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白のカラーシャツ・ブラウス

淺野マリ子


約 3708

2019年12月、中国の武漢市での原因不明の肺炎症状が報じられて、今年2022年で3年を迎える今。


私の人生においても、コロナ禍に符合するかの様に、2019年からの毎日の生活様態に変化を受け入れなくてはならない状況に陥った。


然し、変わらないのが、平均して、6時15分過ぎの目覚ましに、「朝ですよ」と起こされた私は、先ずは、鏡で、顔色を確認後、歯磨き、洗顔を始める。


毎日、体重を計測した後に、ハンガーにかけてある「白いカラーシャツ・ブラウス」に、迷うことなく袖を通すのである。

自分でも何故これほどまでに、拘りを持っているのか、毎日が日曜日になった私は、その
動機となった経緯を、振り返ってみたいと思った。

生前、母親は、幼少時の話題に、必ずや、7か月の未熟児ながら、疎開先で生を授かった私を、幼児期から常に白地の生地で育てたいという想いを持っていたそうだ。

疎開先で「お母さん、男の子ですね。跡継ぎが出来ておじいちゃんが喜んでるでしょうね」と、言われたという幼少時期の話を何度も聞かされた。

女系家族だった生家は、祖父を始め、特に父親の期待は大きかったと思うのは、私が成長するにつれ「出来れば、この子が男で生まれてほしかった」と父親に、ことあるごとに言われた母親は、未熟児で、病弱な小学校時代の私に苦しんでいたと聞く。

地元の中学校の体育の時間に耐えられないと考えていた母親は、当時、1時間をかける
岡山市内のミッションスクールを父親に希望した。

そのミッションスクールの体育の時間は、動きの激しいのはテニスぐらいで、ダンス程度で、体操の時間は、昔のブルーマーではなく、制服のスカートを使用するといった次第で母親が、選んだミッションスクールの中学校は、通学時間の長さを除けば、正解だった。

然し、毎週月曜日の朝、玄関先で、シスターによる制服のチェックが待ち受けていた。
冬でもコートを着ないでも済む温暖な岡山では、4月の入学式には、真っ白いブラウスを着用しての通学である。

「グッドモーニング、シスター」への挨拶、シスターの手が制服の白い襟に手が伸びる。
「アイロンをかけて来ましたか」と、現在のように、ノーアイロンの繊維はなく、必ずや
糊を付け、アイロンをかけなければ、すぐに見抜かれてしまう時代である。

更に、スカートはプリーツでこれまた、毎晩、布団の下に敷いて、畳の跡が残っているようなスカートで、毎朝、ふるさとの駅である、現在は浅口市の鴨方駅を、7時3分発の、煤煙がモクモクの列車に乗って通学していた。

この、当時の山陽本線に暖房は効いているが、冷房の記憶はなく、桃の花や菜の花や桜の
季節になるや、煤煙が目に入ってくるのを注意しながら、窓を開けてしまいたくなる。
真っ白に洗ったはずの白いブラウスの襟や袖口が、瞬く間にグレーに変わって居る。

帰宅するや、着替えを済ませた私の制服の白いブラウスを母親は、洗濯桶に流し台と石鹼を抱え、ごしごしと力いっぱいに洗い始める姿は、忘れない母親の愛情と潔癖さを強く感じた中学校時代を過ごした。

高等学校1年生まで、岡山のミッションスクールに在校していた私だが、当然高等学校になると制服も変わり、白い襟だけを残すワンピースに変わった。

大学までの一貫教育校であり、順調に高等学校を過ごす予定であった17歳の私に、家庭の事情で、私だけが上京して東京で、残りの2年間の高校生活を送ることになった。

2年間の通学時、東京の風の冷たさに、コートの必要性を知らずに、岡山の学生生活を過ごしてきた私には、東京での新生活にも不安を覚えと共に、辛く身に堪えた。

心優しい友人が私に、せめて、マフラーぐらいはと、ピンクのマフラーで私の首元に結んでくれた時の、何と温かく、友人の心遣いが嬉しく、今も親しく付き合っている。

そして、相変わらず、岡山にいる母親からは、健康のバロメーターは「白い下着」にも
現れるから、毎日、体調管理に気を付けるようにとの手紙で、こと細やかに私を常に案じていた。

