貞奴、海外へ。|女優、貞奴 幾重にも花を咲かせ、咲き乱れて生きた麗人。(8)
だぶんやぶんこ
約 4847
音二郎は「とても借金の返済はできない、海外逃亡しかない。海外で興行する」と真面目に話す。
「できるはずない」と貞奴は答え、相手にしなかった。
すると、払い下げられた商船学校の全長4mのボート「日本丸」を手に入れてきた。
音次郎にも支援者はいたのだ。
貞奴は感心し「この人はすごい。面白い」と話に乗った。
明るい道が思いつかない日々の暮らしに飽き飽きしていたのだ。
同時に金子堅太郎に協力を頼み、1898年(明治三一年)8月27日、清・韓・英・仏・米の海外遊芸修業渡航免状を得る。
海外興業を成功させる決意が、渡航免状で証明されたのだ。
音二郎は、実家が船問屋も営み船は身近だった。
海外渡航の経験もあり、海には慣れている。
だが、自分の力での航行は初めてだった。
腕っぷしが強いわけでもなく、体は弱い。
貞奴は運動神経には自信があり、泳ぎは得意だ。
どんなに危険が待ち受けていようと、飛び込んで海外に行ってみたくなった。
舞台に立ちたいと願う姪、音二郎の妹の娘、シゲ11歳も行きたいと言い、ともに行くことになった。
9月、2人は姪と愛犬、福と米・味噌・しょうゆから炊事用具、衣服、海図、磁石、舷灯、浮子などなど航海用具一式を、積み込み、乗船し、出航した。
長さ13尺(4m)幅6尺(1.8m)の短艇(ボート)『日本丸』は荷を一杯積み、築地河岸から海外に漕ぎ出した。
3人はルンルン気分で、船旅を楽しんだ。
音次郎は、航海術を俄勉強しただけで、小舟で海外に渡航し公演する計画を立てた。
誰が考えても不可能なことを恥ずかしさもなく大真面目に決行する。
それでも自信がなくて、誰にも言えず、見送ったのは準備を手伝った者だけだったが。出航時は、快晴で適度な風があり、問題なかったが、すぐに、どこに居り、どこに
向かっているのかわからなくなる。
慣れない航海で、すぐに漂流してしまう。
東京湾を出ることさえできず、横須賀軍港に迷い込む。
海軍に保護された。
「馬鹿なことはやめろ」と止められるが、大見得を切って出た以上やめられないと音二郎も貞奴も言うことを聞かない。
貞奴は海軍でも有名で、知っている人がいた。
目の前に現れ、そのオ-ラに魅せられる。羨望の目で見られて特別待遇となる。
逮捕はなく、保護され、説得されただけだ。
反対に、二人は海軍の将校から海流の読み方、舵の切り方など極意を学んだ。
貞奴も必死で学んだ。
まだまだ音次郎を信頼し甘えがあった、しっかりしなくてはと自分に言い聞かせて。
こうして休養すると、3人での新たな航海を始めようと、意気盛んになる。
だが、海軍では、子供を連れての航海は絶対に駄目だと厳しく言い渡した。
そして、シゲは、警察に引き渡される。
やむなく可免に迎えを頼み、姪のシゲと愛犬、福を横須賀で預ける。
貞奴と音二郎は知らなかったが、この間、逮捕のニュースが報道されていた。
シゲと別れた二人は、密かに出立の日を決める。
拘束されてはいない自由な二人は、警備の手薄な日を見つけ、こっそり、再び、海外に向けて漕ぎ出した。
海軍も知ってはいたが、大目に見た。
居なくなると、責任を問われることがなくなり、ホッとしたぐらいだ。
どうすべきか困っていたのだ。
にわか勉強だったが、二人は航海をした。
そして、漂流しつつもどうにか、下田に着く。
すでに、絶世の美女、貞奴の無謀な海外逃避行が、新聞で大きく報道されていた。
その中で、下田に着いたのだ。
驚いた地元の人たちは、報道は本当だったのだと、大歓迎した。
二人は、厚いもてなしに感激し、礼を言い出立する。
寄り易い寄港先の目印や港の様子など親切に丁寧に教えてくれていた。
そこで沿岸沿いを進み寄港すべき時が来ると、寄り易い近くの港に入ることにする。
二人の航海を知っていたが、まさか立ち寄るとは予期していない沿岸の人たちは、ボ-トを見つけると嬉しそうに駆けつけ、貞奴が陸に上がるのを助けた。
そして、心を込めたごちそうでもてなした。
必要な物資の補充も地元の人々がしてくれる。
あまりの好待遇に、二人顔をほころばせ「もう引くに引けないね。頑張るしかない」と、上機嫌になる。
そして、礼を言い、手を振り出立する。
その様子が報道され、大きな話題となり、寄港先々で歓迎を受けることになった。
寄港のたびに、貞奴の艶姿を一目見たいと人々が集まる。
そして、航海の話を聞こうとする。
音二郎は、航海の困難さを訴える大冒険の旅を、とうとうと語る。
事実半分の迫真の演説は拍手喝采され、義援金が集まる。
ほとんどの人は、想像以上に小さく可憐であまりに美しい貞奴の勇気に魅せられた。
貞奴の思いを遂げさせたくて、協力し、支援し、船を直し、食料など補給し送り出す。
次第に、寄港を望み、待つ人まで出てくる。
学校の先生が遠足にでも行くように生徒を引き連れて見に来たり、村総出の出迎えでお祭り騒ぎになることもある。
貞奴は、予想外の展開に驚き、歓迎が窮屈になってしまう。
