのり)も直親が生き延びることを望み、惜しみなく、(なお)(ちか)の命を守るために働く。

東光院に(なお)(ちか)を届けた、(なお)(みつ)家老、今村正実は「(なお)(ちか)様は亡くなった」と公表する。信じたものは少ないが。

(なお)(ちか)の命を守るために、少しでも時間稼ぎをしたかった。

井伊家当主の母になる幸運に酔いしれていた(なお)(ちか)の母も、奈落の底に落ちた。

夫は謀反人となり、子は亡くなり、婚家、直満家は断絶したのだから。

あまりの不幸に気が動転し正気を失うが、(なお)(ちか)の無事を知らされると、父、鈴木重勝に促され、再起を誓い実家に戻る。

「このようなことは許されない。((なお)(みつ)の)無念を晴らし((なお)(ちか)の)命を守り井伊家当主とする」との思いが渦巻いた。

今村正実にどのようなことがあっても(なお)(ちか)の命を守るようにと、気を強くして命じる。

幸運に酔いしれて甘えがあったと我が身を責める。

(なお)(ちか)の母は、義元から井伊家七人衆の一人に任じられ、井伊領を治めるよう命じられた鈴木重勝の娘。

鈴木氏は、熊野本宮の神官を受け継ぐ家系になる。

神官として熊野神社の勧進や熊野を基地とする商取引などの役目を担い、太平洋側の海上交通を指揮し、各地を訪れた。

そして、鎌倉時代末頃、三河国加茂郡矢並郷(愛知県豊田市矢並町)に在地した一族がいた。

室町時代に入ると、矢並を本拠として加茂郡一帯に勢力を広げて、三河西北部の有力国人となる。

それから、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)などの諸家に分かれた。

鈴木重勝は、酒呑鈴木家を率い、今川氏に属し、井伊家に付けられ井伊家重臣となった。

直平は、鈴木重勝の能力を高く評価し、義元との取次が円滑に進むよう、娘を(なお)(みつ)の妻に迎えた。

井伊家一門とし、井伊家に取り込もうとしたのだ。

逃亡した(なお)(ちか)を見守る役目を担うのが、直平の庶子、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)

直平の父、直氏は、京で臨済宗妙心寺派の文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師に出会い、深く寄与した

一五〇七年、文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師を井伊谷に招き、井伊家菩提寺を臨済宗とすると決め、開基を願った。

井伊家初代、共保が一〇九三年、葬られ菩提寺とした自浄寺(浜松市)を、改修修復拡大し、建立した。

壮大に堂宇を整え井伊家菩提寺、臨済宗龍泰寺龍潭寺(りょうたんじ))となる。

 この間、直平は、文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師と出会い、父と同じように深く寄与する。

そんな時生まれた庶子、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)を、伊平氏をはばかり僧とすると決め、文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師に預けた。

文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師が、妙心寺住職となり京に戻ると、弟子、黙宗(もくじゅう)(ずい)(えん)が、後を継ぎ龍泰寺(龍潭寺(りょうたんじ))二世となる。

直盛が葬られる時、その法名を取り以後、龍潭寺(りょうたんじ)となる。

南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は非常に優秀で、井伊家菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)を任せるのにふさわしい僧侶となった。

直平・直盛の信頼も篤く、高僧として慕われつつ、種々の人脈を築いていた。

南渓瑞聞(なんけいたんぶん)(なお)(ちか)の間を行き来し取り次ぐ役目を、(なお)(ちか)の母の願いで弟、鈴木重時が担う。

重時は、奥山朝利の長女((なお)(ちか)の妻の姉)と結婚したばかりだった。

また、奥山朝利の妹は、直虎の母、千賀の兄、新野親矩(にいのちかのり)と結婚している。

南渓瑞聞(なんけいたんぶん)・鈴木重時・奥山朝利・新野親矩(にいのちかのり)は、(なお)(ちか)を中心として、深く結びついた。

今川義元は、(なお)(ちか)を殺すと決めており、命じられた小野氏は追及の手を緩めない。

東光院で(なお)(ちか)を隠し通す事は難しくなる。

そこで、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)らは、(なお)(ちか)の今後をどうするか、話し合う。

(なお)(ちか)の逃亡先に、

南渓瑞聞(なんけいたんぶん)は、師、文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師が一五一二年、開基の松源寺(長野県下伊那郡高森町)を推す。

下伊那(長野県下伊那郡)の国人、松岡城主、松岡貞正の弟が文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師だった。

鈴木重時も、妻の実家、奥山氏と親しい下伊那の有力国人、松岡氏の菩提寺、松源寺を推す。

奥山氏は、奥山郷に高根城(久頭(くず)(ごう)城)を築いて以来、領地に近い独立性の強い下伊那の国人と親しい。

直平・直盛も、賛成だ。

文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師が、井伊谷を去っても、南渓瑞聞(なんけいたんぶん)を通じて、縁があった。

直平・直盛は、文叔(ぶんしゅく)(ずい)(いく)禅師を厚遇し、松岡氏との付き合いも長く続けていた。

 こうして皆の思いは一致し、(なお)(ちか)を松源寺に逃がすことに決める。

松岡氏は、平安時代中期、奥六郡(岩手県奥州市から盛岡市)を支配した安倍氏から始まる。

安倍貞任が一〇六二年に起きた「前九年の役」で国司と戦い敗れ、幼い次男は乳母に連れられ逃れ、市田郷牛牧に土着する。

ここで、武勇に秀でた武将に成長し、推されて地頭となり治め、松岡氏を名乗る。

南北朝時代、北朝方の信濃守護、小笠原氏の配下となり戦う。

そこで、一三三九年、天竜川の西、高さ約一一〇mの間ヶ沢と銚子ヶ洞の深い谷に挟まれた東へ伸びる舌状台地に強固な松岡城を築城して本拠とした。

信濃守護、小笠原氏に従い戦ったが、小笠原家が衰退すると、座光寺・宮崎・竜口氏など下伊那衆を支配下に置き、下伊那の有力国人に躍り出た。

松岡貞正を引き継いだ嫡男、貞利は、井伊家から受けた厚遇を知っており、喜んで(なお)(ちか)を受け入れた。

こうして、(なお)(ちか)主従は、能仲和尚の先導で松源寺に逃げ、領主、松岡貞利に庇護され暮らす。

(なお)(ちか)との連絡を受け持つ鈴木重時。

だが、三河が本拠であり、この地は、織田勢と今川勢とのせめぎ合いが激しくなり義元の目が厳しく光っていた。

下伊那は地理的にも遠く、逃亡者、(なお)(ちか)の元に再々行くことは難しくなる。

やむなく、重時の妻、奥山氏長女が代わりに兄、朝宗を推し(なお)(ちか)の母も納得する。

こうして、朝宗が(なお)(ちか)を励まし必要なものを届け支える役目を懸命に努めることになる。

直親は、年齢も近い奥山朝宗と波長が合い頼りにする。

直虎の父、直盛は南渓瑞聞(なんけいたんぶん)から詳細な報告を受けつつ、仕送りを続け、(なお)(ちか)が不自由なく暮らせるよう取り計らう。