心の片隅に母親から刷り込まれた「白」に対する教育は、忘れないものの、男女共学の
大学に入学した私は、病弱なくせに、将来は新聞記者の夢を持っていた。
何時しか、私の中で、「白」以外の色彩にも関心を持ち始め、「白」からいつしか解放されたいという反動があってか、あらゆる色彩や柄の洋服を着よう、着てみたいという想いが芽生え始めたである。

女子学生が僅か、1割という少数もあってか、異性の反応を意識してか、競争意識が芽生えたか、当時の気持ちがどちらかと思い出そうとするが、残念ながら、どちらも該当する。

やがて、社会人としてスタート後も、まだ、あらゆる色彩への挑戦は終わりを遂げないままで過ぎてしまった。

出版社に勤めながらも、服装に関してはどこか、本来の自分とは違うという居心地の悪さを持ち続けていたが、結論を導くまでにはいかなかった。

忘れもしない、私が30歳になった時、自宅に時代の流れを思いださせる柳行李と段ボール箱が数個、運送会社から届いた。

父親からの荷物で、何らかの連絡もなく、私にとっては、いわば「青天の霹靂」である。

大病を患い年齢的にも経済的にも、両親の不安な気持ちを察すると、狭い我が家ではあるが、両親を迎え入れるためには、私の細腕にかかっていた。

蓄えてきた貯蓄を使い、私は、両親と住む決断をしたものの、経済的に、限られた収入では乗り切れないと、今の年齢から考えると、経済的にも、これまでのキャリアを生かして
賭けにも近い決断をした。

編集部時代の割り付けを、美術の世界にも活用できるのではないかと思いついたのである。
設計の段階から、美術品を組み込んで、建物を一体化することを思いつき、父親の友人が設計関係の仕事に関わっていることから、紹介先に私は、幾度となく足を運んだ。

その際に、ある経営者に、「今、まだ、あなたが努力していることに対して、社会の目は、
女性が起業することは、残念ながら世間はスポンサーがいるといった興味本意の色眼鏡でしか見ないから、余計なことかと思うかもしれないが、出来れば、女性特有の服装でなく、男性社会に紛れるような服装を勧めるよ」と、私の表情を気遣いながら話してくれた。

その時はピーンと来なく、暫く考えているうちに、本来であれば私は、1945年5~6月に、神戸で生まれて居たが、神戸も近いうちに戦火に襲われるという事情から、父親のふるさとの岡山に疎開したわけである。
父親から神戸の三宮には、紳士服地専門店が多くあったと聞き、ガード下で戦前から商いを続けている店を見つけた。

早速事情を話すと、男子一着分では、女性用のスーツと、スカート、あるいはベストができるとのアドバイスに、更に、私の体格から、商い後の「裁ち落とし」で良ければ、引き取り先がないので、ブランド商品でも、300円から1000円程度でと、数日後に、現物を送ってくれたのである。
幸いに、自宅の近くに、紳士服地で婦人服に作れる伊藤茂平出身の洋裁店があり、取り敢えず、届いたスーツ地で、女性用のビジネススーツを依頼した。

仮縫いの際に、私の来ているブラウスと袖口について、細かく、数本の待ち針をいれているので、私は気になり、尋ねた。

「スーツの際は、ソフトなブラウスでなく、男性用のワイシャツを着用した場合、洋裁店から、スーツのジャケットの袖口から、ワイシャツが1センチ長く見えるのがベストですから」と遠慮がちに話してくれた。

「わかりました。今後は私も、『カラーシャツ・ブラウス』を着用します。できればどんなスーツにも「白」がベストですね」と返事を返しながら、これで、私のビジネスのマイスタイルは決まった。

今後、美術を商いとしていく私には、自分を引き立たせるのではなく、絵画を始め、彫刻にしても、商品である美術品が主役である。

自分にまとう服装を抑えることにより、「白のカラーシャツ・ブラウス」を着ることによって、不思議に背筋がピーンと伸びるというか、私を整える「色」であると、自覚した。

「白」は母親から、どんな色にも染まりやすい色ということは、何時までも「白」であることには、自分を厳しく律しなければできないと、諭すように話した母親の真剣なまなざしは、将来を案じて、私への心の大切な教育であったと今、有り難く思っている。

今後、歳を重ねても、「白いカラーシャツ・ブラウス」を通して、私の永遠の「心の指針」になり続けるであると確信している。

今日も私は「白のカラーシャツ・ブラウス」を着用して、相棒のパソコンに向かって
間もなく喜寿と言われる77歳を迎える私は、これまでの拘りも文字化する方法によって、収束し、気ままに自分の想いを打ち込んでいる。