もっと沖に出て航行しようと言う。
音二郎は歓迎されるのが嬉しくて海岸沿いにへばりつくように行く。
こんなことでも、ケンカが続く。
海岸沿いは、浅瀬が随所にあり、座礁しやすい。
助けてくれる人がいないところで乗り上げると、少しでも船を軽くしようと二人とも船外に出て、潮の満ちるまで待ち、力を合わせ渾身の力を振り絞って必死で抜け出さなくてはならない。
疲れる。
潮流の早い相模灘・遠州灘・熊野灘に入るとどうにもならない。
二人の腕では制御できず、なすがままに、ハラハラドキドキで通り抜ける。
大型台風・集中豪雨・嵐・アシカの群れが次々襲い掛かり、何度も、死を覚悟する。
それでも「必ずうまくいく」と貞奴は、お不動様に念じた。
いくつもの危険があったが、そのたびに乗り越えた。
次第に二人は持ち前の楽天主義者に戻り、必ず、海外に行く、大丈夫だと言い合うようになる。笑いながら危機に向かい、乗り越える。
誰でもが出来る冒険ではない。天空から見守られているのだと。
だが、日が経ち、身体が震える寒い季節が来た。
蓄積疲労もあり、体力の限界を感じ始める。
もうこれ以上は無理だとあきらめた翌1899年1月2日、神戸港にたどりつく。
神戸まで約700㎞を漕いできたのだ。
漕ぐ音二郎、舵を握る貞奴は力尽きた。
音二郎は倒れ、そのまま、入院療養生活となる。
貞奴は、気丈に歓迎の嵐に応えつつ音二郎を看護するが、病状は良くならず「船になんか乗るんじゃなかった。取り返しのつかないことになった」と音次郎が亡くなってしまう恐怖に襲われ、落ち込む。
その時、国際興行師、櫛引弓人が貞奴に会いに来た。
1893年のシカゴ万博を取り仕切り有名となっていた。
その櫛引弓人が、米国巡業を貞奴に頼む。
櫛引はアメリカアトランタに、茶屋・球戯場を備えた日本庭園を造り日系人を中心に多くの客を集め、繁盛していた。
日本庭園を訪れる客が、日本の芝居を観たがったのだ。
そこで、演劇一座を招こうと、櫛引は来日し、探した。
だが、日本では海外興業に恐怖感を持つ演劇一座が多く、人気のある一座を見つけられなくて困っていた。
日本を代表すると言って恥ずかしくないほどの有名な演劇一座を招きたかったが、難しく諦めかけていた。
その時、二人の海外興行を目指す航海の報道を読んだのだ。
川上一座は有名で、アメリカに招くのにぴったりだと、是非にと頼みに来たのだ。
明治になって、海を渡った男芸人も女芸人も多いが、まだ、成功したと言われた一座はいなかった。
そんなこともあり、有名な一座は行かなかった。
音二郎は大喜びで「苦労した航海に価値があった。待ち望んだ海外興業が実現する」と躊躇なく飛びついた。
見舞いに駆けつけていた座員13名も賛成して、海外興行が決まる。
貞奴は事の成り行きに目を丸くするばかりだった。
急転直下、天と地が入れ替わったのだ。
宙に浮いているような感じで信じられない。
神戸まで駆けつけたくれた団員に感謝し、本当に海外に共に行ってくれるのか念を押す。皆、大賛成だと言ってくれた。
今までの苦労が報われたと嬉し涙がでた。
命これまでと何度も覚悟した航海だったが、不満足な形では会っても、無事、神戸まで来た。
すると、音二郎が夢見た海外公演の道が急に開けたのだ。
無謀な逃亡劇をあざ笑った連中の鼻を明かした気がした。
大手を振って海外に渡れるのは、小気味よかった。
櫛引弓人は、川上一座についていろいろ聞いていたが、間近に見た貞奴の美貌に釘付けになった。
貞奴が居れば必ず興行は成功すると、笑いがこみ上げ、今までの悩みがウソのように気分上々で、元気になった。
音二郎も見違えるように元気になった。
そして、内地でのお別れ公演と称して、洋行送別演劇を上演する。
東京には戻れず神戸愛生座・京都南座・大阪中座での興行となる。
川上座の人気は健在だった。
しかも、漂流話は超有名で、その延長の海外公演、そのためのお別れ公演と人気沸騰の筋書きができていた。
新聞は騒ぎ立て、公演は大成功だった。
無理をして自前の劇場、川上座を持ったことと、選挙資金を借り入れたために、借金がかさみ、夜逃げとなっただけだ。
東京の借金取りも神戸までは追いかけて来ず、洋行送別演劇で得た収益をすべて海外公演のために使うことが出来た。
大道具小道具衣装と準備が整う。
渡航費用は櫛引弓人が出し、出航だ。
貞奴は28歳。
ずっとずっと、アメリカに行きたかった。
桃介が憧れ貞奴を裏切ってまで行ったアメリカを見たかった。
想い焦がれていた夢が実現するのだ。
興奮し、観光旅行気分で、ルンルンで旅支度した。
貞奴の顔が光り輝き、周囲まで明るく照らし、海外公演はきっと大成功だと、皆に勇気を与え、多くの餞別を得た。
知名度も才能もある二人だからこそ、港々で人気を呼び、興行師を呼び寄せたのだ。
どんな悲惨な状況でも必ずどうにかなるという開き直り、陽気で派手な行き当たりばったりが、成功した。
貞奴と音二郎「これからも二人でいれば、どんな困難も乗り越える。必ずできる」と手を握る。