幻冬舎グループの作品投稿サイト

読むCafe
 

川上座、完成|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(6)

だぶんやぶんこ


約 3396

音二郎が(さだ)(やっこ)に熱く語った夢が、外遊と自前の劇団だった。

怖いもの知らずで太っ腹の(さだ)(やっこ)は「何でもない事、夢の実現は大丈夫」と請け負った。

まず、音二郎をパリに送り出した。

すぐに、次は劇団を作ることと思いを巡らし、動き始める。

川上一座を支える予想外の支出があり、思い通りにはいかないが。

それでも、音次郎がパリに出立すると、芸者最後の荒稼ぎをして、お金を貯めた。

そして、神田三崎町に土地を見つけた。

音二郎が戻ると二人で買った。

同時に、音次郎の留守中、川上一座の面倒を見ながら「川上座」建設のために支援者からの寄付を願い続け、目処は出来た。

一座を支えるための出費があり、貞奴の目標とした資金までは残せなかったが。

ところが、川上一座の団結が壊れかけていた。

音二郎は、座員に何も言わず、秘密裏にパリに行った。

その後、川上座は演劇を続けるも、興行的にはさっぱりで、一座に不満が残った。

座員の暮らしは(さだ)(やっこ)が面倒を見たが、音二郎への不信感までは払しょくできなかった。

音二郎は、帰ると草案を練っていた「意外」シリーズの興行で再起を図り、大好評で成功する。

それでも、一座にぎすぎすとした緊張感が続いた。

音二郎は、スパっとした性格で、うじうじ悩むこともない。

下手な妥協案を出すのも嫌いだ。

貞奴と結婚し、新居ができた音二郎は、謝罪し、将来の展望を話し、妥協案を出すことはない。

自信をもって不満分子を追い出しただけだ。

そして、川上一座を再編する。

貞奴は、喧嘩は好きではない。

音次郎の決断に賛成できないが、音次郎の夢の実現のために、信じついてくる者だけで川上座を作るべきだとの音次郎の言葉を、しぶしぶ受け入れる。

苦労をともにした座員が去った。

結婚の年、1894年(明治二七年)8月、日清戦争が勃発する。

音二郎は、この日を予想し、待っていた。

すぐさま、戦争劇を始める。

ニュース映画のない時代であり、だれもが、戦争報道を待ち望んでいた。

そこに、確かな情報を盛り込み、臨場感あふれる抜群のリアルさで音二郎の戦争劇が始まった。

観客が詰めかけ、ニュース映画の代わりとなり、歌舞伎をしのぐ力ありと絶賛される。

評判を確認すると、すぐに音二郎は現地に飛び取材する。

素早い行動力で生の現地の情報を得て、飛んで戻る。

そして、現地を再現した演劇で戦況を知らせた。

戦場にいるかのように感じた観客は、勝ち戦に大歓声だ。

 12月9日、皇太子(大正天皇)を迎えて、上野公園で東京市主催の旅順占領祝賀会が行われた。

ここで、金子堅太郎らが音次郎を推してくれ、招かれた。

皇太子の御前で野外劇「戦地見聞日記」を演じるのだ。

音次郎は晴れがましく、極度の興奮状態の中で、夢中になって演じた。

皇太子は笑顔で熱心に観られた。

大成功だった。

 (さだ)(やっこ)も一部始終を見守り、我が夫ながら晴れがましく「素晴らしい演劇です。立派でした」と褒めた。

翌年4月には、日清戦争に勝利し講和条約が結ばれた。

だが、ロシア・フランス・ドイツから遼東半島の返還を求められ、圧勝の結末とはならなかった。

日清戦争は終焉し、戦争劇はしぼんでしまう。

勢いの着いた音二郎は、5月、日本演劇の頂点、歌舞伎座での上演を決める。

音二郎と親しい市川団十郎に直訴した結果、実現した。

市川団十郎に、弟子入りを願い、実現はしなかったが、団十郎も新派に興味を持っており、以来、親交を続けていた。

それだけでは、周囲が動かず、金子堅太郎らにおぜん立てを願い、他の歌舞伎役者の了解を得るよう頼んだ。

それでも、皆賛成とはならなかったが、団十郎が反対を押し切って有無を言わせず、了解し、歌舞伎座公演が実現した。

音二郎は、歌舞伎界の雄、団十郎専用の楽屋に入り、得意がる。

(さだ)(やっこ)の人脈と音次郎の人脈は共通するところが多い。

貞奴が、にこやかに後ろに控え、時には表立って交渉することで、歌舞伎座後援が実現したのだ。

その成功を見て、音二郎は、文化人としてもっと評価されるべきだと思う。

「新派演劇の発展に尽力する」音次郎のイメ-ジは良かった。

きっとなれると思うし、ならなければならない力があった。

今まで十分自由に好きに生きてやりたいことをした。

次は音二郎を支え内助を発揮して新しい演劇を進めるのだ。

周囲は(さだ)(やっこ)が内助で我慢できるはずはないと冷たく眺めたり心配したり。

芸者をやめたことを嘆いた者も多い。

何を言われようとも「新しい門出なのだ。川上座を創る」と自信満々で意気揚々と進んでいく。

川上座建築のために、音二郎の広告塔となり資金を集め支えていく。

結婚後も、後援してくれる多くの知人がおり、助力を願う。

音次郎の歌舞伎座上演に力を尽くし実現させたのは、(さだ)(やっこ)がひいきにした歌舞伎役者の尽力も大きい。

彼らもまた、川上座を建てるために働いてくれた。

ところが、音二郎は(さだ)(やっこ)の予期した以上に自信を持ってしまっていた。

そして「川上座」の壮大な完成図を皆に言いまくるようになる。

世界を見てきた日本の新しい演劇運動の先駆者として、新派を引っ張ると自信満々となり、どこでも新しい演劇活動の必要性を唱える。

歌舞伎も含めて、演劇活動に携わる役者は、河原乞食と見なされた時代だ。

世間の評価は低く卑屈な思いで、演劇人は演劇に携わっていた。

だが、(さだ)(やっこ)は、歌舞伎役者を数多く知っている。

歌舞伎であろうと政財界人であろうと人として変わることがないと確信している。

しかも新派は歌舞伎と違いわかりやすく面白い。

新派こそ本当の演劇であり、大きく伸ばさなくてはならないと、音次郎に全幅の信頼を寄せた。

音次郎の大きな夢に無鉄砲にも同調した。

音次郎の思いは、(さだ)(やっこ)の思いだと、思い込み音二郎以上に張りきった。

こうして二人は、演劇の改良は、劇場からの改革と高らかにぶち上げた。

新派は歌舞伎に反旗を上げながらも、歌舞伎のための劇場を借りることでしか演劇できず、限界がありすぎた。

ただ土地の購入が精いっぱいで、(さだ)(やっこ)の持つ資金は充分ではない。

戦争景気で得た予想外の興行収入だったが、戦争景気が終わると次第に減っていく。

(さだ)(やっこ)は先行きが不確定で心配しながらも、劇場建設に着工する。

有り金全部つぎ込んでも建設費が足りない。

支援を願ったが、音次郎の川上座建設では、思うほどには集まらない。

やむなく、借り入れも目一杯した。

音二郎に初めての劇場建設であり、分相応に作ろうと話す。

だが、音次郎には現実が見えず、思い通りの劇場を建てることしか頭にない。

建設途中も次々注文を付け、建設費が膨れ上がっていく。

借入も限界となり、ついには高利貸しのお金まで借りた。

1896年(明治二九年)6月、3年の歳月をかけ、川上座がようやく完成する。

建坪212坪(約700㎡)。三階建て洋風建築の劇場だ。

桟敷150人、平土間572人、大入り場354人、計1076人の観客席があった。

歌舞伎座の半分程度だが、(さだ)(やっこ)は面目が立ったと感無量だった。

 だが、この程度の観客では、興行に成功し大入りとなっても、高利貸しへの返済もままならない状況なのだ。

(さだ)(やっこ)は、音次郎の理想と現実の差をまざまざと見た。

「この人を信じすぎてはいけないのではないか」と感じ始める。